外交評論家・清沢洌の著作『現代日本文明史第三巻 外交史』に、「日本外交を貫くもの」と題する一文がある。
同書は、昭和16年6月に刊行。アメリカとの開戦やむなしとする論調に対し、論調を冷淡に分析している。
日本の外交に対する気質として、3点挙げる。
ひとつ目。外交は物理的原則が働くそうである。
一国の外交は、特に飛躍することもあるし、時に退嬰(たいえい)的なこともある。だが餘(あま)り飛躍しすぎても、餘り退嬰すぎても、結局は物理的原則により水平なところまで帰って来る。そしてその水平は、厳にその国の実力の線に沿うのである。
仮にこれを物理的運動といってみよう。外交史は、この運動の叙述である。 日本の膨張と発展は厳に、日本の国力に随って進んだのを見るべきだ。
絶えざる膨張を目がけながら、しかも国力がこれを支持出来ぬような線へ逸脱しないことを心がけるのが政治家と指導者の任務だ。この点で日本は、殊に明治年間において誠実にして聡明なる政治家に恵まれていた。 彼らは一方に無責任なる輿論に叩かれながら、そして時々に暗殺の危険に面しながら―実際また凶手に斃れた者が多かった―冒険に赴くことを拒絶した。 この点は、鶴見俊輔や司馬遼太郎などの著作でも触れられている。
日露戦争終結までの政治指導者たちは、リアリズムを徹底しポピュリズムに流されなかった。
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民間輿論の強硬 二つ目は、民間の輿論が強硬であると清澤は述べる。
日本の外交を通観して第二に感ずることは、民間の輿論が常に強硬で、政府の政策が常に慎重であったことだ。幕府の外交に始まって約90年の間、外交軟弱を以て攻撃されぬ政府を、われわれはただ一つも―恐らくは第一次、第二次近衛内閣を例外として―指摘することは出来ぬ。 外交の別名は悉く軟弱であり、且国民的憤慨の標的である、(途中省略)
これは、わが国における特殊現象として注目を要する点だ。 清澤は、その原因について考察する。様々な要因を挙げるなかで、丸山眞男と似た指摘をする一文がある。
また特殊な開国事情から、商業取引的訓練なくして直ちに国際政局に飛び込んだ関係から、外交を1個の取引と見ることが出来ず、勝敗強弱の観点からのみ観ることも、その一理由とするこが出来よう。 外交目的は強硬にさえ出れば達せられる、外交の実があがらないのは強硬に出ないからだというのが、幕末以来の一貫した民間常識であった。
その理由は何れにもあれ、対外硬が一貫してわが国、民論の基調を為して居ることは事実である。この民論はその性質上、無責任で観念的だ。
だが、これが国民層に深く喰い込んで居る関係から、これを無視してしまうことは全く不可能である。 わが国の外交は、この特殊な国民的感情を外にして考うることは困難だ。
この感情の弱点は、進んで止まるところを知らぬ点である。妥協は卑屈の代名詞であり、譲歩は敗北の別名であると考うるところに、余裕のある外交は生まれない。
そこにはまた前にあげた物理原則から逸脱して、国力以上の冒険に進み、国家の犠牲を非常に大ならしむる危険もあるのである。 この外交に関する国民輿論の傾向は、過去において問題であった如く、将来の日本外交に大きな問題を投げかけるであろう。 同書の刊行は昭和16年6月。上述した一文に、「国力以上の冒険に進み、国家の犠牲を非常に大ならしむる危険もあるのである」がある。
同書が出版された半年後、日本はアメリカ・イギリスなどの連合国との開戦に踏み切る。国力以上の冒険である。
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外交と人的要素 三つ目。清澤は外交を見る場合、対処する人にも注目せよという。清澤は述べる。
一国の外交は国内政治の対外的表現だ。その動きは厳格に国内事情と、その実力によって制約される。同時にまた外交は国際政治の対内的表現でもある。その動きは国際政治の現実を飛び越えたる自由飛躍を許さない。
こうして筆者は国際関係に一つの必然的な約束を認める。そしてその約束の最も大きな力が経済力であることを承認する。 外交において、経済力は大きな要素であるらしい。清澤が述べる「実力」とは、経済力のことであろう。経済力は制約する効き目にもなるようだ。
外交を観る場合、その局に当った個人の見識と技両がその後の影響に非常に大であることは、その時の経済的要因とは別に考えられなくてはならない。 清澤は日本の来し方についても、次のように指摘する。
国際政治と、国内事情と、人的要素の三つが、からみあい、因果しあって日本は発展膨張の一路を辿って来た。我等はこの一つをも軽視し無視することは不可能である。
陸奥宗光や小村寿太郎、幣原喜重郎などは困難な外交をこなした。だが、国民感情からすると芳しくない。軟弱や卑屈、譲歩と評される。
清澤によると、国際関係の問題は総合的知識を必要とする。「総合(ジェネラル)」は、司馬遼太郎も『昭和という国家』で指摘している。
日本のリーダーに足りないものは、「総合」なのかもしれない。
現在、国政の表通りで威勢の良い言動をなさる議員さんが目立つようになった。
メディアもそうした人々を取りあげる。繰り返し見せられることで、普通になってしまいそうだ。そうした状況に、違和感を覚える。
この論考は、昭和16年の様相を念頭に記されている。
清澤が指摘する本質は、現代も変わらないのでは? といった思いを強くしている。
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参考文献『現代日本文明史第三巻 外交史』(清澤洌・東洋経済新報社・昭和16年)
『昭和という国家』(司馬遼太郎・NHKブックス・2000年)
「昭和」という国家 - 司馬 遼太郎『戦時期日本の精神史1931〜1945年』(鶴見俊輔・岩波現代文庫・2015年)
戦時期日本の精神史: 1931〜1945年 (岩波現代文庫) - 鶴見 俊輔, 加藤 典洋
posted by 山川かんきつ at 12:56|
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