2025年03月16日

アメリカ戦略爆撃調査団の文書

 今月9日付朝日新聞の「戦後80年 空襲消えない爪痕」に目を通して、違和感をおぼえる記事があった。

 戦後、日本の空襲被害を詳細に記録したのは米国戦略爆撃調査団だった。空爆がどのように日本を敗戦に追い込んだのかを政治、経済、軍事などを多角的に調べたが、あくまで空襲の「戦果」をはかる目的だった。

 記事を書いた記者さんは、調査団作成文書に対してネガティブな評価を下しているようだ。「あくまで空襲の戦果をはかる目的だった」に違和感をおぼえる。

USSBS文書
 米国戦略爆撃調査団は、「United States Strategic Bombing Survey」の日本語訳。
単語の頭文字をとって、「USSBS」と呼ぶ。
1945年9月から12月にかけて日本各地で調査をおこなっている。日本関係者への資料提出と尋問などで集めた膨大な資料をもとにして1946年7月にかけて報告書を作成している。その数108巻。

 同調査団が作成した「Summary Report」と題する文書がある。
国会図書館は、「最終報告書」と訳しているが、「要約報告」または「概報」とした方が良いのではないかと筆者は考えている。
108巻の報告書のうち数巻に目を通したのだが、「Summary Report」は全文書の要約版といった印象を受ける。

 「Summary Report」の緒言で、文書作成の目的を記す。抄訳してみる。

 この調査団の使命は、ドイツに対する米軍の空爆効果を公正にして専門的に研究すること。それを対日空爆にも適用して、軍事戦略上空軍の重要性と可能性を評価すること。
米軍のこれからの進歩発展に役立てること。国防に関する将来の経済政策を決める上で、必要な基礎を作ることにあった。


 同文書はつづける。

 こうして調査団は、戦時日本の軍事計画と実施の多くを再現した。また、各産業や各工場に関して日本の戦争経済や戦時生産について、正確な統計を入手できた。
日本の国家戦略計画や戦争突入の背景、無条件降伏の受諾にいたるまで、国内の論議や交渉、民衆の健康と戦意の推移、民防空組織の効率性、原子爆弾の効果など各種の研究が行われた。


 調査団は日本の武官、文官、産業人など700名以上に証言を求めた。多くの文書を接収し翻訳。これらは調査団にとって有益なだけでなく、他の研究にとって貴重な資料となるだろう。

 緒言はこう結ぶ。

その企図は、民間人の職員として調査団の収集した事実の資料を分析し、将来のために全般的評価を下すだけである。

 同調査団の報告書「Summary Report」は、読み応えがある。咀嚼するのに時間がかかっている状態である。108巻もあるのだから、めまいがしてくる。
また、同調査団が報告書を作成するために集めた文書(作成用資料)に貴重な資料がある。

 たとえば、門司鉄道局鹿児島管理部が作成した文書である。
昭和20年4月8日から同年7月31日までの間に受けた、空爆被害を記した文書がある。
また、昭和20年9月・10月時点の列車運行状況を記した文書など。
鹿児島県内の図書館で目にすることのできない資料である。

 USSBS文書は、同時性をもった貴重な一次資料である。
先述の朝日新聞の記事である。同紙は低い評価を下している。USSBS文書に劣らぬ報告書を日本側が作っていれば記事に納得するかもしれない。
残念ながら日本側に、こうした報告書を作成した様子はない。

 朝日新聞の記事は、こう結ぶ。

 戦後80年となり空襲を知る人が減る中、その実態や真実を伝えていく上で記録に基づいた調査はより大切になってくるだろう。

 この文章は納得いく。
「記録に基づいた調査」をするため、USSBS文書は欠かせぬ第一級資料である。
 
参考文献
「戦後80年 空襲消えない爪痕」2025年3月9日付朝日新聞
posted by 山川かんきつ at 07:10| Comment(0) | 各都市への空襲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月11日

変わりつつある戦災報道

 昭和20年3月10日の東京大空襲に関する新聞記事である。
今月7日付讀賣新聞の編集手帳と今月9日付朝日新聞に目を通して考えた。

 従来ならば、「1945年3月10日未明、米軍機による焼夷弾断の投下で・・・」と、報道されていたのだが、今回は具体的な日時を記した。

1.編集手帳
 午前0時15分、空襲警報が発令された。だが、その7分前、深川ですでに火の手があがっていた。東京大空襲はこうして始まった。警報解除は午前2時37分。


2.朝日新聞「黒こげ遺体そこら中に」
 空襲警報が鳴ったのは、B29が最初の焼夷弾を投下した7分後、1945年3月10日午前0時15分。


 空襲警報発令時刻は、『東京大空襲戦災誌第3巻』の通りである。これらの時刻は、どのような記録をもとにして記事を書いたのだろうかと。記事に引用先を記されていない。
このような記事は、他紙でも見受けられる。字数制限もあって引用先を明記しないかのか、新聞記事の場合は記さなくても構わないのか。違和感をおぼえる。

東京大空襲戦災誌第3巻
 『東京大空襲戦災誌第3巻』に、昭和20年3月10日の空襲について日本側の記録を基にした記述がある。

 3月10日
 空襲     0時8分
 空襲警報発令 0時15分
 解除     2時35分
 警戒警報解除 3時20分
 警戒警報発令 10時10分
 解除     10時50分

 第21爆撃機集団の作戦任務報告書40番から少しばかり引用する。同文書の「集約統計表によると、初弾投弾時刻 0時7分 最終投弾時刻は午前3時。
空襲警報が2時35分で解除されている。違和感が残る。
 平均爆撃高度
 第73航空団  7,400フィート(約2,200メートル)
 第313航空団  6,400フィート(約1900メートル)
 第314航空団  5,400フィート(約1600メートル)

 昭和20年3月10日は、これまでの高高度爆撃から低高度爆撃の開始日だった。
『Tactical Mission Report no.40』の前書きに、低空爆撃のメリットが記されている。
 @気象上の条件がよくなる
 Aレーダー装置が使いやすくなる
 B爆弾搭載量が増える
 C整備が一層簡単になり改善される
 D爆撃精度がよくなる

 前書きはつづける。
 この計画の奇襲的な要素を生かすため、可能な限り低高度飛行に対する防御対策を施させないため、爆撃目標に4つの都市を選び一晩おきに空爆することにした。
選ばれた目標は、東京・名古屋・大阪・神戸の市街地である。

 これらの都市が爆撃を受けた日は、3月10日から19日までの連続5回。夜間に行われている。これから、4都市の空襲を調べようとする方にとって参考になればと思う。
 
 空襲被害を伝える報道が、具体的な数字を記すようになった。実証的に描こうとする兆しかもしれない。


参考文献
2025年3月7日付讀賣新聞・編集手帳
2025年3月9日付朝日新聞・「黒こげ遺体そこら中に」「空襲消えない爪痕」
『東京大空襲戦災誌第3巻』(東京空襲を記録する会・1975年)

東京大空襲・戦災誌 全5巻セット - 『東京大空襲・戦災誌』編集委員会
東京大空襲・戦災誌 全5巻セット - 『東京大空襲・戦災誌』編集委員会

『東京を爆撃せよ 米軍作戦任務報告書は語る』(奥住喜重・三省堂・2007年)

東京を爆撃せよ 新版: 米軍作戦任務報告書は語る - 奥住 喜重, 早乙女 勝元
東京を爆撃せよ 新版: 米軍作戦任務報告書は語る - 奥住 喜重, 早乙女 勝元

『Tactical Mission Report no.40』(アメリカ第21爆撃機集団)
posted by 山川かんきつ at 11:46| Comment(0) | 各都市への空襲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月08日

昭和20年3月18日 桜島上空ドッグファイト

 1945年3月18日午前6時45分、空母フランクリンからコルセア8機とヘルキャット2機が発進。鹿児島と出水の両航空基地撮影と戦闘機掃討の任務を帯びていた。

franklin 19450318 VMF-5 1-45.jpg

 第一撮影目標は出水航空基地だったが、曇りのため撮影できず。そのため、第二目標の鹿児島航空基地へ向かった。同航空基地と鹿児島湾内の船舶を撮影。
コルセアとヘルキャットは、出水上空を後にして鹿児島市上空を目指した。

敵機遭遇
 米軍機が鹿児島市上空へむかう途中、2ヶ所で敵機を発見、交戦している。

@ 5 mile south of Izumi(出水南方5マイルの地点)
 午前7時50分、Oscar(隼)を視認。
 
Three (3) Oscars were observed approximately five miles south of Izumi but they darted into the clouds and were gone.
 抄訳する。3機の隼を出水の南方5マイルで視認したが、敵機は雲の中に飛び込んだ。

A Over volcano in Kagoshima Bay(桜島上空)
 午前8時10分、米軍機は桜島上空11,000フィートで、零戦10機と遭遇。

 The sweep then returned from Izumi and encountered ten (10) Zekes over the volcanic in Kagoshima Bay at 11,000 feet.

A dogfight then continued for about ten minutes in which seven (7) of the ten (10) Zekes were shot down by our planes.
 抄訳する。
約10分間の戦闘で、零戦10機のうち7機を撃墜。

 Many of their pilots were seen bailing out.
 多くのパイロットが脱出するのを目撃した。

 作戦は、1945年3月18日に行われたのだが、空母フランクリンは翌日に被弾。この日に撮られた写真は失われたと、「AIRCRAFT ACTION REPORT」は記す。

 当ブログで、昭和20年3月18日に関する記事を掲載した。鹿児島航空基地攻撃を中心に書いた。同日に行われた空襲のほんの一部である。
昭和20年3月18日の空襲は、四国の一部と九州各地の飛行場が同時多発的に攻撃されている。

 鹿児島市の空襲、鹿屋市の空襲といった地域毎に描くのもよいが、九州全体を意識するのも必要と思う。この日の空襲について、メディアで取り上げられる機会は少ない。
そのため、同ブログでとりあげてみた。

関連ブログ
昭和20年3月18日 錦江湾上の米軍救難機
 (http://burakago.seesaa.net /article/511095623.html

昭和20年3月18日 列車銃撃・鹿児島
 (http://burakago.seesaa.net /article/510725449.html)

昭和20年3月18日 午後の空襲 鹿児島市
 (http://burakago.seesaa.net /article/503381559.html)

鹿児島市田上町の山中に墜落したグラマン機
(http://burakago.seesaa.net /article/503089160.html)

鹿児島市真砂本町の不発弾について
(http://burakago.seesaa.net /article/502692949.html)

鹿児島市真砂本町の不発弾
(http://burakago.seesaa.net /article/502589768.html)

昭和20年3月18日の空襲 鹿児島市
(http://burakago.seesaa.net /article/489108677.html)
posted by 山川かんきつ at 21:25| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年03月04日

昭和20年3月18日 錦江湾上の米軍救難機

 吉田裕著『日本人の歴史認識と東京裁判』に、次のような記述がある。

 私はこれまで、兵士の回想記などをかなり多く見てみたのですが、その中でよく目にするエピソードがあります。太平洋の孤島で米軍機が日本軍機によって撃ち落されると、搭乗員がパラシュートで下りてくる。そうすると、アメリカの場合は潜水艦や飛行艇等が救助に来るんですね。アメリカというのはやっぱり人命を大切にする国なのだな―そういう実感を持ってその光景を眺めていた人たちがいます。

 吉田先生は、太平洋に浮かぶ小さな島での出来事を戦争体験談から紹介する。撃墜された航空機を救助に向かう米軍。これは1945年3月18日付「AIRCRAFT ACTION REPORT」に記録されている。しかも、錦江湾(鹿児島湾)上である。

■空母ホーネット
 1945年3月18日午前8時15分、空母ホーネットから20機のヘルキャットが発進。
攻撃目標は、鹿屋航空基地と指宿水上基地、鹿児島湾上の船舶。鹿屋基地に対して2度目の攻撃を仕掛けた際、事件は発生した。

 While making the second strafing attack on the field, Ens. John P. WRAY, (A1), USNR, File No. 368879 was evidently hit by enemy anti-aircraft fire. His plane was seen to go down smoking, but he made a successful landing in KAGOSHIMA BAY at last. 31-13-30N, long. 130-44-00E.
Air-Sea rescue procedure was instituted immediately and planes orbiting saw WRAY leave the plane and get into his life raft. Orbiting planes were forced to leave the scene of the crash by gasoline shortage prior to the arrival of the rescue seaplane.
The seaplane arrived and picked up another downed pilot approximately 5 miles SW reported position and searched the area for others with negative results.

 抄訳してみる。
 鹿屋飛行場に対する2度目の機銃掃射中、John. P. WRAY大尉機に対空砲弾が命中。
同機は煙を吐きながら墜落。鹿児島湾の北緯31度13分30秒、東経130度44分00秒に不時着水。救援機が即座に行動し、着水上を旋回しながら大尉の救命ボートを確認。
しかし、救援機はガス欠のため現場を離れなければならなくなった。
飛行艇が現場海域に到着。大尉ではなく別のパイロットを南西5マイル地点で救助。
その後、同エリアを捜索したがWRAY大尉を発見できなかった。悲観的な結果となった。

 WRAY大尉が不時着水した「北緯31度13分30秒、東経130度44分00秒」をグーグルアースで確認する。指宿水上基地と現南大隅町との間の海域だった。

 戦争体験談を読み直せば、この事件の目撃談を見いだせるかもしれない。
空襲被害を調べている先達の研究に目を通していると、戦争体験談を読み込んでいるのが分かる。米軍資料と戦争体験談を照らし合わせながら、戦争の実態に迫るより方法がない。
日本側の資料があればよいのだが・・・。


参考文献
『日本人の歴史認識と東京裁判』(吉田裕・岩波ブックレット・2019年)
「AIRCRAFT ACTION REPORT REPORT No.33」
posted by 山川かんきつ at 06:19| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月24日

昭和20年3月18日 列車銃撃・鹿児島

 前回、西鉄電車銃撃についてふれた。
アメリカ海軍資料の『AIRCRAFT ACTION REPORT』(艦載機戦闘報告書)によると、鹿児島県内でも列車に対する機銃掃射が行われていた。
今回は、昭和20(1945)年3月18日の鹿児島航空基地に対する攻撃を記した文書をもとに記してみる。

19450318 kagoshimaAF battan.jpg

昭和20年3月18日 鹿児島航空基地
 午前5時30分、空母ハンコックから発艦したコルセア16機は、鹿児島航空基地を目指した。13機が機体組立工場を攻撃。この工場は、おそらく第22海軍航空廠鹿児島補給工場と思われる。

 帰路、2ヶ所で汽車に対して攻撃をおこなっている。
@Uzaki
A locomotive at Uzaki, 9miles Southwest of Kagoshima, was strafed and rocketed. Damage was unassessed.
A locomotive was attacked in the station at Uzaki by a two plane section lead by lieut,(Jg)EBERLE.


 直訳すれば、鹿児島市の南西9マイルのUzakiで、汽車に機銃掃射とロケット攻撃。損害は不明。
EBERLE中尉率いる2機が、Uzakiにある駅で汽車に機銃掃射。

 おそらく、鉄道は南薩鉄道と思われる。米軍作成地図をみると、現在の南さつま市周辺に「Osaki」とある。「薩摩万世駅」と考えているのだが、同地は鹿児島市から14マイルから16マイル離れている。同駅でないかもしれない。

kagoshima pref map.jpg

AZuka
A locomotive and freight train was rocketed and strafed at Zuka. The train stopped and clouds of steam was seen to envelope locomotive.

直訳してみる。Zukaで汽車と貨車にロケット攻撃と機銃掃射。汽車は停止し蒸気で覆われた。

 文書のいう「Zuka」が、どの地域を指すのか不明である。この日、伊集院駅に向けて走行中の列車が攻撃を受けたとする体験談がある。それと関係があるかどうか、いまのところ不明である。
「Uzaki」と「Zuka」を確認するために、当時の記録が欲しいところである。

加治木・国分間で機銃掃射
 14時15分、空母バターンを発艦したヘルキャット8機は、鹿児島航空基地を目指した。同飛行場で戦闘機掃討を目的に飛来したのだが、敵機はなかった。出水航空基地攻撃へと向かった。その帰路のことである。

 A train was strafed between Kokubu and Kajiki, Kyushu, with undetermined result.

直訳すると、国分・加治木間で列車に機銃掃射したが、戦果は未定。

 機銃掃射は、午後4時から5時の間であろうと思われる。門司鉄道局鹿児島管理部が、記録を残していたであろうと推測するが、まだ文書を見いだせていない。
できれば、当時の記録が残されていればよいのですが…。

鹿児島市で列車に機銃掃射
 14時30分、空母フランクリンから発艦したヘルキャット2機とコルセア6機は、出水と鹿児島との両航空基地をめざした。これらの基地を撮影するためである。
出水基地を攻撃後、鹿児島市上空に差しかかった時のことである。

 While returning to base two trains were sighted north and east of Kagoshima airfield.
All eight planes strafed and steam explosions of the locomotive resulted.


 直訳する。
 帰還途中、鹿児島飛行場の北と東で2本の列車が目撃。8機が機銃掃射を行い、機関車は蒸気爆発を起こした。

 「鹿児島飛行場の東」は、分かりかねる。大隅半島を走る列車を指しているだろう。
今回は3例あげてみた。当時、鉄道被害を記録した文書が発見されるかもしれない。
米軍の資料と突き合わせることで、空襲の実態が分かってくるだろう。

■関連記事
 「昭和20年8月8日 西鉄電車銃撃
 http://burakago.seesaa.net/article/510513035.html
posted by 山川かんきつ at 22:02| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月19日

昭和20年8月8日 西鉄電車銃撃

 先日、毎日新聞で「伝承顔が見えてこそ 終戦直前西鉄電車銃撃犠牲者資料なく」を読んだ。
昭和20年8月8日、福岡念筑紫村(現・筑紫野市)を走行中の電車が米軍機から銃撃され、多くの乗客が亡くなったそうだ。

 記事によると、被害をつづる当時の記録が見当たらないらしい。死傷者数についても明確にならないそうだ。同教委は、事実を掘り起こそうと、電車の乗客や遺族、目撃者の聞き取り調査に乗り出している。
そんなか、市教委は米国立公文書館で作戦報告書を入手。電車を攻撃したのが、沖縄県の伊江島から発進したP51戦闘機マスタングであったことがわかった。

 こうやって、少しずつ空襲の実態がわかってくるのだろう。鹿児島市の空襲被害を聞き取り、犠牲者を明らかにした書物がある。『あゝ四月八日 田上の空襲の記録』。
同書は、昭和20年4月8日に発生した鹿児島市空襲を記している。
この日、鹿児島市田上町で爆撃があり100余名の死者が出ている。遺族の聞き取りをもとに、氏名や被弾場所などを一覧表にしている。貴重な記録である。

 『鹿児島市史第2巻』と『鹿児島市戦災復興誌』は、この日の空襲を「米軍機数十機は・・・」と曖昧に記す。アメリカ陸軍第21爆撃機集団の文書『Tactical Mission Report』によれば、B29爆撃機が攻撃していた。
当日の天気は曇り。機影を見た者は、いなかったと思われる。鹿児島日報の記事は、「雲上より盲爆を・・・」と記す。

 『あゝ四月八日 田上の空襲の記録』によると、当時の田上町は農村地帯。詳細な情報が市民に入らないため、さまざまな憶測が飛び交ったようである。
当時の市民たちが、情報をどのように得ていたか。流言飛語も含めて調べてみたいと考えている。

 昭和20年8月8日に話を戻す。
筆者は、アメリカ陸軍第7航空軍、同第5航空軍の資料を持たない。そのため、沖縄基地を発進した米軍機の動きはわからない。そのため、艦載機とB29の動向をさぐっているところである。

筆者の持つアメリカ第5航空軍の資料に「Strafing mission」題された文書がある。
1945年8月8日に、次のような記述がある。

 9 Sorties. Strafed U/I factory building at Takase RR junction 32°55’N-130°34’E.
Hit on factory at Yatsushiro, 32°30’N-130°37’E.
2 strafing passes on U/I factry at Marushima(32°12’N-130°24’E)

 ご当地の方は、これらの空襲についても調べると良いかもしれない。
当時の米軍は九州をひとつの島と見ていたようである。1945年5月15日作成の文書に、「Kyushu Island」とある。
 九州各地の空襲を調べる際は、九州への攻撃といった視点も必要かもしれない。


参考資料
「伝承顔が見えてこそ 終戦直前西鉄電車銃撃犠牲者資料なく」(2025年2月11日付毎日新聞)
『あゝ四月八日 田上の空襲の記録』(田上の空襲を記録する会・1984年)
posted by 山川かんきつ at 10:23| Comment(0) | 各都市への空襲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月13日

戦前・戦後の断層

 昭和43(1968)年に、鹿児島県明治百周年記念式典が行われたそうだ。
想像するに、大きなイベントだったのではないか。地元メディアは、維新の大業として連日にわたって報道したと思われる。

 そのような中で、明治維新を冷静に見ていた人物が2人いた。『明治百年と鹿児島』と題する一冊に掲載されている。
ひとりは、篠崎五三六さん。当時、鹿児島女子短期大学で教鞭をとられていた方である。略歴を見ると、旧制中学校長を歴任するなど長く教育に携わっている。

戦前戦後の断層 篠崎五三六
 政府は、国としての明治百年記念行事を、「過去百年の事績を回顧し、次の百年への希望をこめて国民の決意を新たにする機会とする」という立場で企画実施するという。そして「封建時代から脱却し、近代国家建設という目標にむかってまい進した、世界史にも類例をみぬ飛躍と高揚の時代であった。この百年における先人の勇気と聡明と努力」を、従って、これら先人に対する「敬意と称賛の念」を強調する。

 このことは「維新の主役たち」を先輩としてもち、「その原動力は、当時の鹿児島の人々の先見的知識と、生生躍動する地域社会の総合的エネルギーであった」とするわが鹿児島のようなところでは、まことにわが意を得たものといえよう。


 明治維新に対する解釈は、現代も変わらない。篠崎の指摘どおりである。同氏は戦後20数年を経た社会に対して、疑念を抱く。

 主権在民の憲法をもち、人間性の尊厳と個人の自由とを基調とする、基本的人権が認められたのは、それから八十年も後のことである。それも、われわれ自身の努力ではなく、敗戦という全く予想もしなかった外部からの力に支えられて、そしてようやく二十年、古いものはまだ力強くその根を残し、新しい生命はまだろくに根を張ってもいない。
これが明治百年の現状ではなかろうか。

 
 このような現状の中で、その古き時代の、時には封建の世界の中で生まれ育った、伝統や精神や行事などの幾つかが強調されようとしている。

 そうして、篠崎氏は維新礼賛の風潮に対して釘をさす。

 過去においてすぐれていた、意義があったという評価だけから、これを安易に現代に再現することは、慎むべきである。
明治百年は、戦前戦後の断層の認識と、その評価から始めるべきだと考える。


 もうひとり、維新礼賛に批判的な論考をつづった人物がいる。作家の島尾敏雄である。

琉球弧を目の中に 島尾敏雄
 私は歴史を流動するすがたでとらえたいと考えています。仮にある期間を区切るとしても、それはひとつの便宜的な手段としえのことだと考えたい。
 明治百年を言うにしても、明治の初年が基点であるのではなく、その時期は流動する日本の歴史の川の流れの中で、顕著なひとつの曲がりかどになったところだと理解したいのです。


 島尾はつづける。

 明治初年の鹿児島県の栄光を菊人形のように固定させたくはありません。そこのところにばかり気を奪われると、歴史は死んでしまうでしょう。目の位置の低いところでしか日本のすがたが見えず、狭い愛郷趣味に落ち込んでしまうような気がします。

 筆者は昭和43年の祭典を知らない。明治150周年記念事業は目にした。メディアが明治維新をどのように報ずるか注視していた。
明治維新を絶対化するばかり。別な視点で相対化する姿勢は見られなかった。
島尾氏の指摘どおり、「目の位置の低いところでしか日本のすがたが見えず、狭い愛郷趣味に落ち込んでしまう」だったと思う。

 篠崎氏と島尾氏の冷静な論考は、維新礼賛に沸く人々の心に届かなかったかもしれない。
イベントに水をさす位の評価だったと思われる。その後も、2人の論考が顧みられた様子はない。
鹿児島の場合、歴史的評価が一つだけという風潮は、これからも変わらないかもしれない。

参考資料
『明治百年と鹿児島』(南日本新聞社・昭和42年)


posted by 山川かんきつ at 05:08| Comment(0) | 鹿児島の近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月07日

維新ふるさと館

 先日、地元紙で面白い記事を目にした。
2025年1月31日付南日本新聞「維新ふるさと館刷新へ 26年度、展示物や動線工夫 西郷生誕200年に向け」である。

 鹿児島市加治屋町の維新ふるさと館は、2026年度に館内をリニューアルする。展示物や動線を工夫し、幕末維新期の薩摩の偉人の功績をより分かりやすく紹介。28年に迎える西郷隆盛生誕200年に向けて機運を盛り上げる。

 情報を整理し、偉人の個性や功績を分かりやすく示すことで、「薩摩の人のチカラ」を再発信する。


 記事を一通り読んで、鹿児島の典型的な歴史観を描写した記事である。おそらく、行政もメディアも同じであろう。「明治維新150周年」の際、筆者は痛感した。
幕末・維新を絶対化する態度に辟易する。この時代を相対化する姿勢が見られない。
『昭和という国家』で、司馬遼太郎は幕末・維新を次のように評している。

「昭和」という国家 - 司馬 遼太郎
「昭和」という国家 - 司馬 遼太郎

 明治維新はいろいろ素晴らしいものを持っていました。幕末のひとびとも素晴らしいものを持っていました。しかし、思想は貧困なものでした。尊王攘夷だけでした。
明治維新は立派な革命なのに、尊王攘夷という思想しか持っていなかった。

 昭和期になって明治のひからびた思想を利用した。
そのひからびた尊王攘夷を持ち込み、統帥権という変な憲法解釈の上にのっけたのではないかと。


 作家、永井荷風も『断腸亭日乗』で戦中期に記している。
 
 昭和18年6月3日付
 鎖国攘夷の弊風いつまで続くにや。

 以前、鹿児島の歴史観は「島津に暗君なし」と「維新の大業」であると記した。
これらが答えであって、別な視点からの考察はない。出版物や報道を目にした際の感想である。

 筆者は15年戦争時の歴史に関心を寄せている。大日本帝国の始まりとして幕末・維新期を見れば、先述の新聞記事と異なる感想をいだく。
司馬遼太郎氏も『昭和という国家』で述べる。

 やっぱり明治憲法はまずかったのでしょうね。その理由を探すと、明治維新そのものにあったのではないかと思うのです。

 幕末・維新の歴史を絶対化する態度の裏側に、どのような考えがあるのか掘り下げてみたい。観光用だろうか、エンタメ用だろうか。
南日本新聞の記事を読んで思う。行政とメディアは、連続した歴史として捉えていないと思われる。個別の歴史事象を取り上げているだけのようだ。

 そろそろ、幕末・維新の歴史を相対化して描いてもらいたい。

関連記事
 「子どもたちの問い」
 http://burakago.seesaa.net/article/507779380.html

参考資料
「維新ふるさと館刷新へ」2025年1月31日付南日本新聞
『昭和という国家』(司馬遼太郎・NHK出版・1998年)
posted by 山川かんきつ at 12:40| Comment(0) | 作家と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年02月01日

1944年12月26日 米軍機飛来 南九州

 先日、知覧特攻平和会館のホームページを行った折、研究紀要を閲覧した。
いくつかの論文のうち、「米軍偵察写真から読み取る知覧飛行場施設の配置状況」(八巻聡)の一文に目がとまった。

 知覧に初めて偵察機が飛来したのは1944年12月26日である。

 同論文に、偵察機が飛来した一覧表もある。1944年12月26日は、「作戦番号4MR50」とある。
これは、1945年5月15日作成の米軍文書に、同じ作戦番号の偵察写真が掲載されている。
「Sortie 444BG/4MR50/XXBC ,26 Dec 1944」。
 第20爆撃機集団第444軍団、作戦番号4MR50 1944年12月26日。
同文書に掲載された写真は、宮崎県と鹿児島県にあった飛行場と軍需工場をとらえている。

@KAGOSIMA AIRFIELD &AUXILIARY SEAPLANE STATION
AKANOYA EAST AIRFIELD(笠之原飛行場)
BKORIMOTO AIRFIELD(都城東飛行場)
CMIYAKONOJO AIRFIELD(都城西飛行場)
DNITTAGAHARA AIRFIELD(新田原飛行場)
EUnidentified Plant, MIYAZAKI(川崎航空都城工場)
FUnidentified Plant,TANIYAMA(田辺航空工業)
GKAGOSHIMA CITY
HMIYAZAKI CITY
IMIYAKONOJO CITY

 ここでいう南九州は、米軍の設定地域である。現在の南九州と若干異なるかもしれない。
同文書に知覧飛行場の写真が掲載されているが、1945年3月18日撮影である。
八巻さんの研究で、1944(昭和19)年12月26日、米軍偵察機が知覧に飛来した事実があった。上に記した飛行場や軍需工場、市街地の写真は同日に撮影されたのであろう。
第20爆撃機集団の偵察に関する文書を、収集する必要がある。

 鹿児島市の空襲について考える。『鹿児島市史第2巻』で、昭和20(1945)1月1日に関する記述がある。

 鹿児島市に初めて敵機が飛んで来たのは、昭和20年(1945)1月1日である。勝目清回顧録によると・・・。

 同書は、昭和20(1945)年1月1日と断定している。
これは、『勝目清回顧録』(1964年刊)の記述をもとにしている。終戦から19年後に刊行され、個人の回想録を根拠にしている。
米軍文書に掲載された写真と矛盾してくる。

KAGOSIMA AIRFIELD &AUXILIARY SEAPLANE STATION
 19450318 kagoshimaAF 1.jpg

Unidentified Plant,TANIYAMA(田辺航空工業)
 tanabe1.jpg

KAGOSHIMA CITY
 kagosimaAF19441226.jpg

 終戦から80年が経つ。
これまで常識とされてきた空襲の記述を、今年は見直す機会になればと思う。

■関連記事
 「1944年米軍機飛来
 burakago.seesaa.net/article/499012410.html

 「昭和20年1月1日 鹿児島日報の記事から
 burakago.seesaa.net/article/502204394.html

 「鹿児島市にB29が初めて姿を見せた日
 burakago.seesaa.net/article/504149507.html

 
■参考文献
「米軍偵察写真から読み取る知覧飛行場施設の配置状況」(八巻聡・知覧特攻平和会館HP・2025年1月20日閲覧)
posted by 山川かんきつ at 22:44| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年01月25日

昭和の戦争への関心度

 昨年8月29日付毎日新聞の「開かれた新聞委員会2024」を読み返した。「戦後80年へ記憶共有」である。
記事冒頭、東京社会部長の談話に考えさせられた。

 毎年8月15日を前に連載企画を展開していますが、なかなか読まれないのが課題です。戦後80年を迎えますが、新聞社の目的は、次世代に戦争の記憶をつなぎ、二度と戦争が起きないようにするにはどうするかであり、これは何年たっても変わらないところです。

 当ブログは、十五年戦争を軸に記事を書いている。感心の低さを痛感している。
個人のブログではあるが、一次資料をもとに記事を書いている。少しばかり読まれてはいるようだが、反応はない。要因を少しばかり考えてみた。

 ひとつは、十五年戦争に関する情報が圧倒的に少ない。
地元メディアの報道に接していると、特定の事象に偏っている。たとえば、特攻や鹿児島大空襲など。報道される空襲体験談に耳を傾けていると、体験者の話をそのまま伝えている。それも貴重な記録に変わりないが、検証した形跡がない。
終戦から80年近く経ってからの証言である。記憶違いもあるだろう。
何より、尋ねる側がその日の空襲について、どれだけ知っているかも問われると思う。

 2024年8月31日付毎日新聞に、「8月ジャーナリズム」と題するコラムがある。

 そうでなくてもメディアの8月報道は低調だった。
だが、嘆くまい。我々は戦争記憶の語り方、伝え方、受け取り方を見直す転機にいるからだ。(途中省略)
 8月ジャーナリズムも、記憶の偏りと改変を免れない生存者の証言を「真正かつ神聖」とあがめすぎる惰性から、自覚的に脱却すべき時を迎えている。


 記事のいう通りだろう。
戦争体験者の語る内容をそのまま伝えるのも、ひとつの方法だろう。そこから、検証できる。ここで、ひとつ困難にぶつかる。
それは、当時作成されたであろう記録を容易く見つけられないという現実である。「資料の発掘」という作業が必須である。
地元メディアの報道に接していると、この点を理解しているか否か疑わしくなる。
 
 毎日新聞の記事を読んで思うに、同紙の記す戦争体験談は従来と少しずつ変わっていくかもしれない。

参考文献
「開かれた新聞委員会2024」 2024年8月29日付毎日新聞
「8月ジャーナリズム」 2024年8月31日付毎日新聞・土記
posted by 山川かんきつ at 12:06| Comment(0) | 鹿児島と戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする