2019年04月21日

県文化センター

 所用で鹿児島市山下町へ行った折、帰りは天文館電停まで歩くことにした。覚えたばかりのテンパーク通りを抜けて帰ろうという算段である。
 鹿児島市公會堂(現中央公民館)の前を通り過ぎ、県文化センター(現宝山ホール)に差しかかると、玄関前に小学生たちが小さな集団となり、建物の中へ入って行く。子どもたちの後姿を見送っているうちに、すっかり忘れていた古い記憶がよみがえってきた。

 県文化センターを初めて訪れたのは、小学5年生か6年生の遠足であった。プラネタリウムをみたのである。
筆者は理科と算数は苦手である。星にまつわる神話や伝説。南洋の小島に住む人々は、星々をたよりに舟をくり出したなどの話ならば興味もわくが、自転云々の説明に飽き飽きしてきた。

 ようやくプラネタリウムが終わり、地階へと移動。そこには、2台のテレビ電話が設置されていた。ブラウン管テレビに、カメラのレンズと電話が取り付けられた代物である。
テレビの画面はモノクロ。お世辞にもきれいな画像とは言えない。同級生たちは、珍しそうに眺めたり、電話をかけてみたりしている。
 だが、筆者はがっかりしたのである。モノクロのテレビ番組を観た覚えはないし、2台のテレビ電話の距離が近すぎる。3メートルあったろうか。受話器を使わず、直接話したほうが早い気がしたのである。
実用化されるのは、もっと先のこと。21世紀に入ってからかもしれないと、そのとき思った。
21世紀に明るい未来を想像していた頃である。

 気がつけば、仲の良いA君とM君がいない。辺りを見廻してみる。ある器械の前に二人がいる。
近づくと、どうすればそうなるかねと疑いたくなるような、くんずほぐれつな態勢である。
それでいて、全部の指をつかってボタンを押している。

 その器械というのは、惑星の公転周期を見ることのできる代物である。
各惑星にはボタンが割りふられ、それを押せば惑星が公転周期上を移動するのである。
M君によれば、グランドクロスを作ることにしたのだが、外側を回る星の動きがおかしいという。先ほどから押し続けているのだが、いっこうに動かない。
そこで、グランドクラスをあきらめて、惑星直列に挑戦しているのだと言う。見れば、3つ4つの惑星が、直線上に並んでいる。
 
 当時、ノストラダムスの大予言が流行っていた。
「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる。アンゴルモアの大王を復活させるために、その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに支配に乗り出すだろう」である。
 恐怖の大王の正体は、核ミサイルや隕石と言われていたが、グランドクロス、惑星直列というのもあった。
グランドクロスは、惑星が十字(架)に並ぶことで、惑星直列は惑星が一直線に並ぶことである。
惑星の並びが、そうなることで引力のバランスが崩れ、天変地異が起こるというものであったと思う。
何を言いたいのか分からぬ散文詩に、理科の要素が加わると筆者はお手上げである。さっぱりである。
 
「手伝ってくれ」両君が言う。君子危うきに近づきすぎである。
目についたボタンを押すと、火星だか金星が勢いよく廻り出した。
「それじゃない、こっち、こっち」。妙な態勢のまま、M君が指を上げている。

そうして、7,8個ほどの惑星が直線上に並んだところで、「集合!」となった。
後ろ髪を引かれる思いで、県文化センターを後にしたのである。

 隣りに建つ鹿児島市公會堂について、向田邦子さんがエッセー『薩摩揚』で次のように記している。
「ただ東京から転校した私は、多少成績もよく、人もチヤホヤした。その頃からぽつぽつ烈しくなり始めた日支事変の英霊が帰った時など、学校を代表して、女だてらに公会堂で弔詞を読む、というようなこともあり…」。

kouminkan1.jpg

 筆者はといえば、がっかりしたテレビ電話と出来かけの惑星直列である。同じ小学生時代の話とは思えぬほどの格差である。
 やはり、大成する人は、子どもの頃から優れているようである。



【参考文献】
『ノストラダムスの大予言』(五島勉・NONBOOK)
『薩摩揚』(向田邦子・文春文庫『父の詫び状』所収)
【関連する記事】
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2019年03月25日

古地図の副作用

 先月二十日付、毎日新聞の記事に目が留まった。論点“「名前」は誰のものか”である。
JR東日本の山手線に「高輪ゲートウェイ」名づけられた新駅が誕生するという。その駅名をめぐる記事である。
三人の識者が、それぞれ意見を述べておられるが、共通するものを感じる。
それは、駅名や地名、町名などの有する「公共性」である。

 文筆家伊藤ひとみ氏の記事はおもしろかった。
「平成の大合併で誕生した「創作地名」では、地名が背負う歴史に人々が頓着しなくなり、便利さやブランド力に重きが置かれ、地名が単なる場所を示す記号になっているように思える。しかし、そんな記号のような地名でも、名付けられたものには命名者の思いが反映されている」。

 鹿児島市も然りである。江戸期の絵図や近代に作られた地図などに記載された地名や通り名が廃れ、新しい名前となっているものもある。
地名や町名などが変わったのは、平成に限ったことではない。昭和でも見られたことである。
時代の流れゆえ、致し方のないことかもしれない。
古い地図を眺めながら、何ゆえ名前を変える必要があったろうかと、つらつら考えるうちに、先だってのつまらぬことを思い出した。

 昨年の暮れのことである。
忘れかけていた同級生から、年明けに同窓会を開く旨の連絡があった。出席せよという。
筆者は出不精な質(たち)である。そのうえ、目を通したい史料を抱え込んでいたことから、出席する気はない。
それでも出席を迫る同級生に、「まだ、ノスタルジックに浸るような齢でもあるまい」などと、出席せぬ理由を申し述べ、曖昧に返事をして電話を切った。

 だが、気になる。同窓会の場所である。
話しによれば、天文館はテンパーク通りの筋を入った所にあるお店とのこと。
先ほどから思い巡らすのだが、一向に思い当たらない。天文館も数え切れぬほど訪れているにもかかわらず。

 テンパーク通りが、分からないのである。

 そこで、ひとつ年下の嫁さんに尋ねてみた。
「本気で聞いてる? テンパーク通りとなってから、相当経つよ」。
驚くと同時に、大きくうなづいた。

 自他ともに認める方向音痴の嫁さんが、話し始めた。花屋に洋品店、タルトの店などなど、いろいろなお店が次から次へと出てくる。
かねておとなしい嫁さんが、舌も滑らかに。
その一所懸命な姿に、頭が下がる思いである。

 されど、さっぱり分からん。

 おそるおそる、嫁さんの方に目をやる。「まこて移らんもんじゃ」と、言いたげである。
あきれ果てたのか、とうとう天文館電停から説明し始めた。
献血センターに菓々子横丁、メガネ屋さんなどなど。じつに懇切丁寧である。

 そうして、物産館を過ぎ、島津重豪公と調所笑左衛門廣郷の銅像に説明が至るや、筆者はこう応じたのである。
「なんだ、十字屋から金海堂へむかう通りではないか。」
「今ごろ何言ってんの」。低音にして、ゆっくりした口調である。

 水戸黄門の印籠よろしくスマホを差し出した。読めという。
そこには、テンパーク通りのホームページが表示されている。
「“窓と光の石畳”のキャッチフレーズで、平成6年5月天文館テンパーク通りは、誕生しました」とある。思わず固まってしまった。

 この件で気づかされた。
 かねて年季の入った書物を読むことから、その出版年代に合った地図が欠かせない。
そのためか、中福良通りに日置裏門通り、中座通りなどは、難なくイメージできる。
一方、はいから通りや、ぴらもーる通りなど現在の通りが頭に入っていないのである。

 古い地図の見すぎか、はたまたのんきな性格のためか。
 とにもかくにも、テンパーク通りを覚えるのに24年かかった。
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2016年07月22日

永吉と”なげし”

今年1月22日付朝日新聞に、大崎町の「永吉天神遺跡」で中世の地下式坑が発見されたという記事が掲載されていました。この時代の地下式坑が確認されたのは、南九州で初めてだそうです。
遺跡もさることながら、永吉という地名が気になったため、すこしばかり調べてみました。

1.曽於郡大崎町永吉
『角川日本地名大辞典46鹿児島』(角川書店・昭和58年)は、次のように記しています。
「田原川支流持留川右岸の台地上に位置する。西南部の上永吉・中永吉の一帯は、上古愛之原と唱来ると申伝」とあって(大崎名勝志)、『三国名勝図会』に見える藍之原と呼ばれる平原に当たり、土地の人は可愛原(えのばる)と呼んでいる。
牧之内・舟迫・干草など、牧にちなんだ地名が多く残り、往古より牧場の盛んな地帯であった。」

また、永吉という地名は南北朝期から見られるようですが、地名の由来については不明のようです。
前掲の地名辞典は、「当地は天正元年、肝付の乱の功で都城領主北郷時久に加封された。その後、天正15年伊集院忠棟に与えられたが、庄内の乱後は島津氏直轄となり、垂水島津家の持切在となった。村高は天保郷帳によると1,346石余、旧高旧領では2,094石余。」とあります。
おそらく、この地は早くから経済的価値のある土地であったかもしれません。

『寛政十二申年写之 諸郷村附浦附 盛香』によれば、「なげし」と読み仮名がふられています。前述の朝日新聞では、「ながよし」とルビがふられていたことから、今では「なげし」という呼び方はなくなっているのかもしれません。

 この際なので、永吉の地名と読み方についてあと二つほど触れてみます。

2.日置市吹上町永吉
『日本歴史地名大系47鹿児島県の地名』(平凡社1998年)によれば、「中世日置南郷の地で、天文2年島津忠良と貴久が、当地の南郷城城主桑波田孫六を攻略した際、永吉と改めた。永吉は美称であろう。直ちに貴久の弟が領主となり、以後戦国島津氏の直轄地で、有力武将が地頭となった」とあります。

また、『鹿児島大百科事典』(南日本新聞社1981)によると、「16世紀のはじめここを領有した島津忠良が“永久に吉地たれ”とこの名をつけたという。」
ここの「永吉」という地名もまた、鹿児島市永吉町と同じく美称のようです。
つらつら考えるに、永吉という地名は古くから豪族たちが争うほどの経済的価値の高い土地であったかもしれません。

さて、ここの「永吉」の読み方です。
『寛政十二申年写之 諸郷村附並浦附 盛香』によれば、「ながよし」と読み仮名がふられていました。この地では「ながよし」と呼び、「なげし」ではなかったようです。
余談になりますが、当地は意外な食べ物の故郷であったそうです。

【ハヤトウリ】
筆者にとって苦手な食べ物、ハヤトウリ。てっきり、鹿児島原産の食材と思っていましたが、メキシコ原産だそうです。
また日置郡吹上町永吉は、ハヤトウリを日本で初めて栽培した地でもあるそうです。
『鹿児島大百科事典』は、次のように記しています。

「メキシコ原産のウリ科・ハヤトウリ属の多年生草木である。熱帯では果実および塊根を食用あるいは飼料用として利用する。(途中省略)
わが国での栽培は1917年(大正6)に本県の矢神という人が米国から持ち帰って日置郡永吉村で試作したのが最初である。この種子を鹿児島市の島津隼彦が譲り受け邸内で試作したところ多数の着果を見た。
当時設立されていた鹿児島園芸談話会に紹介したところ、同会の会長であった鹿児島高等農林学校長・玉利喜造博士はこれに薩摩隼人にちなんで隼人瓜と命名し、この名が生まれた」

筆者が抱く当地のイメージは、田園風景の広がるのどかなものでありました。同地には埋もれた歴史のようなものがまだまだあるかもしれません。
同地のことを調べるうち、「おもいで館」のソバを食べたくなってきました。

3.指宿市の新永吉
鹿児島市内から国道226号線を南へくだり、指宿市の田口田交差点を右折。道なりに進み、山道を走りメディポリス入口を通過し、池田湖方面へすこし下ったところに「新永吉」という集落があります。

当地では、「新永吉」と書いて「しなげし」と呼ぶそうです。
指宿市在住の親戚5人(いずれも70代)に新永吉の読み方を尋ねたところ、全員が「しなげし」と答えてくれました。

集落の裏手には、切り立った断崖がそびえています。地学に興味のある人は、いいフィールドワークになるかもしれません。

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市内巡回バスのバス停を見ると、「しんながよし」と読み仮名がふられていました。
どうも行政の方は、「しんながよし」と呼んでいるのかもしれません。残念な気がする。

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南九州の地名』(青木昌興・2008年)によれば、地名には地籍地名と通称地名に分けることができるそうです。
地籍地名は地籍図に載っているもので、さらに自然地名と文化地名に分けることができるそうです。
通称地名は地図に載っていないが、人々が日常的に俗称と使っているものであるとありました。

「なげし」や「しなげし」は通称地名になると思われますが、時とともに無くなってしまうものかもしれません。
できることなら、庶民たちが言い伝えてきた呼び名を残してもらいと思うのです。

















posted by ぶらかご.com at 00:46| Comment(0) | 地名・町名にまつわる話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする