2014年04月29日

一部米兵の暴力

鹿児島市に進駐したアメリカ兵は、サイパンや沖縄など激戦地を経験してきた者たちでありました。
米兵のなかには、白昼堂々と市民に襲い掛かる者もおり、暴行、殺傷事件が後を絶ちませんでした。
被害を届け出る市民は少なく、できるだけアメリカ兵の目に触れないという自衛手段をとっていました。

被害を届け出たとしても、警察の捜査はうやむやでした。
戦時中、大いに力をふるった警察権力は、進駐軍の前では無力な存在でした。
鹿児島署員のなかには、米兵から暴行を受けなかった者はなく、同僚にも話せず全くの泣き寝入りであったそうです。

■ 自警団の誕生
〇 米兵殴り込み事件
進駐軍の横暴と警察の無力によって、社会不安はつのる一方でした。
市民たちの間では、隣組や町会単位で自警団結成の機運が高まっていました。
その動きが早かったのが鹿児島市上荒田町で、青年たちが中心になって団員約150人の自警団が誕生しました。
この自警団結成は、上荒田専売公社近くで起こった「米兵の殴り込み事件」がキッカケでありました。

アメリカ海兵隊が県立二中(現甲南高校)に進駐してきた直後、学校から500メートルほど離れた坂元さんの家族は夕食をすませ、ゆっくりしていました。
突然、大きな音ともに表戸が破れ、玄翁(大きな鉄の槌)を持った三人の米兵が現れました。
兵士たちは土足のまま家に上がり込み、玄翁を振り回しました。
坂元さん家族は、必死になって外へ逃げ出しました。
次男が頭を割られ、血の海となった玄関前で意識不明のまま倒れていました。

家族たちは医者を求めて奔走しますが、探し当てた医者は来てくれませんでした。
みんな、夜間外出の危険を知っていたのでした。
家族のひとりが家に帰ると、米軍のジープが駆けつけ応急手当をした後でした。
次男は数日間、生死の境をさまよいましたが、一命だけは取り止めたそうです。
占領下、この事件が明るみになることはなく、何の補償もありませんでした。

〇 自警団結成
県立二中から専売公社一帯は戦火を免れており、15歳から25歳くらいまでの青年およそ150人が集まり、三班に分かれて夜警をすることにしました。
表向きは食糧難で起こる畑荒らしの警戒と火の用心でありましたが、本当の目的は米兵による婦女子の暴行をけん制することにありました。
米軍に悟られぬよう事前に警察と打ち合わせを済ませていました。
そして、毎晩50人が一組になって提灯を先頭に拍子木を鳴らしながら、「火の用心」を呼びかけるようになりました。

結成間もないある夜のこと。
自警団が二中裏通りを巡回していると、自動小銃が空に向かって放たれました。威嚇射撃でありました。
団員たちは雲の子を散らすように逃げ出しましたが、何人かが捕まってしまいました。

自警団の詰所には憲兵が包囲し、団員は次々に憲兵本部へ連行されていきました。
取り調べは、とても厳重だったそうです。
ピストルを構えた憲兵に囲まれた中で、ひとりひとり身体検査、住所、氏名を記入させられました。
通訳から、「銃殺だぞ」と脅されながらのものだったそうです。

警察と事前に打ち合わせをしていたためか、二時間ほどすると団員たちは帰宅を許されました。
ひとりずつ間隔をとって帰りましたが、裏門には数人の米兵が待機しており、銃で背中や足を撃たれ、小川に投げ込まれた団員もあったそうです。
この事件を契機として、米軍も不良米兵の監視を強化、自警団は青年団へと発展的に解消しました。

■ 巡査、アメリカ兵を刺す
一部米兵の乱暴は、目にあまるものがありました。
不良米兵の攻撃は、市民を守る警察官に向けられていました。
そのため、鹿児島署員は街頭に立つことを嫌がったそうです。
辞表を出して辞めていく者、鹿児島署以外の署に転出した者もありました。

昭和21年5月10日の昼下がり、鹿児島市朝日通り交差点で些細ないさかいが起こりました。
交通整理中の警官に、二人の米兵が近づき「こっちに来い」というジェスチャーをしました。
近づくと、米兵は警官の鼻ひげを触り、ニヤニヤしながら「あっちへ行け」と指さしました。
警官は、「バカにするな、投げつけてクツで踏みつけてやるぞ!」と怒鳴りました。
米兵は何やら呟きながら、走り去りました。

次の日の午後5時過ぎのこと。
その警官が朝日通りの交通整理を終えて、県立図書館に仮住まいの本署へ引き揚げようとしていました。
そこへ、一台のタクシーが止まり三人の米兵が降りてきました。
前日の二人と大きな男が、「ユウ、キノウ、ワカル」と言いながら警官を睨みつけました。

警官と三人が山形屋正面玄関前に来た時、米兵たちが取り囲みました。
ひとりはコンクリートの塊を握り、襲いかかろうとしていました。
身の危険を感じた警官は、腰の短剣を抜くと振り回しました。
剣の切っ先が、ひとりの右腕に刺さりました。
なおも飛びかかる大男を、警官は路上に投げつけました。
この警官、身長161センチ・体重74キロ・柔道4段で、CICの柔道教師もしていました。
現場は黒山の人垣ができ、「ヤレ!ヤレ!」「米兵を司令部へ突き出せ!」の声が飛んでいました。

直後、軍政部の車が駆けつけ、警官は県立二中の司令部留置場へ収監されました。
背中にピストルを突き付けられながら、MPによる徹底的な取り調べを受けました。

米軍側は独自の捜査を行うと、3人の米兵の素行は悪く、目撃者の証言も警官に有利でした。
結局、警官は無罪と断定され四日後に釈放されたそうです。
その後、海兵隊は静岡へ移駐し、警官は内勤となって事件はピリオドを打ったそうです。
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2014年04月27日

軍政部の功績

軍政部は、昭和24年11月鹿児島を引き揚げるまでの4年間、鹿児島の政治・社会・経済・教育・文化などあらゆる面において、帝国主義的・軍国主義的なものを排除して民主主義的なものをもたらしました。

終戦直後、鹿児島県民は恐怖と不安のなかで進駐軍を迎えました。
当初、軍政部も日本人の生活や慣習などを理解していないこともあり、行き過ぎや弊害もあったようです。
のちには、行政マンだけでなく市民たちの間でも友好的なムードが生まれていたそうです。

■ 衛生思想の普及
軍政部が残した功績のひとつに、衛生思想の普及をあげることができるようです。
終戦時、鹿児島市の大部分は焼野原で、上下水道は破壊されていました。
また、いたるところで汚水があふれ、蚊やハエが異常発生して赤痢や伝染病患者が続出していました。
終戦直後、その日暮らしの混乱のなか、蚊やハエの駆除に手が回りませんでした。
そのため、蚊やハエが異常発生して赤痢や伝染病患者の増加に拍車をかけていました。

昭和20年10月、鹿児島に乗り込んだ初代軍政長官ブルーク中佐は、上下水道に塩素、全市にDDT消毒を行いました。
これ以後、歴代軍政長官は鹿児島市の環境衛生面に力を入れたそうです。

当時、鹿児島市長であった勝目清さんは、歴代長官の功績にむくいるため“蚊とハエの撲滅運動”を展開しました。
『勝目清回顧録』で、当時の運動の様子を次のように記しています。
「昭和27年4月、西田町の一部をモデル地区として蚊とハエの撲滅運動をはじめ、翌28年10月にはさらに一大市民運動を展開した」

昭和28年に「蚊とハエのいない生活運動推進本部」を設置。
小学生によるハエ取りコンクールでは、同年11月の1週間で58万匹のハエの死体が集まったそうです。
翌年2月には、二週間で211万匹強。一日に市内で15万匹以上ものハエの死体が集まったそうです。

『鹿児島市政だより』によると、蚊とハエをはじめとする衛生問題に関する記事は、その後も長く掲載されていきます。
軍政部が残した功績は、環境衛生思想だけでなく食糧増産や教育など様々な面に及びました。

■ 経済課長バリー軍属
長身で面長、温和で仕事熱心な姿は、軍政官のうち最も親しまれた人物であったそうです。
終戦直後の食糧危機を乗り切るため、増産運動の先頭に立ち、県下の農村地帯をくまなく回りました

食料供出農家の苦労に感謝するため、昭和22年5月11日鴨池で食料供出感謝大会を催しました。
昭和21年度の供出農家のうち520人と優良指導者80人、合わせて600人が表彰されました。
そうして、「六百人会」というものが組織されたそうです。

勝目清さんによると、感謝大会での表彰式の形式がとても面白かったと記しています。
「バリーさんは表彰される人と向かい合って、左手で表彰状を渡して右手で握手される。
慣れない方法であるので、だいぶまごついたものである。日本の表彰式のように上座からお下げ渡しする形式ではない。さすがに民主的なものであると感じた。」

バリーさんは昭和23年7月末から3ヵ月の休暇でアメリカに帰ることになり、鹿児島の特産物を見本として持って行ったそうです。
同年11月に再来したときは、アメリカから麦の優良品種を持ってきて増産するよう計画をしたそうです。

バリーさんは洒落も十分にできた人でで、本名のシージーバリーを「詩寺馬里」と漢字で書くほどであったそうです。

■ 教育課長ヴォート軍属
昭和22年夏から24年5月まで在任し、男女共学など学制改革に尽力しました。
着任当時、「封建的な先生を締め出せ」と言って一大旋風を巻き起こしたそうです。

アメリカ占領軍は全国にあった忠霊碑や戦争記念碑、天皇行幸記念碑、その他軍語句主義的なものを取り除くことになりました。
そのとき、鹿児島の西郷隆盛像が問題になりました。

東京上野の銅像は支障なしであったそうですが、鹿児島の銅像は陸軍大将の服装であるから軍国主義的と取られたようです。
勝目清さんは、当時の様子を回顧録で次のように記しています。

「私はこのとき、あの銅像が出来るときを、追想せざるをえなかった。そして、あのとき私が、いま一そう強く先輩に説けばよかったと、後悔せざるをえなかった。
というのは、私は和服姿の南洲翁の銅像を造ってもらいたかったので、当時先輩方の協議の席上で、主張したものであったが、ついに容れられなかったからである。
それが戦後こうして、再び別な形で問題になろうとは夢にも思わぬことであった。」

勝目さんは占領軍側の意見を伝えた人に、次のように意見したそうです。

「われわれは、西郷南洲翁が陸軍大将であるが故に尊敬しているのでは決してない。日本人西郷として尊敬しているのである。あの銅像が陸軍大将の服装であろうがなかろうが、無関係である。
ましてやあの服装は、明治初年の陸軍大将の服装であって、その後は著しく変わっているから、あれを陸軍大将と見る人は少ないのである。」

軍政部のほうで、西郷隆盛の研究が始まったそうです。
ヴォートさんは、熱心な西郷研究の結果、大の西郷礼賛者になっていたそうです。
こうして、西郷南洲翁の銅像は撤去されることを免れたのでした。
西郷さんの銅像が軍服姿のため、軍国主義的として破壊される寸前だったものを食い止めたのは、誰あろうヴォートさんでした。


他にも、戦後の鹿児島に功績のあった軍政官があったようですが、今回はここまで。
次回は、進駐軍と市民のトラブルについて触れてみたいと思います。
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2014年04月25日

軍政部の陣容

■ 軍政部の役割
昭和20年10月6日、鹿児島市役所内に設置された地方軍政部は、市会の正副議長室・議員控室・助役室・収入役室・食堂を接収して使用を始めました。
軍政部の役割は、占領軍の出先機関として鹿児島県の政治・行政全般にわたって占領政策を浸透させることにありました。
対日軍事占領の主要任務は、「武装解除ならびに非軍国主義化」として表明されました。

武装解除は、非軍国主義化のための前提条件であり、非軍国主義化には「非軍事化と民主化」というふたつの側面を持っていました。
非軍事化には政治経済などから軍国主義を一掃すること、民主化には旧制度にかわる民主主義を導入するという意味が込められていました。
そうして、非軍事化と民主化を達成するための政策が実行されていきました。

〇 非軍事化のための政策
戦争指導者の逮捕、軍隊と秘密警察の解体、民間航空の禁止、超国家主義団体の解散、軍国主義者や超国家主義者の公職からの追放、軍国主義的教育制度の除去、軍事力の経済的な基礎の破壊など。

〇 民主化のための政策
宗教的信仰の自由、民主的政党の奨励、人種や政治上の見解を理由にした差別待遇の廃止、政治犯人の釈放、個人の自由と民権の保護など

鹿児島の軍政部から発信される指示は、それが形式的に勧告であっても極めて強い規制力をもっており、絶対的なものであったそうです。

■ 軍政部の機関
地方軍政部長官の下には副官がいて、下部機構として民間教育課・民間情報課・経済課・保健課・司法行政課・労政課に分けられていました。
軍人軍属約40人、日本人20人で構成されていたようです。

軍政部がまず取り組んだのが、鹿児島の実態をつかむことにありました。
軍政部は諮問機関として、鹿児島県に対して連絡委員会の結成を命じました。
昭和20年10月25日、拓植鹿児島県知事を委員長として、岩切鹿児島市長、坂口県会議長、武商工経済会代表、木下鹿児島日報社長、樋渡医師会代表、浅野七高館長が委員となり、鹿児島連絡委員会を結成しました。
その後、鹿児島連絡委員会は軍政部との連絡折衝に当たることになりました。

■ 軍政部の要求の一端
〇 電気電灯水道の確保
米軍関係者の宿舎には、早急に電気と電話、水道を確保しなければなりませんでした。
当時、資材は全くないところに、「三日間で電灯をつけろ」という命令が軍政部から下りました。
県警防犯課長大倉野政美さんは、小倉に飛んで九配資材倉庫から電線を調達しました。
また、市水道課の末野作太郎さんは、延岡の旭化成に駆けつけ水道消毒用の塩素を手に入れるという慌しさであったそうです。

〇 ダンスホール
山形屋は焼夷弾攻撃によって全館焼けてしまいましたが、終戦直後の幹部会議で「即時復興」を決断。
9月17日から一階売場に裸電球をつけて、戸板の上に商品をならべ営業を再開していました。
そこに県知事から、進駐軍用のダンスホールを設置して欲しいという要請を受けました。
きっぱり断っていましたが、ついにダンスホールを設置することになりました。

12月24日のクリスマスイブに店開き、県下第一号であったそうです。
場所は4階の大食堂跡で、焼けただれたコンクリートの床に400平方メートル以上の木造ホールを建設。
荒削りの板壁に宮崎から取り寄せた床板を並べただけの粗末なものであったそうです。
それでも建設費用は40万円、当時としては大金でありました。

ダンサーを募集すると、約40人が集まったそうです。
にわか仕込みのダンサーでしたが、開店初日から米兵で大繁盛しました。
ホールには缶ビールやチョコレート、コカ・コーラなどの売店も設けられ、赤や青の灯りは夜遅くまで消えなかったそうです。

山形屋にとって不本意な営業が4年も続いたそうです。
当時、米兵の気持ちを和らげるという効果はあったと思われます。

〇 沖ノ村遊郭
戦時中23軒あった楼のうち、16軒が焼け残りました。
500人以上いた娼妓は爆撃のたびに数が減り、終戦時にはひとりもいなくなったそうです。
米軍進駐で再度集まりましたが、以前にくらべ半減しておよそ230人ほどでした。
バラック建の楼が三軒もでき、異様な活況を帯びたそうです。

米軍側は、米兵の遊郭立ち入りを厳禁し、天保山橋とガスタンク脇に憲兵詰所を設けて監視していました。
真夜中、こっそり忍び込む不良米兵は後をたたず、楼主や娼妓に銃をむける者もあったそうです。

遊郭組合は、鹿児島署長らに徹夜警備を要請する始末でしたが、当時の警察に米兵を逮捕すること力は全くありませんでした。
楼主のなかには、身の危険を感じて廃業し、公娼制度廃止を主張するものもありました。
当時としては、かなり勇気のある行動でありました。

次回は、軍政部のもたらした功績に触れてみます。
posted by ぶらかご.com at 00:14| Comment(2) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする