2014年04月15日

戦後の始まり

天皇の終戦詔書がラジオで全国民に告げられ、戦争は終わりました。
8回の空襲によって、鹿児島市街地の約93%、327万坪(1,079万平方メートル)を焼失していました。
焼野原の市街地に立たされた市民たちの多くは、何から手をつけてよいか分からなかったかもしれません。
そうした虚脱感とともに、数々の混乱が巻き起こりました。
今回は、終戦直後の様子をおおざっぱに記し、次回から少し詳しく見ていくことにします。

■ 軍の継戦運動とデマ
軍の「継戦運動」が起こり、鹿児島では鹿児島地区司令部と鹿屋海軍航空隊の一部将兵たちが行動を起こそうとしていました。
継戦運動は、方面軍司令官の説得などによって事件とならずに済んだのでした。

継戦運動がひと段落すると、一般市民の間に「アメリカ軍が上陸すると、婦女子を暴行した挙句、銃殺する」といったデマが流れました。
市民の大部分が、地方へ山奥へと避難するといった騒ぎとなりました。
8月20日を過ぎた頃から単なるデマと分かり、落ち着きを取り戻した市民たちが戻ってくるといった一幕もありました。

■ 戦後の風俗
国家権力や軍の統制力などが一気に緩んだことから、秩序のない市民生活が現れ出しました。
戦時中から続いていた食糧難は、昭和22年末まで危機的な状況で、衣料や住まいも惨憺たるものでした。
ヤミ市やインフレ、犯罪の増加、伝染病の蔓延、ほら穴生活などの戦後風俗ともいえるものが現れました。

また、枕崎台風や桜島噴火といった自然災害にも見舞われましたが、市民たちはバラック住宅の建築、家庭菜園など一生懸命に生きる努力をしたのでした。

行政、とくに鹿児島市では焼け残った庁舎を拠点として、戦災地応急対策に取り掛かり、食糧確保のため農村地帯への供出や治安の確保に力を注ぎました。

戦災復興事業では、市街地に土地区画整理事業を行い、近代都市の基礎を築こうとしていました。
一面焼け野原となった、この機会を先途と捉え、早くに計画立案に着手しています。
これは、全国的に見ても相当早い立ち上がりであったそうです。
戦後初の民選鹿児島市長となった勝目清さんがは、その任期中の殆どが戦災復興に尽くすことになります。
『勝目清回顧録』や『鹿児島市政だより』は、当時の様子を知るうえでとても参考になるようです。

この区画整理事業によって、照国通り周辺や新屋敷町、中央駅前の中央町などでは、小路がなくなるなど戦前とは大きく変わってしまいました。

■ 進駐軍
占領軍の進駐は、昭和20年8月28日の厚木飛行場に始まりました。
鹿児島にあっては、9月3日に鹿屋飛行場に、9月24日に鴨池飛行場に到着しました。
アメリカの対日軍事占領の主要任務は、次のようなものでした。

〇武装解除ならびに非軍国主義化
その政策として、戦争指導者の逮捕・軍隊と秘密警察の解体・民間空港の禁止・超国家主義団体の解散・軍国主義者や超国家主義者の公職追放・軍国主義的教育制度の除去・軍事力の経済的基礎の破壊など。

民主化のための宗教や信仰、思想の自由。人種や性別の差別待遇の廃止。個人の自由と民権の保護などを基本的な考えとしていました。

占領軍の鹿児島地方軍政部は、10月6日鹿児島市役所に開設、昭和24年11月に引き揚げるまでの4年間設置されていました。
軍政部は民主主義を定着させるため、鹿児島県の政治・行政・社会・経済・教育・文化など、あらゆる面に大きな影響を与えたのでした。






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2014年04月13日

昭和20年8月15日

昭和20年8月6日・9日に、広島・長崎に原爆が投下され、ソ連の対日参戦によって日本の敗戦は決定的なものとなりました。
軍部は本土決戦を叫び戦争継続を唱えていましたが、政府は8月14日にポツダム宣言受諾、無条件降伏することを決定しました。
8月15日正午、天皇の「終戦詔書」がラジオで全国民に告げられ、戦争が終わったのでした。

■ 8月15日前後
8月14日、それまで毎日のように鹿児島上空に現れていたアメリカ軍機が機影を見せませんでした。
その日の夕方、同盟通信社鹿児島支局に無電にて情報を接受。
当時、同盟通信社鹿児島支局は、城山の薩摩義士碑下にあった横穴壕に移転していました。

情報によると、宮中で御前会議が開かれ「無条件降伏・ポツダム宣言受諾」が決まり、15日正午には天皇陛下自らマイクの前に立たれて終戦の大詔を放送されるというものでした。
当時鹿児島市防空課長であった本田斉さんは、情報を鹿児島市役所・上之原本部に持ち帰り岩切市長に報告しました。
情報を肯定する者もあれば、”敵の謀略”という人もあったそうです。
このとき、鹿児島市役所は昭和20年7月27日に、上之原水源地のトンネルに移転していました。

『あれから10年』(本田斉著)によると、8月15日の様子を次のように記しています。

「8月15日の正午、城山の横穴壕に在る同盟通信支局へ行き、正午のニュースを今や遅しと待った。
アナウンサーの声は物すごい雑音に混じり、はっきりと聞き取ることは困難であったが、それはまさしく無条件降伏せりとのニュースであった。真実であろうかと幾度か自分の耳を疑ったが、それは、まがうことなき冷厳な事実であった。
続いて東京から電波に乗って送られる天皇陛下の声も途切れ途切れで、その語句一つ一つを聞き取ることはできなかたが、・・・。
その日この情報を持って上之原の仮市役所に帰り、岩切市長に報告するとさすがに市長も”そうか”とうなずかれたのみであった」

このとき、鹿児島の市街地は完全な焼野原で、街には電線が垂れ乱れ、瓦礫の街にはビルの残骸が気味悪くそそり立ち全く手のつけようがなかった。
広い焼野が原と化した市街を静かに眺めた市民は、今さらのように戦争の惨めさをひとしお体感した。(『鹿児島のおいたち』より)

天皇の大詔によって戦争は終わりましたが、鹿児島ではまだまだ混乱が続くことになります。
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2014年04月11日

長崎原爆投下と鹿児島の学生たち

20億ドルの巨費と13万人を動員したマンハッタン計画は、1945年4月末、原爆完成が秒読み段階に入っていました。
このとき、アメリカ陸軍の原爆標的委員会が開かれていました。
標的として挙げられた都市は、東京湾・川崎・横浜・名古屋・大阪・神戸・京都・広島・呉・山口・下関・八幡・小倉・福岡・長崎・佐世保・熊本でありました。

5月末になると、B29や艦載機による空爆によって破壊された都市が多くなってきました。
標的委員会は、目標を小倉・広島・新潟・京都に絞り込んでいました。
スチムソン陸軍長官は、かつて訪れたことのある京都選定に対して強硬に反対したそうです。

■ 七高生の勤労動員
旧制七高造士館2年に進級したばかりの106人が、鹿児島駅での盛大な見送りを受けていました。
彼らが勤労動員先の長崎市に到着したのは、昭和20年4月10日のことでした。
与えられた任務は三菱兵器製作所で、特殊魚雷を生産するものでした。
学生たちの宿舎は「にしごう」という寮でありましたが、彼らは「さいごう寮」と呼んでいました。

その頃、主要都市への空襲が続いていましたが、長崎ではみられませんでした。
アメリカ軍は原爆の目標となった都市への通常爆撃を一時期、禁止していたのでした。

7月25日朝、アメリカ戦略空軍司令官に命令書が届きました。
それはトルーマン大統領が承認した命令書で、「8月3日以降、天候が目視爆撃を許す限り、すみやかに特殊爆弾を次の目標(広島・小倉・新潟および長崎)のひとつに投下せよ。」というものでした。

■ 昭和20年8月9日
昭和20年8月9日午前11時2分、プルトニウム爆弾「ファットマン」を載せたボックスカー号は、長崎市の北、浦上地区上空に原爆を投下しました。
上空約500メートルで炸裂した原爆は、6.7平方キロメートルを廃塵と化し、直接被爆者だけで28万人にも及んだのでした。

被爆当時、長崎にいた生徒は99人。死亡・行方不明者14人、負傷は50人を越えたそうです。
七高生たちは、被爆翌日から長崎を後にし始めました。

当時、七高校舎は空襲で焼けていました。
戦後、場所探しに苦労していましたが、11月26日、出水の海軍航空隊兵舎で開校することができました。
12月15日、出水市の西照寺で殉難学徒の慰霊祭が行われ、9つの遺族が参加したそうです。

先の戦争では兵士だけでなく、学徒動員の七高生や女子挺身隊員、徴用工など命を落とした人々の数は、あまりにも多いものがありました。

■ 原爆の噂
情報統制によって、各地の空襲被害の状況を知るすべを持たなかった一般市民。
広島・長崎に落とされた原爆について、正確な情報を得ることはできませんでした。

しかし、どこから伝わってきたものか、「広島に大型爆弾が落とされた」という話が市民たちの間に伝わっていました。
『勝目清回顧録』に、当時の様子が掲載されていますので、紹介してみます。

「人の口というものは、まったく早いものである。8月7、8日ごろには、どこからともなく広島に大爆弾が落下したそうだとの話が伝わった。半信半疑で初めは聞いていたが、日を経るに従って真実であることが判明した。しかも初めの話より以上のものであり、正体の分からない爆弾らしいとのことである。
原子爆弾というのは後でわかった。」



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