2014年04月04日

最後の空襲まで

6月17日の空襲によって、鹿児島市内の大半が焼失し死者2300余人、負傷者3500余人、被災市民約9万人という被害を被ってしまいました。
木造家屋のほとんどが焼失し、焼け跡には鉄筋コンクリートの建物だけが残されていました。
『鹿児島市戦災復興誌』や『かごしま戦後50年』などの書物に、焼野原となった写真が掲載されていますので、ご覧になってみてください。

■ 焼夷弾集め
昭和20年6月1日に発足した鹿児島義勇隊が、初めての活動をおこなったのは6月18日のことであったそうです。
焼け跡の整理や金属の収集を始めましたが、軍部から焼夷弾集めも命じられていました。

『勝目清回顧録』に、当時の様子を次のように記しています。
「敵が落とした焼夷弾を集めることも軍部から連絡があった。ただしこの敵の弾を利用してスコップを作り、陣地構築用にするのだとか聞かされたときは少々がっかりした。
市役所に落ちた焼夷弾は約400個あって、そのうち5,60個は不発であった。」

「市内にも相当数の不発弾があって、要領よくふたをとれば弾の中の油脂が台所の火付けに利用され、夫人連が台所仕事に便利だったことも笑われぬ当時のエピソードの一つではあるまいか」

収集された焼夷弾の数は、次々司令部に運ばれ、山のように集まったそうです。


■ 上町方面の空襲 7月27日
7月26日、海岸通りにアメリカ軍機から投下されたビラが落ちていました。
ビラには、次の攻撃目標が詳細に記されていました。
鹿児島駅や吉見鉄工所、専売公社などが爆撃目標とされていました。
ビラは憲兵隊に届けなければならない決まりでしたが、予告の内容は口伝えで市民の間に広がっていったそうです。

7月27日、晴れ上がった夏の真昼のことでした。
午前11時50分、空襲警報発令後、間もなく米軍機ロッキード爆撃機数百機の編隊が出現。
鹿児島駅を目標に爆弾攻撃を開始しました。
そのとき、鹿児島駅には鹿児島本線と日豊線の両方からの列車が到着したばかりでした。
ふだんでも混雑していた鹿児島駅構内は、このとき、溢れんばかりの人でごった返していたそうです。

そこへ爆弾投下。
炸裂した1トン爆弾は、凄まじい爆発力で多くの市民たちを殺傷し、駅や周辺の建物に大きな被害を与えました。

この爆撃で車町、恵美須町、和泉屋町、柳町、鹿児島駅が被災しました。
死者420人、負傷者650人、1,783戸が被災しました。
上町地区は、4日後の7月31日にも空襲に見舞われることになります。

■ 7月31日、七回目の空襲
前回の空襲から4日後の7月31日午前11時半ごろ、ロッキードの編隊数十機が襲来し上町一帯を襲撃しました。
この空襲で、清水小や大竜小、多数の民家が焼かれてしまいました。
当時、南州神社にあった西郷隆盛の大きな木像が、この空襲で焼かれてしまったそうです。
西郷さんの木像の写真が、『ふるさとの想い出写真集鹿児島』に掲載されています。

この空襲で、鹿児島駅付近・清水町・池之上町・上竜尾町・下竜尾町一帯が被害を受けました。
被災戸数3251戸、被災人口は16542人にのぼりました。


■ 8月6日、最後の空襲
8月6日午後12時30分頃、艦載機グラマン・カーチスが襲来。
爆弾投下と機銃掃射をおこない、上荒田や西鹿児島駅付近、城西方面一帯、伊敷の18部隊兵舎が焼失しました。
この日の空襲が最後でありましたが、このとき鹿児島市内は廃墟となっていました。

被災場所;上荒田町、原良町、薬師町、伊敷村一帯
被災戸数1789戸、死傷者不明、被災人口は6817人を数えました。


■ 8回の空襲による被災状況
8回の空襲によって鹿児島市が受けた被害は、死者3329人・負傷者4633人・行方不明35人・その他10万7388人、合計11万5385人に及びました。

建物の罹災戸数2万497戸、半焼169戸、全壊655戸、半壊640戸、計2万1961戸。
全戸数3万8760戸に対し、57%にのぼりました。
鹿児島市は焼野原となり、市街地の約93%、327万坪が焼失してしまいました。

当時の様子を『激動二十年 鹿児島県の戦後史』では、次のように記しています。
「鹿児島市は“死の町”と化していた。爆撃の恐怖からのがれるため、市民はいなかへ疎開してしまい、天文館など広大な中心部は“人口ゼロ”の状態がつづいた。」

■ 無防備になった鹿児島の空
『勝目清回顧録』に、当時の鹿児島航空隊の記事を掲載しています。

「鹿児島の海軍航空隊は戦争中非常に活躍していた。ことに沖縄が戦場となってからは、盛んに出動していた。
沖縄戦争がまだ途中であるのに、敵機の鹿児島来襲は激しくなった。6月17日の空襲後はますます敵機の来襲が甚だしい。
鹿児島の航空隊は北九州に引き揚げることになった。

かくして鹿児島の航空隊は人知れず姿を消した。ほとんど無防備といっていいくらいの鹿児島になった。航空隊が引き揚げるようではいよいよ大事と内心不安をもったが、いうことはできなかった」

■ アメリカ戦略爆撃調査団の報告
終戦直後、アメリカ戦略爆撃調査団は、次のような報告書を作成しました。

「日本の民間防衛当局は、将来の空襲の規模を誤って推定していた。防空計画は誤った考えのもとで作られ、軍は民間人を空襲から防護するため、ほとんど何もしなかった。
発達した救助技術があったなら、死者数は削減し得た。」

日本本土に落とされた爆弾は16万800トン。
ドイツと比べると損害は同程度でしたが、投下した爆弾は9分の1だったそうです。
posted by ぶらかご.com at 22:36| Comment(0) | 鹿児島の近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする