2014年04月07日

赤痢の異常発生

昭和20年6月から9月まで、鹿児島県下において赤痢が蔓延しました。
赤痢発生源のひとつとして、軍が構築したタコつぼ陣地が指摘されています。

昭和20年春ごろのこと。
アメリカ軍の鹿児島上陸作戦が近いとみた軍は、吹上浜・志布志湾一帯に戦力を集中。
アメリカ軍戦車隊の通過が予想される砂浜や荒野に、無数の「タコつぼ」陣地を構築しました。
医薬品は無く、農家から借りた石臼で木炭を粉末にして飲むことが精いっぱいであったそうです。
このタコつぼ部隊が赤痢発生源のひとつと見なされたのでした。

部隊の赤痢重症患者は、次々と鹿児島市伊敷にあった陸軍病院に運ばれました。
一日2,3回、グラマンの機銃掃射の合間を縫って走る満員列車で、患者は西鹿児島駅に到着しました。
西鹿児島駅から伊敷の病院まで3キロメートル。
伊敷街道には、衛生兵に引率された患者の列が続いていました。
途中、患者たちは下痢の連続で、ズボンのベルトを緩める暇もなかったそうです。
3キロの伊敷街道は、兵隊たちが排泄する真っ赤な血で染まりました。
アメリカのグラマンが空から襲ってきても、赤痢にかかった兵隊たちは逃げる気力さえありませんでした。

鹿児島陸軍病院は、5棟の病舎(約250ベッド)でありましたが、超満員になっていました。
ベッドから溢れた患者たちは、軒先や廊下に横たわるという有様でした。
また、院内は異様な臭いが充満していたそうです。

ズルファミンという抗生物質を投与しても、栄養不良の兵隊の体には抵抗力がなく、毎日数人ずつ死んでいきました。
遺体は病院前の甲突川で、ガソリンをかけて火葬にしたそうです。


■ 6月17日の大空襲
この日、鹿児島市が焼野原になった直後、鹿児島陸軍病院の2棟を解体して約4キロ先の河頭中学校近くの杉林に疎開しました。
立木を柱にして、荒縄で古材を結びつけた病舎の屋根は板を並べただけあったため、雨漏りはひどいものでした。

患者は約300人。
板の上に毛布を一枚敷き、隙間なく収容していました。
溢れた患者は野道に並べるといった、野ざらし状態でした。
夜、軍医が懐中電灯の灯りを頼りに回診しますが、翌朝には死亡していることもしばしばであったそうです。

その後も、吹上浜や志布志湾から、赤痢患者がぞくぞくと鹿児島市にやってくるのでした。
赤痢は廃墟の鹿児島市にあっという間に広がってしまいました。
鹿児島市民は相次ぐ空襲のため、防空壕に缶詰にされていました。
しかも梅雨入りしていた6月17日ごろ、防空壕には腰までつかるほど水が溜まっていました。
空襲のために市街地の水道網は寸断、いたるところに汚水が溢れていました。
食糧難はピークに達し、市民の多くは栄養失調に近い状態であったため、病原菌に対する抵抗力は殆どありませんでした。

鹿児島県公衆予防課に届出があった患者だけでも3522人に達し、そのうち338人が死亡していました。
届出を行った者たちの数ですから、実際はもっと多くの患者と死者があったと思われます。





posted by ぶらかご.com at 22:35| Comment(0) | 鹿児島の近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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