2014年04月11日

長崎原爆投下と鹿児島の学生たち

20億ドルの巨費と13万人を動員したマンハッタン計画は、1945年4月末、原爆完成が秒読み段階に入っていました。
このとき、アメリカ陸軍の原爆標的委員会が開かれていました。
標的として挙げられた都市は、東京湾・川崎・横浜・名古屋・大阪・神戸・京都・広島・呉・山口・下関・八幡・小倉・福岡・長崎・佐世保・熊本でありました。

5月末になると、B29や艦載機による空爆によって破壊された都市が多くなってきました。
標的委員会は、目標を小倉・広島・新潟・京都に絞り込んでいました。
スチムソン陸軍長官は、かつて訪れたことのある京都選定に対して強硬に反対したそうです。

■ 七高生の勤労動員
旧制七高造士館2年に進級したばかりの106人が、鹿児島駅での盛大な見送りを受けていました。
彼らが勤労動員先の長崎市に到着したのは、昭和20年4月10日のことでした。
与えられた任務は三菱兵器製作所で、特殊魚雷を生産するものでした。
学生たちの宿舎は「にしごう」という寮でありましたが、彼らは「さいごう寮」と呼んでいました。

その頃、主要都市への空襲が続いていましたが、長崎ではみられませんでした。
アメリカ軍は原爆の目標となった都市への通常爆撃を一時期、禁止していたのでした。

7月25日朝、アメリカ戦略空軍司令官に命令書が届きました。
それはトルーマン大統領が承認した命令書で、「8月3日以降、天候が目視爆撃を許す限り、すみやかに特殊爆弾を次の目標(広島・小倉・新潟および長崎)のひとつに投下せよ。」というものでした。

■ 昭和20年8月9日
昭和20年8月9日午前11時2分、プルトニウム爆弾「ファットマン」を載せたボックスカー号は、長崎市の北、浦上地区上空に原爆を投下しました。
上空約500メートルで炸裂した原爆は、6.7平方キロメートルを廃塵と化し、直接被爆者だけで28万人にも及んだのでした。

被爆当時、長崎にいた生徒は99人。死亡・行方不明者14人、負傷は50人を越えたそうです。
七高生たちは、被爆翌日から長崎を後にし始めました。

当時、七高校舎は空襲で焼けていました。
戦後、場所探しに苦労していましたが、11月26日、出水の海軍航空隊兵舎で開校することができました。
12月15日、出水市の西照寺で殉難学徒の慰霊祭が行われ、9つの遺族が参加したそうです。

先の戦争では兵士だけでなく、学徒動員の七高生や女子挺身隊員、徴用工など命を落とした人々の数は、あまりにも多いものがありました。

■ 原爆の噂
情報統制によって、各地の空襲被害の状況を知るすべを持たなかった一般市民。
広島・長崎に落とされた原爆について、正確な情報を得ることはできませんでした。

しかし、どこから伝わってきたものか、「広島に大型爆弾が落とされた」という話が市民たちの間に伝わっていました。
『勝目清回顧録』に、当時の様子が掲載されていますので、紹介してみます。

「人の口というものは、まったく早いものである。8月7、8日ごろには、どこからともなく広島に大爆弾が落下したそうだとの話が伝わった。半信半疑で初めは聞いていたが、日を経るに従って真実であることが判明した。しかも初めの話より以上のものであり、正体の分からない爆弾らしいとのことである。
原子爆弾というのは後でわかった。」



posted by ぶらかご.com at 22:25| Comment(0) | 鹿児島の近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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