2014年04月13日

昭和20年8月15日

昭和20年8月6日・9日に、広島・長崎に原爆が投下され、ソ連の対日参戦によって日本の敗戦は決定的なものとなりました。
軍部は本土決戦を叫び戦争継続を唱えていましたが、政府は8月14日にポツダム宣言受諾、無条件降伏することを決定しました。
8月15日正午、天皇の「終戦詔書」がラジオで全国民に告げられ、戦争が終わったのでした。

■ 8月15日前後
8月14日、それまで毎日のように鹿児島上空に現れていたアメリカ軍機が機影を見せませんでした。
その日の夕方、同盟通信社鹿児島支局に無電にて情報を接受。
当時、同盟通信社鹿児島支局は、城山の薩摩義士碑下にあった横穴壕に移転していました。

情報によると、宮中で御前会議が開かれ「無条件降伏・ポツダム宣言受諾」が決まり、15日正午には天皇陛下自らマイクの前に立たれて終戦の大詔を放送されるというものでした。
当時鹿児島市防空課長であった本田斉さんは、情報を鹿児島市役所・上之原本部に持ち帰り岩切市長に報告しました。
情報を肯定する者もあれば、”敵の謀略”という人もあったそうです。
このとき、鹿児島市役所は昭和20年7月27日に、上之原水源地のトンネルに移転していました。

『あれから10年』(本田斉著)によると、8月15日の様子を次のように記しています。

「8月15日の正午、城山の横穴壕に在る同盟通信支局へ行き、正午のニュースを今や遅しと待った。
アナウンサーの声は物すごい雑音に混じり、はっきりと聞き取ることは困難であったが、それはまさしく無条件降伏せりとのニュースであった。真実であろうかと幾度か自分の耳を疑ったが、それは、まがうことなき冷厳な事実であった。
続いて東京から電波に乗って送られる天皇陛下の声も途切れ途切れで、その語句一つ一つを聞き取ることはできなかたが、・・・。
その日この情報を持って上之原の仮市役所に帰り、岩切市長に報告するとさすがに市長も”そうか”とうなずかれたのみであった」

このとき、鹿児島の市街地は完全な焼野原で、街には電線が垂れ乱れ、瓦礫の街にはビルの残骸が気味悪くそそり立ち全く手のつけようがなかった。
広い焼野が原と化した市街を静かに眺めた市民は、今さらのように戦争の惨めさをひとしお体感した。(『鹿児島のおいたち』より)

天皇の大詔によって戦争は終わりましたが、鹿児島ではまだまだ混乱が続くことになります。
posted by ぶらかご.com at 20:12| Comment(2) | 鹿児島の近代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする