2014年04月17日

一部青年将校による、終戦詔勅返還の動き

終戦当日、神奈川県厚木海軍航空隊の戦闘機部隊が降伏反対のビラを空から関東一円に撒きました。
基地司令は小薗安名大佐、旧加世田市万世町出身。
厚木と鹿屋は米軍が日本進駐の先遣隊を着陸させよとした基地でありました。
もし、厚木や鹿屋で事故が起きてしまうと、戦争終結の計画が水の泡となってしまう可能性がありました。
厚木では、行動を抑え込むため陸戦隊まで用意されたのでした。

鹿児島では終戦直後、鹿児島地区軍司令官大迫通貞中将を擁した青年将校たちが、「徹底抗戦」を叫んで不穏な行動を起こし始めていました。
8月15日の夜から6日間、目まぐるしい動きが展開されたのでした。

■ 抗戦ビラ
当時、鹿児島地区司令部は冷水峠の横穴防空壕にあり、磯の重富荘が司令官宿舎になっていました。
司令部付の将校や下士官は付近の焼け残った旅館や民家に分宿していたそうです。

8月15日、大迫司令官は玉音放送が終わると横穴防空壕に幹部将校を集めました。
「陛下にすまぬ。忠誠を尽くす道を考えよ」と訓示しました。
この夜、四人の若い将校が重富荘に集まり密談を開き、「米軍が上陸すれば戦う」ことで一致しました。
ビラ作りや司令部にある武器・食料搬出などの作戦を練ったそうです。

草牟田に疎開中であった鹿児島日報の印刷機でビラ2400部を印刷しましたが、配布する前に憲兵隊に押さえられてしまいました。
しかし15日夜、ザラ紙と20枚の大型模造紙に書かれた抗戦ビラは、伊敷や天文館・高見馬場・武之橋・唐湊・鴨池方面に貼られていました。
憲兵隊によって、16日中にすべて剥がされたそうです。
ビラを目にした人はごく一部に過ぎず、「大西郷につづけ」「薩英戦争では勝った」「軍は健在だ」「あくまで戦う」などが書かれていたそうです。

「鹿児島地区司令部内で終戦反対をとなえ、不穏の動きがある」という情報が、伊集院にあった第40軍司令部に鹿児島憲兵分隊から入っていました。
確認のため憲兵隊本部司法主任であった吉尾逸曹長が、鹿児島市に派遣されました。
「地区司令部の若手将校は、海軍航空隊と連絡し飛行機で空からビラをまく恐れがある」という情報をつかむと、伊集院の中沢中将に報告しました。
すぐ、大迫司令を呼び出す手続きに入りました。

■ 海音寺潮五郎と大迫司令
8月17日、城山の横穴防空壕に作家の海音寺潮五郎が大迫を訪ねてきました。
海音寺は、「決起するとすれば、敵は日本の中央部ということになる。いうならば西南戦争の再現だが、兵力・武器の用意はいかに?」と大迫に尋ねました。

大迫司令官は実情を説明。
海音寺は、「それならば、西南戦争のときよりも悪いではないか」と言ったそうです。
海音寺は、下から突き上げられている大迫司令の心中を読み取り、「結局は天皇の御心に沿うことになるだろう」と判断して別れたそうです。
大口に帰る途中、海音寺は「敗戦こそ、日本にとって神風であるに違いない」と呟いたそうです。

■ 大迫司令の説得
伊集院の第40軍司令官中沢中将は、戦争終結の大方針が決まるとともに、横山第16方面司令官から軍内部に混乱を起こさぬよう厳命を受けていました。
鹿児島には米軍上陸に備えた実戦部隊、およそ30万人が密集していました。
全面降伏という不名誉な事態に対し、将兵たちの反応がとても気になるところでありました。
処置を誤れば、混乱はどこまで波及するか計り知れないものがあったのです。
中沢中将は、鹿児島地区司令部の一部将校による「徹底抗戦」の動きに対して一刻も猶予できず、断固たる処置をとる必要がありました。

当時、軍の命令系統は西部軍管区・横山中将のもとに、熊本管区・土橋中将、その下に鹿児島地区司令部がありました。
第16方面軍・横山司令官の下に第40軍は属しており、中沢中将は薩摩半島一円に布陣する軍治安の責任者でありました。

8月18日、横山司令官と大迫司令官が伊集院の司令部で会談することとなりました。
司令官部廊下には、青年将校14,5人がピストルに実弾を込めて待機、大迫司令が聞き入れないときは射殺もやむを得ずという険悪な空気であったそうです。
午後8時ごろから始まった会談は、午後11時頃に終わりました。

8月20日、大迫司令は乗用車で熊本へ、それから汽車で二日市の西部軍管区へ出頭。
地区司令官の職務は停止され、後任には伊佐中将が発令されました。

大迫司令官は、旧東市来町出身で昭和20年3月末、予備役で召集され鹿児島地区司令官に就任していました。
本土決戦をひかえ地区防衛強化のため、とくに起用されたそうです。
温厚で包容力に富む同将軍は、民間にも信望厚く軍民一体の体制をつくるには最適の人物だったようです。

大迫中将の解任によって終戦詔書返還運動はなくなり、混乱を未然に防ぐことができたのでした。
この頃、市民たちの間には、「米軍上陸したら女子供たちは銃殺される」というデマが飛び交い、鹿児島県下で大きな騒ぎになっていました。
posted by ぶらかご.com at 23:17| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。