2014年04月19日

デマと避難さわぎ

■ 一気に広まったデマ
鹿児島県下の人々の間で、「米軍上陸によって、婦女子は暴行を受けたうえ、皆殺しにされる」というデマが一気に広がっていました。
南九州は沖縄本島につづいて、米軍上陸の予想地点として本土防衛軍30万人が県下一帯に配備されていたため、デマは真実性を帯びてアッという間に広がっていました。

終戦の15日から16日にかけて、多くの市民たちは食料や衣類などを持って続々と避難しました。
避難する人々の流れは伊敷方面、伊集院方面、蒲生方面へと向かい、その騒ぎが沿道の人々を巻き込んで県下あげての避難騒ぎとなってしまいました。
鹿児島市の人は伊敷へ、伊敷の人は小山田へ、小山田の人は郡山へ、郡山の人はさらに奥へといった「少しでも山奥へ」といった状況でありました。

終戦翌日の朝、磯街道は「米軍進駐」の情報におびえる避難民の群れでいっぱいだったそうです。
お年寄りから女、子供までリュックを背負い、両手には風呂敷包をさげて汗とホコリにまみれての移動でした。
なかには竹で作った乳母車に衣類や食料を山のように積んで押していく人もありました。
人々は、デコボコの砂利道を黙々と北へ北へと向かっていました。

「婦女子は暴行を受けたうえ、皆殺しにされる」というデマによって、女学生から中年の婦人まで顔をススで黒く塗ったり、髪を短く切って男装をする人もあったそうです。

■ その他のデマ
婦女子は暴行を受けたうえ、皆殺しにされる」というデマ以外にも、次のようなものが流れていたそうです。
1.中国の軍艦5隻が甑島の沖にさしかかり、南九州地区は同国軍隊によって占領されることになった。
2.アメリカの落下傘部隊が鹿屋の飛行場に降下した。
3.アメリカ軍が隼人の飛行場に着陸して、すでに飛行場を出発して加治木街道を鹿児島へ向け進撃中。
4.アメリカの軍隊が山川沖にさしかかっている。
5.進駐軍が川内まできた

8月21日の出水では、鹿屋海軍航空隊参謀が出水・大川内・高尾野・野田・米ノ津の各町村長たちにこう告げました。
「今夜十二時を期して米軍が出水飛行場に落下傘で降下する。何をされるかわからないので全員避難させよ」
各町村長は、急いで人々に知らせました。
告知から1時間も経たぬうちに、出水町広瀬から山手の大川内へ通ずる県道は、大八車やリヤカーを押す人たちでぎっしり詰まったそうです。

翌朝、参謀の命令がデマであったことが分かると、翌日朝から山を下ってホッとした表情で我が家へ戻ってくということもあったそうです。

こうしたデマと避難騒ぎは、鹿児島市内だけでなく鹿児島県一帯で発生したそうです。


■ 行政の不手際
昭和20年8月15日午後、鹿児島県知事部局から各地方事務所に重要書類の焼却と女子供の避難命令が出されました。
このことが、県民たちの動揺に拍車をかけてしまいました。
『あれから十年』では、当時の様子を次のように記述しています。

時も時、県庁から「アメリカ軍が上陸すると婦女子は必ず辱めを受けるから海岸線より少なくとも二里以上山奥に避難し、市町村の職員は之と行動を共にすべし。
なお、戦争に関係のあった書類や物は直ちに焼却せよとの達示があった。

市民はまるで夢遊病者の如く恐怖にさまよい、頼るべき希望もない最中にこの様な県知事からの達示で一段の動揺を醸したことはいなめない。

この達示を受け取った岩切鹿児島市長は、血相を変えて大いに反発を試みられた。
曰く「無条件降伏をしたのに左様な非人道的な事が行われるはずはない。むしろ疎開先から一刻もはやく市内に帰って復興に努めることこそ愁眉の急務である。」と言って、その達示を市民に伝えることを拒んだそうです。

■ 岩切鹿児島市長の市民への通達
上之原水源地に市役所を移し、事務を執っていた鹿児島市役所は8月20日から市庁舎に復帰して、事務を開始しました。
市長は、「市民の皆様へ」と題した通達を出しました。
「先般来、いろいろのデマが乱れ飛び、ために人心の不安動揺をきたしましたことは、誠に遺憾に堪えません。どうか皆様もこの際、安んじて大詔のご精神を信奉し、時局の推移に関しては平静なる態度をお持ちください。市は万難を排して皆様の食料配給に遺憾なきを期し、さらに水道や電車の復旧等を急ぎつつあります。皆様はこの秋こそ隣保相寄り、相助て一丸となり、進んで市政にご協力あらんことを希望してやみません。」

続いて8月22日にも、次のように呼びかけました。
「明朗な心持ち、明るい生活にかえって、新たな建設に進んで頂きたいのです。家もなく、物も足りないのに、それはむつかしいのですが、先ず心持ちからでも明るくなってください。
市も各方面に最善の努力をいたします。
1.水道も電燈も電車も復旧を急いでいますから、やがて出来るとおもいます。
2.市庁舎の中に市民病院も始めることにいたしました。
3.住居の問題もいろいろ工夫しておりますが、そのうち何らかの方法が講ぜられることと思います。
4.配給も最善をつくします。
近頃、食糧の盗難が伝えられますが、そんなことは市民の恥ですから、お互いに自戒しましょう。

戦後の混乱のなかで、市民たちのかにはモラルが低下した者たちが、軍物資の掠奪や畑を荒らす者もありました。
混乱のなか、9月、アメリカ軍が鹿児島に進駐してきました。
posted by ぶらかご.com at 22:26| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする