2014年04月27日

軍政部の功績

軍政部は、昭和24年11月鹿児島を引き揚げるまでの4年間、鹿児島の政治・社会・経済・教育・文化などあらゆる面において、帝国主義的・軍国主義的なものを排除して民主主義的なものをもたらしました。

終戦直後、鹿児島県民は恐怖と不安のなかで進駐軍を迎えました。
当初、軍政部も日本人の生活や慣習などを理解していないこともあり、行き過ぎや弊害もあったようです。
のちには、行政マンだけでなく市民たちの間でも友好的なムードが生まれていたそうです。

■ 衛生思想の普及
軍政部が残した功績のひとつに、衛生思想の普及をあげることができるようです。
終戦時、鹿児島市の大部分は焼野原で、上下水道は破壊されていました。
また、いたるところで汚水があふれ、蚊やハエが異常発生して赤痢や伝染病患者が続出していました。
終戦直後、その日暮らしの混乱のなか、蚊やハエの駆除に手が回りませんでした。
そのため、蚊やハエが異常発生して赤痢や伝染病患者の増加に拍車をかけていました。

昭和20年10月、鹿児島に乗り込んだ初代軍政長官ブルーク中佐は、上下水道に塩素、全市にDDT消毒を行いました。
これ以後、歴代軍政長官は鹿児島市の環境衛生面に力を入れたそうです。

当時、鹿児島市長であった勝目清さんは、歴代長官の功績にむくいるため“蚊とハエの撲滅運動”を展開しました。
『勝目清回顧録』で、当時の運動の様子を次のように記しています。
「昭和27年4月、西田町の一部をモデル地区として蚊とハエの撲滅運動をはじめ、翌28年10月にはさらに一大市民運動を展開した」

昭和28年に「蚊とハエのいない生活運動推進本部」を設置。
小学生によるハエ取りコンクールでは、同年11月の1週間で58万匹のハエの死体が集まったそうです。
翌年2月には、二週間で211万匹強。一日に市内で15万匹以上ものハエの死体が集まったそうです。

『鹿児島市政だより』によると、蚊とハエをはじめとする衛生問題に関する記事は、その後も長く掲載されていきます。
軍政部が残した功績は、環境衛生思想だけでなく食糧増産や教育など様々な面に及びました。

■ 経済課長バリー軍属
長身で面長、温和で仕事熱心な姿は、軍政官のうち最も親しまれた人物であったそうです。
終戦直後の食糧危機を乗り切るため、増産運動の先頭に立ち、県下の農村地帯をくまなく回りました

食料供出農家の苦労に感謝するため、昭和22年5月11日鴨池で食料供出感謝大会を催しました。
昭和21年度の供出農家のうち520人と優良指導者80人、合わせて600人が表彰されました。
そうして、「六百人会」というものが組織されたそうです。

勝目清さんによると、感謝大会での表彰式の形式がとても面白かったと記しています。
「バリーさんは表彰される人と向かい合って、左手で表彰状を渡して右手で握手される。
慣れない方法であるので、だいぶまごついたものである。日本の表彰式のように上座からお下げ渡しする形式ではない。さすがに民主的なものであると感じた。」

バリーさんは昭和23年7月末から3ヵ月の休暇でアメリカに帰ることになり、鹿児島の特産物を見本として持って行ったそうです。
同年11月に再来したときは、アメリカから麦の優良品種を持ってきて増産するよう計画をしたそうです。

バリーさんは洒落も十分にできた人でで、本名のシージーバリーを「詩寺馬里」と漢字で書くほどであったそうです。

■ 教育課長ヴォート軍属
昭和22年夏から24年5月まで在任し、男女共学など学制改革に尽力しました。
着任当時、「封建的な先生を締め出せ」と言って一大旋風を巻き起こしたそうです。

アメリカ占領軍は全国にあった忠霊碑や戦争記念碑、天皇行幸記念碑、その他軍語句主義的なものを取り除くことになりました。
そのとき、鹿児島の西郷隆盛像が問題になりました。

東京上野の銅像は支障なしであったそうですが、鹿児島の銅像は陸軍大将の服装であるから軍国主義的と取られたようです。
勝目清さんは、当時の様子を回顧録で次のように記しています。

「私はこのとき、あの銅像が出来るときを、追想せざるをえなかった。そして、あのとき私が、いま一そう強く先輩に説けばよかったと、後悔せざるをえなかった。
というのは、私は和服姿の南洲翁の銅像を造ってもらいたかったので、当時先輩方の協議の席上で、主張したものであったが、ついに容れられなかったからである。
それが戦後こうして、再び別な形で問題になろうとは夢にも思わぬことであった。」

勝目さんは占領軍側の意見を伝えた人に、次のように意見したそうです。

「われわれは、西郷南洲翁が陸軍大将であるが故に尊敬しているのでは決してない。日本人西郷として尊敬しているのである。あの銅像が陸軍大将の服装であろうがなかろうが、無関係である。
ましてやあの服装は、明治初年の陸軍大将の服装であって、その後は著しく変わっているから、あれを陸軍大将と見る人は少ないのである。」

軍政部のほうで、西郷隆盛の研究が始まったそうです。
ヴォートさんは、熱心な西郷研究の結果、大の西郷礼賛者になっていたそうです。
こうして、西郷南洲翁の銅像は撤去されることを免れたのでした。
西郷さんの銅像が軍服姿のため、軍国主義的として破壊される寸前だったものを食い止めたのは、誰あろうヴォートさんでした。


他にも、戦後の鹿児島に功績のあった軍政官があったようですが、今回はここまで。
次回は、進駐軍と市民のトラブルについて触れてみたいと思います。
posted by ぶらかご.com at 18:28| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする