2014年05月29日

食糧増産と開拓事業

■ 開 拓
戦後の混乱期、日本国じゅうが深刻な食糧難に陥っていました。
昭和20年11月9日、政府は閣議で「緊急開拓事業実施要項」を決定しました。
食糧増産、離職者・復員者の就労確保を目的とするもので、直ちに鹿児島県でも実施されることになりました。
鹿児島市吉野、鴨池、出水、知覧などの旧軍用地や飛行場のあった九つの地区を開放して、第一次開拓に着手しました。

『鹿児島市戦災復興誌』に、鴨池飛行場周辺を撮影した写真が掲載されています。
格納庫と掩体壕がいくつか建ち、周辺は広大な畑になっています。

昭和21年3月には、県に開拓第一課が誕生し、1万世帯が入植しました。
3万ヘクタール開拓を目標に、本格的な開拓事業が始められました。
その後、鹿児島県下では約170地区が開拓され、3500世帯(1万4千人)が入植したそうです。

■ イノシシとの戦い
北薩では上場高原に約400世帯が入植、彼らのほとんどが指宿・日置・大隅地方の出身者で、外地からの引揚者と復員軍人が大部分を占めていました。
妻帯者は、ごく少数であったそうです。

開拓者をもっとも困らせたのは、イノシシであったそうです。
朝となく夜となく、イノシシは監視の目をくぐっては耕地を襲いました。
ひと晩で1ヘクタールのサツマイモが全滅したこともありました。
イノシシを仕留めようにも銃がない。
犬ですら戦中戦後の食糧不足で処分され、ほとんどいないといった状況でありました。

昭和23年になるとGHQの指令によって、未開墾地所属変更が行われました。
大口営林署でも管内国有林のうち2300ヘクタールを入植者に払下げ。
そして竹屋敷、日東、豊原、五女木、新拓など24の地区で本格的な開拓営農が始まりました。

このうち五女木に入植した人たちが持っていた財産といえば、県から支給されていた農具一式と一頭の子牛だけであったそうです。
血と汗の努力の結果、昭和24年ごろから生活が安定し始めました。
故郷から妻を呼ぶもの、結婚するものが相次いだそうです。

昭和25年になると、政府から住宅補助として5万円が支給されました。
昭和28年には8万円に増額、電灯がともる地区も現れ始めました。
さらに家畜導入や製茶、養蚕などの特産物には補助金が与えられ、融資制度も生まれていました。
この頃、開拓者の団結と相互繁栄のために、大口市協同組合が発足しました。

■ 軍需景気の波
昭和25年に始まった朝鮮戦争による軍需景気の波は、大口の山中にも押し寄せ、生活水準が急上昇していきました。
開拓者たちは、就職先を見つけると次々に開拓地を下りていくようになりました。
補助金や融資をもらったまま、開拓地を去っていく人たちも少なかったそうです。
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2014年05月26日

デパートと映画館の再開

映画館
1.騎射場の映画館「南映」
終戦後の娯楽は映画から始まりました。
ガレキと焼け野原と化した騎射場電停近くに、共助会倉庫が一軒だけポツンと建っていました。
下荒田の上原三郎さんは映画館の再興を決意すると、戦前からあった文化企業社の仲間をかき集めました。

ある者は映写機を求めて、ある者はフィルム集めに奔走しました。
鹿児島各地の防空壕には、旧軍隊の慰安用のフィルムが放置されていたそうです。
共助会倉庫を改造、ムシロのカーテンで外の光を遮り、シミのついたスクリーンに、デコボコの土間、板張りのベンチが2,3あるだけでした。

そうして、終戦から4日後の8月19日、騎射場で戦後初めての映画が上映されたのでした。
急ごしらえの映画館は、一回に400人ほど収容できたそうです。
9月10日付の鹿児島日報には、1日3000人以上の観客があったと書かれています。

上映された映画は、第1週目が「新雪」、第2週が「坊ちゃんの土俵入り」でありました。
天井に釘づけされたスピーカーは、破れ障子のような響きで主題歌を流していたそうです。

訪れる客の大半は、敗戦で職を失った工員や学徒、復員軍人などでした。
長く激しい戦争によって、娯楽に飢えていた人たちが詰めかけていました。
夏の盛りに戸を締め切り、光線の漏れを気にしながらも、市民たちは久しぶりの解放感を味わっていました。
急ごしらえの映画館は、「南映」と名付けられ、戦後の鹿児島において営業第一号のものとなりました。

2.第一映画劇場
上原さんは9月上旬、骨組みだけとなった山形屋3階の一角をムシロで覆い、「第一映画劇場」を新設しました。
ここでも連日客が押し掛け、超満員の大盛況であったそうです。
観客は、どんなフィルムでも殺到したのでした。

南映と第一映画劇場の両映画館は、さながら大衆娯楽の殿堂ともいえるほどの存在でありました。
上映される映画の大半は、歌と踊り,喜劇ものが大半であったそうです。

しかし、管内では「頭を下げろ!」「帽子をとれ!」といった怒声が乱れ飛び、口笛が鳴ることもあったそうです。
銀幕のヒロインの不幸にも真の涙はなく、喜劇にも腹の底から笑いが出ない虚ろな雰囲気を醸していました。
観客のなかには、行く当てもなくやって来たという人たちも、少なくなかったのでした。

山形屋の再開
露天商が乱立するなか、山形屋は昭和20年9月17日から営業を始めました。
販売商品は、在庫の文房具や台所用品、身の回り品などであったそうです。
この頃、まだ仕入れの見通しが立っていませんでした。
社員たちは、焼けた売り場を一部改造して品物を並べたそうです。
また衣料品補修部を設けて、衣料の更生サービスも始めました。

9月13日、山形屋は1階で公衆食堂をオープンしました。
委託食堂でありましたが、1杯80銭の雑炊が市民たちの人気を集めたそうです。

米軍進駐後、山形屋4階に米軍専用のダンスホールを造ることになりました。
昭和20年12月23日にオープン。
そのオープンは米軍専用ホールであったため、入場できる日本人はダンサーだけでありました。
当然、一般市民は立ち入ることはできませんでした。

一年後、軍政部の大半が引き揚げると、市民にも開放されました。
ダンスホールは、昭和25年まで営業されたそうです。

高島屋の再開
高島屋の再開は、昭和20年暮れのことでありました。
鹿児島港が引き揚げ港に指定され、引揚者の上陸が始まると、高島屋の2階以上を宿舎として提供するよう相談を受けていました。

そうして高島屋の2階から上は、引揚者の宿舎となっていました。
1階を店舗として開店しました。
しかし、商品は山形屋同じく、在庫していたものが大半でありました。
2階から上にあった引揚者の宿舎は、その後2年間つづいたそうです。
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2014年05月25日

戦後のインフレと新円の登場

太平洋戦争によって日本経済は崩壊、終戦直後から極度の物資不足と物価高騰が襲ってきました。

■ インフレと輸入制限
敗戦直後の日本が直面した深刻な問題は、インフレーションでした。
戦争中は、政府による統制によって抑制されていたインフレが敗戦とともに現れ、異常な物価上昇が進んでいきました。

当時の卸売物価指数を見てみると、昭和20年を100としたとき、昭和22年には1375という信じられないほどの上昇をみたのでした。
戦時下、「ぜいたくは敵だ!」のスローガンのもと、極限まで消費を抑えられていた国民に、引き続き辛抱を強いるものでした。

【 インフレの原因 】
1.通貨量の増大
昭和20年〜23年にかけて通貨量は約3倍に増えていました。
軍需品への支払い、軍人への退職金支給などによる臨時軍事費支払の増大や日銀の民間貸出増加などが生じていました。
これらの政府債務は、占領軍の戦時保証債務打ち切りによって解消されることになりました。

しかし、政府は戦争時に引き続いて価格差補給金を企業に支給、食糧管理制度や国鉄の赤字などによって巨額の財政赤字を新たに発生させていたのでした。
日銀引受国債の発行と日銀対政府貸出によって埋め合わせられたため、財政赤字がそのまま民間への資金供給を増加させることになりました。

そこへ、およそ150万人もの引揚者が帰国、人口増加やインフレ期待によって換物運動が活発となったことでインフレを加速させることになったようです。

2.生産量の落ち込み
生産量の落ち込みも激しく、鉱工業生産指数から昭和11年を100とすると、昭和21年25、昭和23年41という有様でした。
生産量落ち込みの原因には、生産設備の破壊と輸入制限にあったようです。

生産設備は、戦時中の度重なる空爆によってほとんど破壊されていました。
また、敗戦と同時に軍の需要がなくなり、重化学工業設備が遊休化していたのでした。
供給不足の最大の原因は、輸入制限にあったと言われています。

占領当局は懲罰的な意図から日本の貿易を管理下に置き、輸入は必要最低限の生活必需品に限定し、輸出はその見返り品に限定させられていました。
製造業者は原材料不足にも悩まされたのでした。
昭和22年8月には民間貿易が再開されましたが、回復にはほど遠いものでした。

製造業者の原料不足以上に深刻であったのが、食糧不足でした。
都市住民たちは、農村部への買い出しやヤミ市によって辛うじて飢えをしのぐという有様でした。
日本政府の懇請によって、アメリカの食糧援助が昭和21年から始まりましたが、必要量をはるかに下回るものでした。

■ 鹿児島の様子
インフレの波は、一面焼け野原の鹿児島市にも容赦なく押し寄せてきました。
鹿児島市の電車料金は、終戦時10銭でしたが、昭和24年までに7回も値上げされ、7円にまでなっていました。
じつに、70倍もの値上がりでした。
目まぐるしい料金改定に、当局は乗車券の刷り直しや帳簿の書き換えで、大わらわであったそうです。

鉄道運賃も昭和21年3月、旅客で約2.5倍、貨物で約3倍の値上げが実施されるなど、インフレは深刻化するばかりでした。

■ 新しい円の登場
昭和21年2月16日、政府はインフレ対策のため、「金融緊急措置令」と「日本銀行券預入令」という金融統制を実施しました。
その概要を記すと、次のようになります。
1.銀行や郵便局など金融機関への預貯金は支払を停止して封鎖
2.流通中の10円以上の日銀券は3月2日限りで効力喪失
3.同時に10円以上の新円を発行、3月7日までに旧円と等価交換
4.1人100円の新円交換を行い、他の交換分は預金として封鎖
5.封鎖預金から生活資金としての支払いは、月額世帯主300円、世帯員一人100円

預金封鎖と新円交換の実施は、いくつかの珍現象を生みました。
少額貨幣を集めるブローカーが登場しました。
封鎖されない10銭、50銭、5円を手にするため、ブローカーたちは駅頭やヤミ市場などで「5円札一枚が10円と交換できるよ」と呼びかけました。

法の網の目を掻い潜る悪徳商人たちは、不正両替で多額の貨幣をかき集め、財産税逃れを図りました。
大蔵省でも脱税行為に目を光らせ、各金融機関も小額紙幣の払い出しを渋ったそうです。
食堂やデパート、駅の窓口でも10円以上の紙幣を敬遠するようになりました。
山形屋では、「つり銭のいらぬように」と貼り紙を出すほどであったそうです。

インフレ対策を講じましたが、悪性インフレは進行するばかりでした。
これまでコツコツ貯めてきた貯金も、インフレによって二束三文の価値しかありませんでした。
庶民の生活は、あまりにも苦しいものでありました。
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