2014年05月22日

外地引揚者

■ 南方からの引揚者
昭和20年10月15日、GHQは鹿児島を南方地域の引揚げ基地に指定しました。
南大東島からの帰還兵287人を乗せた第一船は、10月29日、加治木に入港しました。
別府川の岸壁埠頭から上陸、加治木療養所の引揚民事務所へと移りました。
上陸した兵たちは、いずれもやせ衰えフラフラした足取り。
食糧補給路を断たれた戦地で、木の実やトカゲ類を常食としていたのでした。

第二船は10月30日午後。フィリピン・マニラの一般邦人150人。
第三船は31日、マニラの一般邦人299人が相次いで上陸しました。
上陸した人々の大半がマラリアに罹っており、重傷者は病院へ直行されました。
また、上陸した人のなかには両親を失った孤児や遺骨を抱いた婦人もありました。

岸壁では連合国側の調査や検疫が行われ、所持していた現地軍票は、海運局職員の手で没収され一時援護金が手渡されました。
そして、DDTという薬品で全身の消毒が行われました。

■ 中国からの引揚者
中国大陸からの引揚第一陣は、昭和20年11月17日のことでした。
イギリスの貨物船で軍人・一般邦人合わせて695人が、加治木へ上陸しました。
船から降りた人々の服装は、コートや新しい革靴姿。
マニラ方面の引揚者とは、比べものにならないほど恵まれた服装をしていました。

加治木には、連日のように引揚船が入港しました。
昭和22年末には鹿児島港へと移り、加治木港は外地引揚という役割を終えたのでした。

昭和22年1月末、援護局閉鎖までに鹿児島へ上陸した外地引揚者は、36万924人。
中国大陸からの引揚者18万3千余人、台湾10万4千余人、タイ1万5千余人、フィリピン1万2千余人など南方からの人々が大半でありました。
輸送に当たった船舶は、495隻(日本船468隻・外国船27隻)であったそうです。

■ 鹿児島港への引揚者
鹿児島港への第一陣は、昭和22年12月15日朝、青島(チンタオ)からの一般邦人2200余人でありました。
米軍上陸用舟艇LST3隻が、第一桟橋に船首をつけました。
左右に開いたステップから、引揚者たちは鹿児島に上陸しました。
米軍のピストン輸送を目の当たりにした関係者たちは、能率的な行動に目を見張ったそうです。
ここでも、米軍の力を思い知らされたのでした。

■ 外地引揚者の受け入れ
昭和22年11月、鹿児島港は、浦賀・舞鶴・呉・下関・博多・佐世保と共に厚生省直属の引揚援護局の設置を命じられました。
毎日7000人ずつ、およそ200万人の受け入れ準備せよとの命令でした。
当時の竜野知事指揮のもと、宿舎・食料・医療・輸送の準備に当たりました。
海軍航空隊跡、旧十八部隊、農業専門学校、玉江、武、田上の国民学校など17か所が宿舎に指定されました。
爆風で吹き飛ばされた屋根や窓を補修して、1万5千人を収容できる体制を整えました。

医療施設に関しては、毎日7000人が上陸すると想定。
加治木での例からして、一日210人の患者が平均2週間入院すると予想しました。
桟橋近くにバラック建ての収容所を新設、旧河頭分院、医専附属病院、三船療養所など陸軍病院12ヶ所に2900ベッドを確保しました。

医者は軍医や開業医を100人ほど集め、広く公募した看護婦約280人を配置しました。
それでも患者を対処できず、県立医専から大量の応援を求めるほどであったそうです。

■ 自活を模索する引揚者たち
県下の引揚者たちは、自活の道を模索していました。
そうして、鹿児島市には引揚者だけで作った2つの市場が誕生しました。
高見馬場厚生市場、騎射場市場の2つ。
昭和21年春の誕生当時は、いずれも70世帯以上もあったそうです。

ガレキの原に、焼け残りの古板を立て掛けたバラック、間口一間(1.8メートル)。
荒ムシロ2,3枚を並べただけの店が並んでいました。
ふかしたイモやイモダンゴを並べた食料品店や、古着屋が大半であったそうです。

見せを開く者や開拓団として山奥へと行く者など、自活の道を探る人たちがあるなか、行先の無い引揚者たちもいました。
彼らは鹿児島駅前から海岸通り一帯に集まっていきました。
その一帯は、引揚者だけでなく第三国人も大量に入り込み、秩序を持たないカオスの状態にありました。
悪質なヤミ市や街頭トバク、夜の女が横行し、倉庫荒らしや暴行事件が頻発していました。
警官でさえ、ひとり歩きは危険な一帯となっていたのでした。

警察は柔道の有段者5人を常駐させ、派出所に段数を大書した紙を貼り付けて、牽制したそうです。
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2014年05月20日

終戦直後、漁村の様子

かごしま20世紀 山河こえて 上巻』上巻に、終戦直後の様子を次のように記しています。
終戦後、全国的な不作と台風による災害、桜島の降灰によって食糧難が深刻化。
そこに、約25万人もの復員兵や引揚者が加わり、人口は膨れ上がっていました。
ひとり当たり2合1勺(300グラムほど)の配給食糧の確保は容易ではなく、ひと月に十日分がやっという有様でした。
国民の平均摂取栄養は1200キロカロリーで、戦前に比べ約半分近くまで低下していました。
栄養失調の人々が、続出していました。

1946年、鹿児島県が「ドングリパンで食糧危機を突破」や「カボチャとダイコンで食を切り抜けよう」というスローガンをつくりましたが、現実はもっと悲惨なものであったようです。
当時の南日本新聞に、サバイバル食さながらの食べられる物の特集や紹介が掲載されています。すこし取り上げてみました。
カタツムリの照焼き、カエルの天ぷら、摘み草の手引き、フスマ(小麦カス)の美味しい調理法など。

このような食糧状況のなか、串木野ではイワシによって活気が戻りつつありました。

■ 串木野とイワシ
串木野は昭和20年7月29日、8月9日、8月12日の空襲によって、町の8割が焼失してしまいました。
終戦時の串木野・島平・羽島の港は、魚の匂いさえしないほどであったそうです。

戦前、串木野には20トン以上のマグロ漁船が180隻ほどいましたが、戦時色が強くなると、軍の輸送船や警備艇として乗組員ともども徴用されてしまいました。
お国のために、船と運命をともにして行方不明となった人たちも多かったそうです。

焼け跡にもっとも早くバラックが建ち始めたのは、鹿児島県下にあっては串木野であったそうです。
そこには、イワシと深い関係がありました。

昭和20年12月、復員者たちは船をかき集めイワシ刺し網漁再開にこぎつけました。
4,5トンの帆船が多かったようですが、戦時中野放しであったイワシは群れをなして沿岸に押し寄せ、遠出しなくても面白いようにとれたそうです。
大漁続きで、イワシが揚場から道路まであふれ出るほどでした。
活気に満ちた漁港では、イワシが札束に変り、米や着物、果ては家屋へと変わっていったそうです。

港の揚場には、県内はもとより北九州、広島方面からイワシの買い出しに訪れていました。
木炭トラック数十台が、毎日、列をつくるほどでした。
ヤミ商人も出没、串木野の人でイワシの担ぎ屋をしなかった人は、なかったそうです。

ある人は、石油缶にイワシを30キロほど入れ、リュックで博多まで販売に行ったそうです。
一尾1円程度で仕入れたイワシを、10円の値をつけても飛ぶように売れたそうです。
汽車賃を差し引いても、一度運べば懐に千円入りました。
教員の月給が500円前後、わずか一日で2か月分を稼ぐことができたのでした。

当時の串木野には、「オガノコ」と呼ばれるカツギ屋も多かったそうです。
オガノコは、押しても引いても切れる鋸のこと。
イワシを担いで山手で売り、帰りは米を担いで町で売るという両方で儲けようとする商法でした。
戦後の混乱期、人々は生きるために必死でありました。

■ 塩たきの流行
農漁村でも穀倉地帯を除けば、飢えは深刻なものでした。
海に面した町村では、生きるために自家製塩を始める者たちが現れました。
自家製塩は瞬く間に広がりを見せ、串木野・枕崎・桜島・垂水の海岸線では1947年まで塩焚きがみられました。

終戦当時、国内の塩の備蓄は必要量の四分の一もありませんでした。
政府は自家製塩を奨励するいっぽうで、割当量を納入させる方法をとりました。
当時、「塩一升に米一升」といわれ、塩は生活に欠かせぬものであり、米と等価交換されるほどでした。
佐賀や熊本など米の主産地にあっては、醤油や味噌をつくるための塩が極度に不足していたため、米よりも価値があったそうです。

つくった塩は佐賀や熊本で米と交換して帰ってくるのでした。
米に対する取り締まりは厳しく、佐賀や熊本から帰ってくるところを狙い撃ち。
最大の難関は伊集院で、持ち帰った米をすべて没収されることもしばしばあったそうです。

昭和24年、専売公社による製塩が本格化するまで、警察の目を潜り抜けての物々交換が繰り返されたのでした。


■ 参考文献
『かごしま20世紀 山河をこえて』上巻・下巻

この本は、戦前・戦中・戦後の鹿児島県の様子を知るうえで、とても参考になります。
やさしい文章は分かりやすく、当時の貴重な写真も掲載されています。
谷山にあった田辺航空工業での作業の様子や、戦時中の防火訓練の様子を撮った写真が掲載されています

鹿児島市立図書館や鹿児島県立図書館にも蔵書されていますので、ご覧になってみてください。






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2014年05月18日

ヤミ市では、タバコが万能

ヤミ市の交換レート
終戦直後、鹿児島駅前から小川町の通りにかけて出現したヤミ市は、県下一といわれたそうです。
復員服やモンペ姿の人々が、その日の食糧など生活必需品を求めて集まり、夜遅くまでにぎわっていました。

小麦や醤油、粉乳、小豆などは貴重品で、とてつもない高値がついていました。
これらの商品は、タバコと交換することが出来たそうです。
変動があったと思われますが、交換レートの一例を示してみます。
「みのり」は、タバコの銘柄で配給品でもありました。

【 交換レート 】
小麦500グラム − みのり6個
醤油一升 − みのり7個
粉乳1缶 − みのり12個
玉子10個 − みのり6個
小豆一升 − みのり7個

【 愛煙家の憂鬱 】
タバコは戦争中から不足し始めていました。
昭和21・22年頃になると、配給は一日に一世帯あたり巻タバコの「みのり」が10本程度でした。

そうした中、専売局(現JT)は、きざみタバコ「のぞみ」とライスペーパー(巻紙)の配給を始めました。
ペーパーの端に糊をつけ、その下に敷いた紙に鉛筆や筆を当てて、巻きずしを作るような感じでキザミを巻き込んでいました。
当時の愛煙家であれば、誰もが経験したことであったそうです。

タバコの吸い方も色々と工夫され、一本を一気に吸うことはもったいなくてできませんでした。
タバコを半分にして、少しずつ吸ったそうです。
指が黄色くなるまで吸っても、1センチほど残るものでした。
残った部分を針で刺して最後まで吸っていました。
そこで、タバコを最後まで吸うことのできる小さな黄色の真鍮キセルが大流行したそうです。

ニコチン不足に悩んだ愛煙家たちは、代用タバコをあみ出しました。
当時のタバコで、もっとも良く似ていたのがヨモギでありました。
鹿児島大学前からナポリ通までの道端に生えていたヨモギは、通勤途中に摘み取られ、あっという間に無くなっていたこともあったそうです。

ヨモギの他にも、松葉、トウモロコシの毛なども使われたそうです。
しまいには、代用タバコを巻くライス・ペーパーも不足してしまいました。
学生の中には、英和辞典の紙を使う者もいたそうです。

【 ヤミに流されるタバコの葉 】
鹿児島県は全国でも有数のタバコの産地。
指宿・国分・川内、鹿屋など各地で、葉タバコを生産する農家が続出してきました。
生産農家が生産した葉タバコが、ヤミに流されていくものもありました。
ヤミたばこのほとんどは、小川町や易居町のヤミ市で売られていました。

専売局鹿児島地方出張所では、これまで15人であった監視員を150人に増員。
ヤミたばこの取り締まりを強化しました。
毎晩、ヤミ布をかぶせたトラック2台に監視員30人が交代で乗り込み、ヤミ市に出かけました。
夜、取引を確認するとライトを照らし、ひと晩平均30人を検挙していました。
売人のほとんどが、売春婦だったそうです。

1ヶ月の生活費が3000円といわれていた頃、葉タバコ21貫で1万4,5千円のヤミたばこを生産することができたそうです。
ヤミたばこは、昭和26年頃までつづきました。


小川町周辺の様子
終戦から5年経った頃になると、鹿児島市のいたるところで復興が進み始めていました。
市街地の片隅には、戦後の混乱を象徴するような「ドヤ街」が生まれていました。

「ドヤ街」は、日雇い労働者が多く住む街のこと、「ドヤ」は「宿(やど)」の逆さ言葉からきているそうです。
当時、鹿児島駅前から小川町・易居町一帯は、終戦直後からヤミ市と特飲街がならんでいました。
住民のほとんどは、日本国籍を持たない朝鮮人など「第三国人」であったそうです。
男たちはブローカー、街頭トバク、恐喝、売春婦のヒモなどで生活をしていました。
船でヤミ物資を運んで得た金を、「モミトバク」で巻き上げられる人もありました。

とにもかくにも、当時の小川町は怖いところであったそうです。
posted by ぶらかご.com at 08:44| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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