2014年05月15日

ヤミ市にまつわる話

■ 判事とヤミ屋
昭和20年10月30日、鹿屋区裁で食管法違反事件の判決公判が行われました。
裁判長が判決文を読み終わり、判決理由に移ったときのこと。
被告席から、「ヤミをして何が悪いか。お前はヤミ米を買ったことがないのか。いま世間でヤミをしないやつがどこにいる!」という叫び声がしました。

被告は肝属郡串良町細山田の出身。
人々が血眼になって食べ物を探している頃、農家からサツマイモ一俵を600CCの無水アルコールと引き換えに集めていました。
集めたサツマイモを焼酎密造業者や澱粉業者に流していたところを御用となり、裁判を受けていたのでした。

被告は刑務所の中で、出所してからのことを考えました。
「あの判事め、毎日家の前に座り込んで、奴がヤミ米を買うところ押さえてやる。裁判ではえらそうな口をききやがって」
昭和22年6月、出所すると鹿屋に移り住み、毎日判事宅の近くをうろついていました。
浮浪者を装って家の様子をうかがい、家族や客の出入りには全神経をとがらせていたのでした。
判事の隣近所で聞き込みをしたところ、以前判事の家族がヤミ米を買ったことをつかんでいました。

張り込みは半年つづいていました。
昭和23年1月になると、判事の姿を見かけなくなりました。
2月末ごろ、判事の家に人が集まっていたため、さりげなく聞いてみました。
「ご主人が亡くなられたのです。栄養失調だったそうです。」

被告は判事の家族と面会して、「ご主人の誠実な人柄に心を打たれました。自分は浅薄な人間でした」と詫びたそうです。
判事の墓に参りました。
被告は小銭ができると、判事の家族に見舞金を置いて行ったそうです。

■ 人気を呼んだ商売
1.古本屋

当時、ヤミ市では古本屋に集う人々もありました。
とくに売れ行きの良い本は、食糧関係の本でありました。
家庭園芸や増産の秘訣といった本が売れ筋で、次が映画雑誌であったそうです。
また、学生たちは社会科学の解説書などを買い求めたそうです。
戦後の日本に入ってきた民主主義について、知りたいといったことがあったようです。

戦前、5,6軒にすぎなかった古本屋、昭和21年10月には40軒を超えるほどであったそうです。
古本屋を出店した人々は、職にあぶれた引揚者などが多く、なけなしの金をはたいてのものであったそうです。
古本の出どころは教員や官吏で、金が尽きると本を売って食いつなぐという人々もありました。

2.古物屋
古本屋に次いで増えた商売が、古物屋でした。
終戦後初めて古物屋が現れたのは、昭和21年2月、4軒に過ぎませんでした。
同年4月になると14軒、6月48軒、8月100軒と急増。
10月になると、古物商人は472人にも達していたそうです。

昭和21年10月、開業許可を願い出る者が多い日で30人、少ない日でも5,6人あり、「古物商全盛時代の観がありました。
しかし、これらの人々のなかには、食うに困って家財道具を売り払おうとする者や盗んだものを売りに来る人もあったそうです。

当時、鹿児島駅前から朝日通り一帯の電車通りの両側には、古着屋がならんでいました。
派手な女物の着物や擦り切れた背広、色あせた外套などが掛けられていました。
若い女性向けの着物の売れ行きがずば抜けてよく、それも派手なものほど良かったそうです。
戦時中、押さえつけられていた欲求が、終戦とともに解放されたことが原因であったようです。

■ 治安の悪さ
終戦直後の混迷の時代、多くの犯罪が生まれてしまいました。
犯罪件数は昭和20年8月に96件であったものが、10月には295件、12月653件でありました。
翌年になっても増加の一途をたどり、昭和21年6月には1493件に跳ねあがりました。
食糧や衣料品の窃盗が主なものであったようです。

戦前とくらべ検挙率は明らかに下がっていました。
当時の鹿児島新聞によると、検挙率低下を警察側では人員や通信の不備をあげ、最大の悩みは食料にあるとしています。
「食わずには、刑事も働けない」といった状況にあったようです。
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2014年05月12日

ヤミ市の時代

戦時中、物価統制による公定価格を破った価格や流通を無視した物流を、「ヤミ取引」と呼んでいましたが、終戦後もこうした取引が行われていました。
終戦直後は物資不足と遵法モラルの低下、海外からの引揚者、失業者の増大、インフレなどの要因がかさなり、「ヤミ市」と呼ばれるマーケットが登場しました。

配給がままならぬため、市民たちは食料を求めて地方へと買い出しに出かけるようになりました。
買い出しでの価格はヤミ価格、物々交換が主流を占めました。
ヤミ価格のレートは、上がる一方でした。
この買い出しには、自家用としてだけでなく商売用として地方に赴く者たちもいました。
彼らは、ブローカーとして暗躍し、暴利をむさぼっていました。

■ ヤミ市の登場
一面焼け野原となった鹿児島市。
そんななか、鹿児島駅と西鹿児島駅前(現中央郵便局周辺)、納屋通りなど街角のいたるところに「ヤミ市」が登場しはじめました。
瓦礫を押し分けて建てたバラックの飲食店や、トランクや風呂敷、新聞紙を広げた露店などがズラリと並んでいました。

早朝から生活必需品を求める市民たちで、ごった返していました。
ミカンや大根、人参、ふかしたサツマイモ、イモ飴、イモダンゴ、粗悪な化粧品や石鹸、タバコ、衣料、鍋、釜などあらゆる日用品が並べられていました。
どれもこれも市民たちにとって、のどから手が出るほど欲しいものが並んでいたのでした。

ミカンは二個1円、ふかしイモは三個で1円、イモ飴は4つで1円、石鹸一個が10円など、当時の貨幣価値からすれば驚くようなバカ相場でありました。
ヤミ市の商人やブローカーたちは、暴利をむさぼっていたのでした。

当時、鹿児島県には経済防犯課があり、「経済統制官」指揮のもと各署の経済係が、担ぎ屋・ヤミ市・密造・密輸の取り締まりに走り回っていました。
ヤミ市に警官が現れると商人たちはサッと散りましたが、警官がいなくなると直ぐに店開きをするのでした。
朝から晩まで闇商人とイタチごっこをしているような状態でした。

昭和20年10月中旬、鹿児島中央市場に戦後初めて鮮魚が入荷しました。
ブローカーが介在し、高級料亭や旅館、飲食店、ヤミ市の店先へと流れていきました。
魚に限らず、牛や馬、豚の密殺も横行し、公定価格を無視してブローカーの手に渡っていきました。
市民たちは、何でもそろうヤミ市へと足を運ぶのでした。

■ フリーマーケット
戦後いち早く、鹿児島駅前・西鹿児島駅前、海岸通り、納屋通りなどに登場したヤミ市。
バラックやトランク、風呂敷などを広げただけの露店がズラリと並んでいました。
粗悪なものが多かったのですが、不思議なことに豊富な品数を誇っていました。
人々は、ヤミ市へと吸い寄せられていきました。

魚類についていえば、中央市場には出荷されず、ヤミ市に高い値段で出回っているのでした。
主要食料の供出不振、野菜、魚類の闇ルートだけでなく、インフレの原因はヤミ市にあると考えられていました。
そこで、アメリカ軍政部や県・市・警察などが協議の結果、昭和21年1月、鹿児島市の5か所にフリーマーケットを設置することになりました。

鹿児島市の竪馬場、納屋馬場、新上橋、宮田通り(武町)、騎射場の5か所に指定の自由市場(フリーマーケット)が設けられました。
また、鹿児島駅と西鹿児島駅、海岸通りに旅客専用の指定市場も設置されました。

市場にあって、商品価格は委員会と各市場の世話人で査定、適切な価格を決めて、価格表示を徹底することにしました。
また、市場の経営のため、一人当たり1円ずつを出店料として徴収することにしました。

フリーマーケットは闇ルートの追放に、大した効果を発揮できませんでした。
闇商人たちは専門化し、悪質化していったそうです。

■ 西鹿児島駅前の様子
昭和20年7月から21年12月まで、西鹿児島駅前の復旧の様子を調査した貴重な記録がありました。
その後の都市計画のため、調査区域は駅前広場となったことから移転してしまいました。
復興の様子を知るうえで、とても貴重なものです。

昭和20年12月のものです。
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荷物預かり2軒、雑貨日用品2軒、果物店1軒、食堂11軒、金物ガラス2軒、理髪・美容2軒、洋裁店1軒、旅館2軒、事務所1軒など、以上24軒の商店が営業を始めていました。

一年後の昭和21年になると、44種212件の商店が西鹿児島駅前に並ぶようになっていました。
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商店の数は昭和21年6月頃から80軒と急に増え始め、7月以降は毎月20〜30軒ずつ増加しました。

鹿児島市政だより』昭和30年8月13日65号の2面に、「あれから10年復興のあしあと」と題した記事と写真が掲載されています。
「終戦直後の市内は見渡す限りの焼野ケ原で、市街地の中心地は芋畑麦畑となっていました。しかし市民のたゆまない努力で、今はほとんど復興しました」
と感慨を込めた文章を掲載しています。

空襲によって焼野原となった鹿児島市、先人たちは復興に向けて立ち上がっていたのでした。
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2014年05月10日

食糧をもとめて

■ 食糧難
終戦の昭和20年から21年にかけての食糧事情は、近代国家日本が初めて経験する悲惨な状況でした。
昭和20年のコメの収穫量は580万トンほど、平年の六分の一というありさまでした。
そこに枕崎台風が襲い掛かり、九州地方の農作物に壊滅的な被害をもたらしたこともあり、市民たちは深刻な食糧難に陥ってしまいました。

【 代用食 】
米の代わりに食べる主食で、めん類やイモ・カボチャなどをいうようです。太平洋戦争の戦中・戦後に用いられた語のことです。
終戦後、米やイモが手に入らない市民たちは、「フスマ」と呼ばれるをダンゴ状にまるめて焼いたものを代用食として食べていたそうです。
「フスマ」というのは、小麦のカスのことで、豚の飼料になるものであったそうです。

また、サツマイモやカボチャの茎、山の木の葉をむしって乾燥させたものなど、ありとあらゆるものを口にしたのでした。

【 配 給 】
朝日通りの旧鹿児島銀行ビルのなかに食糧公団が置かれ、市内45か所に配給所を持っていました。
しかし、基準量の配給さえ維持できず、県・市・食糧公団は軍の貯蓄物資をかき集めたり、地方の町村へ供出を頼むなど、食糧集めに懸命でした。

市民たちは配給日になると、暗いうちから長蛇の列をつくり、わずかの配給品を受けるために先を争うほどでした。
配給される米のほとんどは外国産の玄米でした。
一升瓶に玄米をいれ、瓶を股間に挟んで棒で突いて精米をするものでした。
これは当時、どこの家庭でも見られた光景であったそうです。

終戦時の食料配給量は、大人ひとり一日二合五勺(約375グラム)で、一食分は米換算にすると茶碗一杯分にすぎませんでした。
配給されるものは雑穀で代替され、麦・大豆・コーリャン・ジャガイモ・甘藷が混じり、米はわずかに20%から30%程度であったそうです。
国民一人当たりのカロリー摂取量は、戦前2,160カロリーであったものが、1,200カロリーと約半分に低下、栄養失調者が相次いぎました。

遅配や欠配の配給を当てにしては飢えるばかりでしたから、市民たちは米や麦、イモを求めて農村へ繰り出すようになりました。
市民たちは、焼け残りの衣類やナベ、カマをもって農村を訪れ物々交換をするのでした。
また、米ドコロの出水や高尾野、大口、菱刈、頴娃、金峰、高山、吾平、大崎、有明方面まで買い出しに出かける人たちもありました。
買い出しに出かける人々の交通手段は貨物列車。
リュックを背負い、風呂敷包みを両手にした人々で列車は超満員であったそうです。

昭和21年2月、政府は「食料緊急措置令」を制定しました。
農民の米供出に対して強制収用権を発動、供出しない農家には強権発動の厳しい措置をとり、食糧確保に努めました。

■ 米の供出
米の供出は戦時中にもあり、法律により食糧・物資などを政府が民間に一定価格で半強制的に売り渡させていました。
戦時中の供出は、太平洋戦争の最中、昭和17年2月に制定された「食糧管理法案」に基づいて行われたものでした。
東南アジアからの米輸入が途絶えたため、政府が食料を直接管理し、「食料動員」を狙ったものでした。

食糧管理法案は典型的な戦時立法のひとつで、他の戦時立法が廃止されたにもかかわらず、この法律だけは終戦後だけでなく、平成7年まで生き延びました。
食糧管理法は、厳しい食糧難時代に食糧の確保と公平な配分のために終戦後は機能しました。

町にはヤミ米が横行し、ヤミ米で稼いだ農家が家を新築するという時代でもありました。
供出価格は、ヤミ米の半額以下であったことから、農家がいい顔をするはずはありませんでした。
昭和21・22年、鹿児島県の供出率はわずかに30%前後で、全国でも下位の方であったそうです。

供出を担当した鹿児島県食糧課でありました。
昭和22年2月、「供出をさぼり、ヤミで流している」という情報をもとに、県収用官数人が強権を発動して薩摩郡高城の農村に踏み込んだことがありました。
激高した農民が、ナタを振り上げながら収用官に襲い掛かってきたそうです。
農民と収用官とのトラブルは日常茶飯事でありました。
アメリカ軍政部は食糧課に供出を厳しく督促、供出意識を高めるため様々なアイディアが実施されました。

【 六百人会 】
軍政部のバリー少佐は、六百人会を組織して大きな効果をあげました。
供出率の優秀な農家600人を選び、衣類やタバコ・地下足袋・焼酎などを報償として与えるというものでした。
奄美大島からの密貿易で押収された砂糖なども、報償物資に利用されることもあったそうです。

こうした供出意欲を刺激する工夫と、肥料の改善・復員者や引き揚げによる労働力の増加などによって、供出率は昭和24年から急速に伸びることになりました。
昭和25年以降は、外米輸入などもあって急速に好転し、食糧危機解消の兆しが見えてきたのでした。

残念ながら、供出率上昇の犠牲になった農家もありました。
昭和22・23年頃まで農地解放は進展しておらず、農村部には隠然たる勢力をもった者たちがいました。
彼らは労働力の少ない農家にも無理な供出量を押し付け、地位を利用して悪辣な手をめぐらしたのでした。
このため、米作農家でありながら、家で食べる米もなく多くの子を抱えて泣き寝入りする未亡人もあったそうです。

悲喜こもごもの米供出は、昭和30年に予約買い上げ制度に変りました。
食糧管理法は、農家保護政策として平成7年に廃止され、「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律(食糧法)」に引き継がれていきました。
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