2014年05月01日

枕崎台風

終戦からひと月ほど経った9月17日、過去の台風のなかで史上2番目の最大規模の台風が鹿児島地方を襲いました。
「枕崎台風」と呼ばれ、室戸台風、伊勢湾台風と並んで昭和の三大台風のひとつに数えられるほどのものでした。

戦時中、気象情報や大災害の記録はすべて軍事機密でありました。
終戦にともなって、気象管制が解除されたのは8月21日のこと。
当時の地元新聞、鹿児島日報で天気予報が完全に復活したのは11月1日付のことでした。
終戦直後ということもあり、気象情報が少なく防災体制も不十分であったため、各地で大きな被害が発生したのでした。

■ 枕崎台風の進路と規模
昭和20年9月12日、サイパンとグアムの間で1002ヘクトパスカルを示していた低気圧は、その後発達して西に進み始めました。
16日には台風の中心から300キロ以内で、風速20メートル以上の台風となっていました。

9月17日、台風は午後2時頃枕崎付近に上陸し、鹿児島市付近を通って霧島付近から宮崎を駆け抜けていきました。
枕崎測候所の風速計は午後2時16分に、62.7メートルに跳ね上がって止まっていたそうです。
そのとき、測候所の屋根が吹き飛び、風速計の銅線が切れていたのでした。

午後2時40分、自動記録計の針は記録用紙をはみ出し、916.6ヘクトパスカルまで下がり、室戸台風に次ぐ最低気圧を記録。
枕崎台風と名付けられた台風は、時速50キロという猛スピードで北上しました。
枕崎測候所の記録によると、台風の眼は直径33キロもありました。
台風一過の後、枕崎と鹿児島を結ぶ線を中心に帯状の被災地が北へ続き、「風の道(台風眼の通路)」がハッキリ残っていたそうです。

■ 枕崎の様子
枕崎市は戦災で市街地の20%を超す2500戸が灰になり、中心部には役場と測候所、数えるほどの民家が建っているだけであったそうです。
終戦と同時に、枕崎市は復興部を設けると県の援助で新しい街づくりの区画整理に入っていました。
そうして、疎開していた市民たちは、自分の土地に帰って来るとバラック住宅を建て始めていました。

昭和20年9月16日、枕崎港外では大波が起こり、空には真黒な雲が低く流れ雨が強く降っていました。
翌日、枕崎測候所の観測データは刻々と歴史的な台風の接近を示していました。
午前10時風速25メートル、午前11時33メートル。
観測データを出しても、報告するための通信施設は何もなかったそうです。

午後1時から観測時間は30分置きとなり、さらに15分置きに短縮されました。
風速計の針は絶えず50メートル前後を示し、午後2時16分、62.7メートルに跳ね上がって止まっていました。

午後2時38分頃、暴風がウソのように止まりました。
台風の眼に入ったのでした。その時の最低気圧は917ヘクトパスカルを示していたそうです。


■ 枕崎台風の被害
枕崎付近に上陸した台風は、錦江湾沿岸に沿って北上したため、被害は薩摩・大隅両半島に広がっていました。
また、この台風はいわゆる「風台風」であったことから、家屋と海岸地帯に被害が集中していました。
南向きの海岸地区には、津波のような高潮や三角波が襲い掛かりました。
潮煙も発生し、海岸から7キロ奥地にまで広がり、大隅半島では海抜120メートルの山腹にある農作物が塩害を受けました。

坊津町茅野集落や指宿市十町、喜入町前之浜、生見、瀬々串、谷山、五位野、平川一帯は徹底的な被害を受けてしまいました。
根こそぎ倒れた大木は、どれも北あるいは東を向いていたそうです。


隼人駅では、台風の眼が通過して風向きが西に変わった午後4時20分、ブレーキをかけて止めていた貨車数両が風圧で動き出し、車止めに衝突して脱線・転覆したそうです。
隼人町武安の海軍病院や中福良国民学校が倒壊、福山町では家屋の半分が倒れてしまいました。

〇 鹿児島市
鹿児島市と竜ヶ水の間の磯街道では、直径30センチもの大木が無数に倒れ、日豊線は6日間不通となってしまいました。
鹿児島市は戦火で焼野原となっており、910世帯3500余人は横穴住まいをしていました。
また、山寄りの家屋は南風を受けなかったことから、目立った被害はなかったそうです。

〇 鹿屋
鹿屋には、9月3日に米軍が進駐し、立入禁止区が多かったため正確な記録は残っていないようです。
鹿屋署管内の全壊住家は1308戸、半壊2090戸に達していました。
米軍基地内の木造建物も倒壊し、相当数の飛行機が吹き飛ばされスクラップになったそうです

〇 垂水
垂水署管内では住家2000戸が全半壊、335戸が高潮にさらわれ、9人が亡くなりました。
山手から高潮を目撃した人の証言によると、海面が3メートルも膨らみ、集落の半分を飲み込んだということです。

■ 9月25日付鹿児島日報
鹿児島日報によると、枕崎台風による鹿児島県下の被害は、死者114人、行方不明26人、負傷294人、住家全壊10,680棟、半壊13,492棟にのぼりました。
浸水家屋では、床上917棟、床下2,593棟、流出した船舶495隻、破損1,353隻でした。

工場41、学校67、官公署33が全半壊していました。
農作物にあっては、粟・ソバ・蔬菜など殆どが全滅に近く、水稲は29%の損害であったそうです。

posted by ぶらかご.com at 23:32| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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