2014年05月07日

終戦直後の道路・施設などの清掃

■ 焼野原の清掃事業
終戦直後の鹿児島市街地は、建物の焼壊によって石塊や瓦礫の山となっていました。
道路の路面は見えない状態で、通行できるところは限られていました。
進駐軍のジープは、瓦礫だらけの道を器用にかわしながら鹿児島の街を疾走していたそうです。

昭和20年4月から始まった鹿児島の空襲では、被災のたびに緊急措置として道路清掃を行っていました。
しかし、度重なる空襲と警報発令によって清掃作業は進みませんでした。
戦争がおわって、ようやく本格的な清掃に手を付けることができたのでした。

終戦から6日後くらいから、消防団や児童生徒・刑務所服役者を動員した、手始めに道路を通行できる程度の清掃と除去作業が始まりました。
昭和20年10月末からは、事業による労務者と服役者約100人の応援を得て、道路と公共地帯の瓦礫除去や政争をおこないました。

瓦礫除去と清掃は、鹿児島市中心部の金生町や呉服町、大黒町、山之口町から始まりました。
集められた瓦礫の一部は宅地の整地に利用され、その他は洲崎海岸や桜島桟橋付近の埋め立てに利用されました。

下水溝には、倒れた建物の瓦礫などが落ち込んでいて、雨が降ると雨水が辺りに流れ出すといった有様でした。
下水溝の瓦礫処理も直営・請負による作業で清掃したほか、町内会において市民の動員を求めて作業に当たったそうです。

【 私有地の瓦礫除去など 】
私有地をみると、瓦礫の除去や清掃作業は一向に、はかどっていませんでした。
そこで鹿児島市は、焼け跡整理協議会を組織して、「戦災都市の復興は焼け跡の美化から」と呼びかけました。

昭和20年12月末、焼け跡整理協議会で「今後は町内会長を通じ、期限付きで整理を促し、もし実行しない場合は町内会で処理すること」を決定しました。
さらに廃墟は所有者で処置することを勧め、処置しない場合は他の人に分譲するほか、所有権の関係についても促進するという、強い実行力を発揮しました。

昭和21年2月13日、焼け跡地の焼石材や焼けた樹木、焼けた金属などの罹災物は、「戦時罹災土地物件令」第18条の指定を受けることになりました。
そうして、焼けた石材や樹木、金属などは国庫に入ることになりました。

石垣や石塀が多かった鹿児島市街地では、これらの石を整理して側溝用に使われました。
清掃事業は、昭和22年度まで続けられました。

■ 金属回収
昭和21年度には、土地区画整理事業の一環として罹災地に散乱した金属類を回収を始めました。
鹿児島市では、事業費を計上して261.96トンの鉄鋼類や鉛管類を回収しました。
回収した金属類は、樋之口町にあった井上藤蔵商店へ売却されました。
これによって得た収入は、戦災復興の一部に充てられたそうです。

その後も、金属回収は市民たちにとって小口現金を稼ぐための手段になっていました。
4年後の昭和25年6月、朝鮮戦争が勃発すると在日米軍は大量の軍需物資を日本に発注しました。
とくに、鉄の製造に鉄くずは欠かすことができず、銅や鉛なども含めた「金へん景気」が発生しました。

良い鉄でキロ6,7円で買い取られ、20キロもとれば運転手の日当分はあったそうです。
当時、鉄くずはいい稼ぎになったようです。

【 金へん景気にまつわる事件簿 】
昭和26年2月、旧大根占町では機関砲弾が盗まれる
同年3月、鹿児島市で中学生8人からなる金へん泥棒を検挙。
同年4月には、旧知覧町で消防ホースの継ぎ金具まで盗られました。
金へん景気の被害は、国鉄の信号用電線や警察電話線にも及びました。

このとき、世間を騒がさせた事件がありました。
鹿児島市城山に建つ、西郷隆盛の銅像が被害を受けたことでした。
西郷さんの銅像には、長さ7.2メートルの青銅製の軍刀が差してありましたが、それが半分切られていたのでした。
切られた部分は、地金商に売られていました。

少年3人が窃盗で捕まり、鹿児島市警留置場送りとなりました。
留置場では先輩泥棒から、「バチ当りが!」と言われたうえ、殴られたそうです。

その後、金へん景気は朝鮮戦争が終息すると、潮が引いたように終わってしまいました。





posted by ぶらかご.com at 22:53| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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