2014年05月10日

食糧をもとめて

■ 食糧難
終戦の昭和20年から21年にかけての食糧事情は、近代国家日本が初めて経験する悲惨な状況でした。
昭和20年のコメの収穫量は580万トンほど、平年の六分の一というありさまでした。
そこに枕崎台風が襲い掛かり、九州地方の農作物に壊滅的な被害をもたらしたこともあり、市民たちは深刻な食糧難に陥ってしまいました。

【 代用食 】
米の代わりに食べる主食で、めん類やイモ・カボチャなどをいうようです。太平洋戦争の戦中・戦後に用いられた語のことです。
終戦後、米やイモが手に入らない市民たちは、「フスマ」と呼ばれるをダンゴ状にまるめて焼いたものを代用食として食べていたそうです。
「フスマ」というのは、小麦のカスのことで、豚の飼料になるものであったそうです。

また、サツマイモやカボチャの茎、山の木の葉をむしって乾燥させたものなど、ありとあらゆるものを口にしたのでした。

【 配 給 】
朝日通りの旧鹿児島銀行ビルのなかに食糧公団が置かれ、市内45か所に配給所を持っていました。
しかし、基準量の配給さえ維持できず、県・市・食糧公団は軍の貯蓄物資をかき集めたり、地方の町村へ供出を頼むなど、食糧集めに懸命でした。

市民たちは配給日になると、暗いうちから長蛇の列をつくり、わずかの配給品を受けるために先を争うほどでした。
配給される米のほとんどは外国産の玄米でした。
一升瓶に玄米をいれ、瓶を股間に挟んで棒で突いて精米をするものでした。
これは当時、どこの家庭でも見られた光景であったそうです。

終戦時の食料配給量は、大人ひとり一日二合五勺(約375グラム)で、一食分は米換算にすると茶碗一杯分にすぎませんでした。
配給されるものは雑穀で代替され、麦・大豆・コーリャン・ジャガイモ・甘藷が混じり、米はわずかに20%から30%程度であったそうです。
国民一人当たりのカロリー摂取量は、戦前2,160カロリーであったものが、1,200カロリーと約半分に低下、栄養失調者が相次いぎました。

遅配や欠配の配給を当てにしては飢えるばかりでしたから、市民たちは米や麦、イモを求めて農村へ繰り出すようになりました。
市民たちは、焼け残りの衣類やナベ、カマをもって農村を訪れ物々交換をするのでした。
また、米ドコロの出水や高尾野、大口、菱刈、頴娃、金峰、高山、吾平、大崎、有明方面まで買い出しに出かける人たちもありました。
買い出しに出かける人々の交通手段は貨物列車。
リュックを背負い、風呂敷包みを両手にした人々で列車は超満員であったそうです。

昭和21年2月、政府は「食料緊急措置令」を制定しました。
農民の米供出に対して強制収用権を発動、供出しない農家には強権発動の厳しい措置をとり、食糧確保に努めました。

■ 米の供出
米の供出は戦時中にもあり、法律により食糧・物資などを政府が民間に一定価格で半強制的に売り渡させていました。
戦時中の供出は、太平洋戦争の最中、昭和17年2月に制定された「食糧管理法案」に基づいて行われたものでした。
東南アジアからの米輸入が途絶えたため、政府が食料を直接管理し、「食料動員」を狙ったものでした。

食糧管理法案は典型的な戦時立法のひとつで、他の戦時立法が廃止されたにもかかわらず、この法律だけは終戦後だけでなく、平成7年まで生き延びました。
食糧管理法は、厳しい食糧難時代に食糧の確保と公平な配分のために終戦後は機能しました。

町にはヤミ米が横行し、ヤミ米で稼いだ農家が家を新築するという時代でもありました。
供出価格は、ヤミ米の半額以下であったことから、農家がいい顔をするはずはありませんでした。
昭和21・22年、鹿児島県の供出率はわずかに30%前後で、全国でも下位の方であったそうです。

供出を担当した鹿児島県食糧課でありました。
昭和22年2月、「供出をさぼり、ヤミで流している」という情報をもとに、県収用官数人が強権を発動して薩摩郡高城の農村に踏み込んだことがありました。
激高した農民が、ナタを振り上げながら収用官に襲い掛かってきたそうです。
農民と収用官とのトラブルは日常茶飯事でありました。
アメリカ軍政部は食糧課に供出を厳しく督促、供出意識を高めるため様々なアイディアが実施されました。

【 六百人会 】
軍政部のバリー少佐は、六百人会を組織して大きな効果をあげました。
供出率の優秀な農家600人を選び、衣類やタバコ・地下足袋・焼酎などを報償として与えるというものでした。
奄美大島からの密貿易で押収された砂糖なども、報償物資に利用されることもあったそうです。

こうした供出意欲を刺激する工夫と、肥料の改善・復員者や引き揚げによる労働力の増加などによって、供出率は昭和24年から急速に伸びることになりました。
昭和25年以降は、外米輸入などもあって急速に好転し、食糧危機解消の兆しが見えてきたのでした。

残念ながら、供出率上昇の犠牲になった農家もありました。
昭和22・23年頃まで農地解放は進展しておらず、農村部には隠然たる勢力をもった者たちがいました。
彼らは労働力の少ない農家にも無理な供出量を押し付け、地位を利用して悪辣な手をめぐらしたのでした。
このため、米作農家でありながら、家で食べる米もなく多くの子を抱えて泣き寝入りする未亡人もあったそうです。

悲喜こもごもの米供出は、昭和30年に予約買い上げ制度に変りました。
食糧管理法は、農家保護政策として平成7年に廃止され、「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律(食糧法)」に引き継がれていきました。
posted by ぶらかご.com at 22:57| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする