2014年05月12日

ヤミ市の時代

戦時中、物価統制による公定価格を破った価格や流通を無視した物流を、「ヤミ取引」と呼んでいましたが、終戦後もこうした取引が行われていました。
終戦直後は物資不足と遵法モラルの低下、海外からの引揚者、失業者の増大、インフレなどの要因がかさなり、「ヤミ市」と呼ばれるマーケットが登場しました。

配給がままならぬため、市民たちは食料を求めて地方へと買い出しに出かけるようになりました。
買い出しでの価格はヤミ価格、物々交換が主流を占めました。
ヤミ価格のレートは、上がる一方でした。
この買い出しには、自家用としてだけでなく商売用として地方に赴く者たちもいました。
彼らは、ブローカーとして暗躍し、暴利をむさぼっていました。

■ ヤミ市の登場
一面焼け野原となった鹿児島市。
そんななか、鹿児島駅と西鹿児島駅前(現中央郵便局周辺)、納屋通りなど街角のいたるところに「ヤミ市」が登場しはじめました。
瓦礫を押し分けて建てたバラックの飲食店や、トランクや風呂敷、新聞紙を広げた露店などがズラリと並んでいました。

早朝から生活必需品を求める市民たちで、ごった返していました。
ミカンや大根、人参、ふかしたサツマイモ、イモ飴、イモダンゴ、粗悪な化粧品や石鹸、タバコ、衣料、鍋、釜などあらゆる日用品が並べられていました。
どれもこれも市民たちにとって、のどから手が出るほど欲しいものが並んでいたのでした。

ミカンは二個1円、ふかしイモは三個で1円、イモ飴は4つで1円、石鹸一個が10円など、当時の貨幣価値からすれば驚くようなバカ相場でありました。
ヤミ市の商人やブローカーたちは、暴利をむさぼっていたのでした。

当時、鹿児島県には経済防犯課があり、「経済統制官」指揮のもと各署の経済係が、担ぎ屋・ヤミ市・密造・密輸の取り締まりに走り回っていました。
ヤミ市に警官が現れると商人たちはサッと散りましたが、警官がいなくなると直ぐに店開きをするのでした。
朝から晩まで闇商人とイタチごっこをしているような状態でした。

昭和20年10月中旬、鹿児島中央市場に戦後初めて鮮魚が入荷しました。
ブローカーが介在し、高級料亭や旅館、飲食店、ヤミ市の店先へと流れていきました。
魚に限らず、牛や馬、豚の密殺も横行し、公定価格を無視してブローカーの手に渡っていきました。
市民たちは、何でもそろうヤミ市へと足を運ぶのでした。

■ フリーマーケット
戦後いち早く、鹿児島駅前・西鹿児島駅前、海岸通り、納屋通りなどに登場したヤミ市。
バラックやトランク、風呂敷などを広げただけの露店がズラリと並んでいました。
粗悪なものが多かったのですが、不思議なことに豊富な品数を誇っていました。
人々は、ヤミ市へと吸い寄せられていきました。

魚類についていえば、中央市場には出荷されず、ヤミ市に高い値段で出回っているのでした。
主要食料の供出不振、野菜、魚類の闇ルートだけでなく、インフレの原因はヤミ市にあると考えられていました。
そこで、アメリカ軍政部や県・市・警察などが協議の結果、昭和21年1月、鹿児島市の5か所にフリーマーケットを設置することになりました。

鹿児島市の竪馬場、納屋馬場、新上橋、宮田通り(武町)、騎射場の5か所に指定の自由市場(フリーマーケット)が設けられました。
また、鹿児島駅と西鹿児島駅、海岸通りに旅客専用の指定市場も設置されました。

市場にあって、商品価格は委員会と各市場の世話人で査定、適切な価格を決めて、価格表示を徹底することにしました。
また、市場の経営のため、一人当たり1円ずつを出店料として徴収することにしました。

フリーマーケットは闇ルートの追放に、大した効果を発揮できませんでした。
闇商人たちは専門化し、悪質化していったそうです。

■ 西鹿児島駅前の様子
昭和20年7月から21年12月まで、西鹿児島駅前の復旧の様子を調査した貴重な記録がありました。
その後の都市計画のため、調査区域は駅前広場となったことから移転してしまいました。
復興の様子を知るうえで、とても貴重なものです。

昭和20年12月のものです。
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荷物預かり2軒、雑貨日用品2軒、果物店1軒、食堂11軒、金物ガラス2軒、理髪・美容2軒、洋裁店1軒、旅館2軒、事務所1軒など、以上24軒の商店が営業を始めていました。

一年後の昭和21年になると、44種212件の商店が西鹿児島駅前に並ぶようになっていました。
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商店の数は昭和21年6月頃から80軒と急に増え始め、7月以降は毎月20〜30軒ずつ増加しました。

鹿児島市政だより』昭和30年8月13日65号の2面に、「あれから10年復興のあしあと」と題した記事と写真が掲載されています。
「終戦直後の市内は見渡す限りの焼野ケ原で、市街地の中心地は芋畑麦畑となっていました。しかし市民のたゆまない努力で、今はほとんど復興しました」
と感慨を込めた文章を掲載しています。

空襲によって焼野原となった鹿児島市、先人たちは復興に向けて立ち上がっていたのでした。
posted by ぶらかご.com at 22:34| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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