2014年05月18日

ヤミ市では、タバコが万能

ヤミ市の交換レート
終戦直後、鹿児島駅前から小川町の通りにかけて出現したヤミ市は、県下一といわれたそうです。
復員服やモンペ姿の人々が、その日の食糧など生活必需品を求めて集まり、夜遅くまでにぎわっていました。

小麦や醤油、粉乳、小豆などは貴重品で、とてつもない高値がついていました。
これらの商品は、タバコと交換することが出来たそうです。
変動があったと思われますが、交換レートの一例を示してみます。
「みのり」は、タバコの銘柄で配給品でもありました。

【 交換レート 】
小麦500グラム − みのり6個
醤油一升 − みのり7個
粉乳1缶 − みのり12個
玉子10個 − みのり6個
小豆一升 − みのり7個

【 愛煙家の憂鬱 】
タバコは戦争中から不足し始めていました。
昭和21・22年頃になると、配給は一日に一世帯あたり巻タバコの「みのり」が10本程度でした。

そうした中、専売局(現JT)は、きざみタバコ「のぞみ」とライスペーパー(巻紙)の配給を始めました。
ペーパーの端に糊をつけ、その下に敷いた紙に鉛筆や筆を当てて、巻きずしを作るような感じでキザミを巻き込んでいました。
当時の愛煙家であれば、誰もが経験したことであったそうです。

タバコの吸い方も色々と工夫され、一本を一気に吸うことはもったいなくてできませんでした。
タバコを半分にして、少しずつ吸ったそうです。
指が黄色くなるまで吸っても、1センチほど残るものでした。
残った部分を針で刺して最後まで吸っていました。
そこで、タバコを最後まで吸うことのできる小さな黄色の真鍮キセルが大流行したそうです。

ニコチン不足に悩んだ愛煙家たちは、代用タバコをあみ出しました。
当時のタバコで、もっとも良く似ていたのがヨモギでありました。
鹿児島大学前からナポリ通までの道端に生えていたヨモギは、通勤途中に摘み取られ、あっという間に無くなっていたこともあったそうです。

ヨモギの他にも、松葉、トウモロコシの毛なども使われたそうです。
しまいには、代用タバコを巻くライス・ペーパーも不足してしまいました。
学生の中には、英和辞典の紙を使う者もいたそうです。

【 ヤミに流されるタバコの葉 】
鹿児島県は全国でも有数のタバコの産地。
指宿・国分・川内、鹿屋など各地で、葉タバコを生産する農家が続出してきました。
生産農家が生産した葉タバコが、ヤミに流されていくものもありました。
ヤミたばこのほとんどは、小川町や易居町のヤミ市で売られていました。

専売局鹿児島地方出張所では、これまで15人であった監視員を150人に増員。
ヤミたばこの取り締まりを強化しました。
毎晩、ヤミ布をかぶせたトラック2台に監視員30人が交代で乗り込み、ヤミ市に出かけました。
夜、取引を確認するとライトを照らし、ひと晩平均30人を検挙していました。
売人のほとんどが、売春婦だったそうです。

1ヶ月の生活費が3000円といわれていた頃、葉タバコ21貫で1万4,5千円のヤミたばこを生産することができたそうです。
ヤミたばこは、昭和26年頃までつづきました。


小川町周辺の様子
終戦から5年経った頃になると、鹿児島市のいたるところで復興が進み始めていました。
市街地の片隅には、戦後の混乱を象徴するような「ドヤ街」が生まれていました。

「ドヤ街」は、日雇い労働者が多く住む街のこと、「ドヤ」は「宿(やど)」の逆さ言葉からきているそうです。
当時、鹿児島駅前から小川町・易居町一帯は、終戦直後からヤミ市と特飲街がならんでいました。
住民のほとんどは、日本国籍を持たない朝鮮人など「第三国人」であったそうです。
男たちはブローカー、街頭トバク、恐喝、売春婦のヒモなどで生活をしていました。
船でヤミ物資を運んで得た金を、「モミトバク」で巻き上げられる人もありました。

とにもかくにも、当時の小川町は怖いところであったそうです。
posted by ぶらかご.com at 08:44| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする