2014年05月20日

終戦直後、漁村の様子

かごしま20世紀 山河こえて 上巻』上巻に、終戦直後の様子を次のように記しています。
終戦後、全国的な不作と台風による災害、桜島の降灰によって食糧難が深刻化。
そこに、約25万人もの復員兵や引揚者が加わり、人口は膨れ上がっていました。
ひとり当たり2合1勺(300グラムほど)の配給食糧の確保は容易ではなく、ひと月に十日分がやっという有様でした。
国民の平均摂取栄養は1200キロカロリーで、戦前に比べ約半分近くまで低下していました。
栄養失調の人々が、続出していました。

1946年、鹿児島県が「ドングリパンで食糧危機を突破」や「カボチャとダイコンで食を切り抜けよう」というスローガンをつくりましたが、現実はもっと悲惨なものであったようです。
当時の南日本新聞に、サバイバル食さながらの食べられる物の特集や紹介が掲載されています。すこし取り上げてみました。
カタツムリの照焼き、カエルの天ぷら、摘み草の手引き、フスマ(小麦カス)の美味しい調理法など。

このような食糧状況のなか、串木野ではイワシによって活気が戻りつつありました。

■ 串木野とイワシ
串木野は昭和20年7月29日、8月9日、8月12日の空襲によって、町の8割が焼失してしまいました。
終戦時の串木野・島平・羽島の港は、魚の匂いさえしないほどであったそうです。

戦前、串木野には20トン以上のマグロ漁船が180隻ほどいましたが、戦時色が強くなると、軍の輸送船や警備艇として乗組員ともども徴用されてしまいました。
お国のために、船と運命をともにして行方不明となった人たちも多かったそうです。

焼け跡にもっとも早くバラックが建ち始めたのは、鹿児島県下にあっては串木野であったそうです。
そこには、イワシと深い関係がありました。

昭和20年12月、復員者たちは船をかき集めイワシ刺し網漁再開にこぎつけました。
4,5トンの帆船が多かったようですが、戦時中野放しであったイワシは群れをなして沿岸に押し寄せ、遠出しなくても面白いようにとれたそうです。
大漁続きで、イワシが揚場から道路まであふれ出るほどでした。
活気に満ちた漁港では、イワシが札束に変り、米や着物、果ては家屋へと変わっていったそうです。

港の揚場には、県内はもとより北九州、広島方面からイワシの買い出しに訪れていました。
木炭トラック数十台が、毎日、列をつくるほどでした。
ヤミ商人も出没、串木野の人でイワシの担ぎ屋をしなかった人は、なかったそうです。

ある人は、石油缶にイワシを30キロほど入れ、リュックで博多まで販売に行ったそうです。
一尾1円程度で仕入れたイワシを、10円の値をつけても飛ぶように売れたそうです。
汽車賃を差し引いても、一度運べば懐に千円入りました。
教員の月給が500円前後、わずか一日で2か月分を稼ぐことができたのでした。

当時の串木野には、「オガノコ」と呼ばれるカツギ屋も多かったそうです。
オガノコは、押しても引いても切れる鋸のこと。
イワシを担いで山手で売り、帰りは米を担いで町で売るという両方で儲けようとする商法でした。
戦後の混乱期、人々は生きるために必死でありました。

■ 塩たきの流行
農漁村でも穀倉地帯を除けば、飢えは深刻なものでした。
海に面した町村では、生きるために自家製塩を始める者たちが現れました。
自家製塩は瞬く間に広がりを見せ、串木野・枕崎・桜島・垂水の海岸線では1947年まで塩焚きがみられました。

終戦当時、国内の塩の備蓄は必要量の四分の一もありませんでした。
政府は自家製塩を奨励するいっぽうで、割当量を納入させる方法をとりました。
当時、「塩一升に米一升」といわれ、塩は生活に欠かせぬものであり、米と等価交換されるほどでした。
佐賀や熊本など米の主産地にあっては、醤油や味噌をつくるための塩が極度に不足していたため、米よりも価値があったそうです。

つくった塩は佐賀や熊本で米と交換して帰ってくるのでした。
米に対する取り締まりは厳しく、佐賀や熊本から帰ってくるところを狙い撃ち。
最大の難関は伊集院で、持ち帰った米をすべて没収されることもしばしばあったそうです。

昭和24年、専売公社による製塩が本格化するまで、警察の目を潜り抜けての物々交換が繰り返されたのでした。


■ 参考文献
『かごしま20世紀 山河をこえて』上巻・下巻

この本は、戦前・戦中・戦後の鹿児島県の様子を知るうえで、とても参考になります。
やさしい文章は分かりやすく、当時の貴重な写真も掲載されています。
谷山にあった田辺航空工業での作業の様子や、戦時中の防火訓練の様子を撮った写真が掲載されています

鹿児島市立図書館や鹿児島県立図書館にも蔵書されていますので、ご覧になってみてください。






posted by ぶらかご.com at 18:29| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする