2014年06月30日

終戦直後、鹿児島市の復興計画

軍都鹿児島
南方戦線・本土決戦の最前線基地となっていた鹿児島市は、昭和20年3月から始まった空襲によって壊滅的な被害を受けました。
死者3329人、負傷者4633人、行方不明35人、その他被災者107,388人、計115,385人。
当時の人口は197,600人でしたから、戦災比率は66%に及びました。

被災面積1,079万u(327万坪)で、鹿児島市の約93%が焼き払われてしまいました。
東京・大阪・名古屋・横浜・神戸の五大都市は鹿児島市以上の戦災面積でしたが、それ以外では川崎市に次ぐものでした。
被災面積の上では、原子爆弾の犠牲となった広島市・長崎市をはるかに上回りました。
『勝目清回顧録』によると、「広島、長崎両市は原子爆弾に見舞われたので、災禍は甚だしいが、被災面積では鹿児島が大きいのである。後年長崎市に行って瓦屋根がたくさん残っているのを見て、うらやましかったことを記憶している」とあります。
鹿児島市の戦災が、いかに激しかったかが分かるかと思います。

政府は全国戦災都市のうち、被害の大きかった150都市を「戦災都市」に指定。
鹿児島市はA級にランクされたのでした。
鹿児島県下では鹿児島市、川内、鹿屋、枕崎、串木野、阿久根、加治木、山川、垂水、西之表が指定を受け、特別都市計画事業の実施を迫られることになりました。

戦災復興
鹿児島市では終戦と同時に応急の復旧対策に取り掛かり、終戦から6日後には整理作業を始めました。
鹿児島市当局では、この戦災で土地区画整理事業を進め近代都市の基礎を築くチャンスであるという考え方があったようです。
他の戦災都市にくらべ、早い時点で戦災復興計画を作り始めていました。

昭和20年10月には鹿児島日報社と共催して、鹿児島市復興計画案を一般市民から公募を実施しました。
と同時に鹿児島県と協議して復興計画暫定方針を出し、幹線道路計画の立案や無秩序に立ち始めた商店に対して制限措置を講じました。

政府が戦災復興院を設立したのは昭和20年11月のこと。
鹿児島市のトップたちは政府の基本方針をくみとり、準備を着々と進めていました。
そうして昭和21年1月には原形測量に着手。
3月初めには都市計画内申書が復興院で受理され、5月には正式告示、7月に施行命令が出て具体的な区画整理に入るといった早さでした。
市上層部は、「復興計画は拙速主義でよい」との考え方でありました。
この機会を逃せば、都市計画・区画整理事業をやり遂げることが出来なくなるという危惧があったようです。

計画と作業
計画では鹿児島市の中心を新屋敷に、西鹿児島駅を玄関口、そして鹿児島港から市の発展を促そうとしました。
鹿児島市の首脳部と担当者たちは、大正年間に作成された市街地図に幹線道路などを書き込んでいったそうです。
焼け野原となった鹿児島市は、白地図とかわらないほどであり思い切った計画を立てることができたのでした。

しかし、現実には多くの困難が待ち受けていました。
焼け跡を整理するにも人手がなく、ガレキを運搬するにもトラックや大八車も数えるほどしかありませんでした。
労務者を集めても、彼らを収容するバラックを建設するための資材や食糧もない。
そのうえ、世間には悪性インフレが吹き荒れる始末でした。
市民の多くが生きるために闇市を駆けずり回り、秩序崩壊という最悪の条件下にありました。

市の担当者は、資金を得るため当時冷水峠にあった連隊区司令部から10万円の軍資金放出に成功。
次に労力として、鹿児島刑務所の受刑者たちを動員。
終戦から6日目のことでありました。
第一陣40人は電車通りの整理から始め、ガレキ整理や上下水道の復旧工事、電柱の立て直しの作業に当たりました。
その後、受刑者たちは増員され、最高一日200人にまでなったこともあったそうです。
日当は一般労務者並という破格の待遇であったそうです。

それでも広大な焼け跡整理は捗りませんでした。
ガレキの下には死体がゴロゴロ横たわり異臭を放ち、上下水道の破裂で泥んこになっている所ばかりでありました。
また、城下町であったことから大きな石塀の家が多く、解体・運搬に手間取ったことも要因のひとつでありました。

当時の運搬機械といえば鹿児島市の乗用車と小型トラックの2台だけという有様でした。
しかもオンボロ木炭車でしたから、役に立つ代物ではありませんでした。

跳ね上がる労賃
インフレの進行は、戦災復興を目指す鹿児島市にとって最大の悩みでした。
疎開先や横穴壕から帰って来た市民たちは、整地作業をしり目にバラックを次々に建てていきました。
そのため、にわか仕立ての大工や左官が大量に生まれ、どこでも引っ張りダコといった状況でした。
焼け跡の整地作業に従事する人がおらず、労力不足は深刻な状況となり、労賃は跳ね上がる一方で復興資金が底を尽きそうになるほどでした。

そこで昭和21年1月、県警察部は軍政部の要請で「ヤミ賃金取り締まり」を実施しました。
大工15円、人夫8円、土工10円などの基準価格を決めました。
しかし、ヤミ労賃をなくすまでの効果はありませんでした。
実際の戦災復興事業は、始めから困難の連続でありました。
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2014年06月28日

九州ステートフェア東会場(第一会場)の様子

昭和25年、県農事試験場50周年を記念した農業振興博覧会は、7700万円の巨費を投じて開催された大博覧会でした。
この博覧会では第一会場(西会場)と第二会場(東会場)、ふたつの会場がつくられました。
第二会場は現鹿大教育学部周辺に、そして第一会場には鴨池動物園が充てられたのでした。

3月25日ステートフェア開会式の模様が、『なつかしの鴨池動物園』に記載されています。
「この日午前7時はやくも開会をつげる花火が鹿児島市にこだまし、ステートフェア気分みなぎる午前9時、花で飾られたトレーラートラックにミス鹿児島、準ミス、各都市ミスが乗り込み、ニュースカーを先頭に、鹿児島駅から電車通りに沿って、開会式場の東会場野外劇場まで市中パレードが行われた。沿道は黒山の市民で埋まった」

■ 東会場の様子
ステートフェア東会場(鴨池動物園)のキャッチフレーズは「現代のエデンの花園」であったそうです。
東会場となった遊園地には、仕掛けと工夫を凝らした遊具が子供たちを待ち受けていました。

野外演芸会や飛行塔、ウオーターシュートなど珍しい遊戯設備が並んでいました。
また、「ミス九州ステートフェア」の審査会や懸賞募集して作られた新しい民謡の発表会も行われました。
民謡発表会では、当時の人気歌手を迎えて行われ、様々な施設と共にシナジー効果を生み出し、博覧会のムードはいやが上でも盛り上がって行ったそうです。

1.コドモ汽車
日本一長いといわれるレールの上を、コドモ汽車が本物そっくりの警笛を鳴らしながら、ボート池の周りを一周するものでした。
汽車は三両連結で、一回10円でした。

2.飛行塔
ボート池の横に備えられていました。
6人乗りの飛行機4台が鉄塔に吊るされ、地上を滑走すると、ゆっくり回りながら高く舞い上がる乗り物でした。
飛行塔は、1回10円であったそうです。

3.リバースゴーランド
モーターがうなると、豆電車と豆ボートが逆回転するという乗り物であったそうです。
料金は、一回10円。

4.ビックリ写真
アメリカトルーマン大統領や蒋介石、吉田首相などの写真をうつして、これらの人々と握手ができるという施設もあったそうです。

5.アベック世界めぐり
ニューヨークの地下鉄や小さなナイアガラの滝、パリのエッフェル塔、ベニスのゴンドラ、ドイツのビヤホールも店開きしていて、30分間の海外旅行ができるという施設であったそうです。

6.海女館
竜宮城をイメージした美しい外装が施され、志摩半島からやって来た本物の海女さん7人が、ガラス板の向こうで水中演技を行う施設。

7.野外劇場
ここでは日本少女歌劇、コマ回しの曲芸や芸妓の手踊り、抽選会の発表が行われたそうです。

ステートフェアでつくられた子供遊具、コドモ汽車、飛行塔、リバースゴーランド、ウォーターシュートは、博覧会事務局から1,500,000円で鹿児島市が買い取ることになりました。
そして、昭和26年1月1日から営業が開始されたそうです。

当時の鴨池動物園の画像をお探しの方は、次の写真集や書籍をご覧になってみてください。
鹿児島県立図書館や鹿児島市立図書館に蔵書されています。
『かごしま戦後50年』と『昭和の鹿児島』に掲載されている写真は、貴重な上に画質も良いので、お薦めの書物です。
ちなみに筆者は、ヘソクリで購入。幸いにも、まだかみさんにはバレておりません。

『思い出の鴨池動物園』
かごしま戦後50年―写真と年表でつづる』(南日本新聞社刊)
昭和の鹿児島―写真で甦る、あの頃の記憶』(株式会社生活情報センター刊)

8.抽選会
九州ステートフェアの前売り券は、様々な商品が当たる抽選券にもなっていました。
抽選会は野外劇場に一万人を集めて行われ、ミス鹿児島や準ミスの女性が射る矢で当選番号が決められたそうです。
特等は文化住宅で、現金30万円も景品となっていました。
ちなみに、現金30万円の当選番号は「205865」であったそうです。

■ 博覧会の目玉、テレビジョン館
ステートフェアで特に注目を浴びたのが、テレビジョンの公開でした。
博覧会西会場となった農事試験場には、当時の農業に関する最新情報が豊富に陳列されていました。
その他、各種実演館とともに「テレビジョン館」が造られていました。
遠く離れた物体がそのままスクリーンに映し出されるという、NHK開発のテレビジョンが初公開されたのでした。
戦後日本にあって、東京に次いで2番目の公開実験であったそうです。
その辺の経緯が、『勝目清志回顧録』に掲載されています。

「ステートフェアで特に大書すべきものはテレビジョンであった。日本放送協会では、早くからテレビジョンの研究を進めて、昭和14年頃にはある程度の放送もできるようになっていたが、戦争で中絶していた。
研究がさらに進んで、ちょうど昭和25年3月には東京でテレビジョンの公開実験が行われることになったので、それをステートフェアに公開したいと考えた。

さいわい日本放送協会の会長古垣鉄郎は鹿児島出身なので、南日本の畠中社長その他の交渉で、とうとう東京の公開についで、鹿児島のステートフェアで公開することになったのである。
NHKのテレビジョン技術者が多数鹿児島にきて設備に着手、ようやく4月20日公開できた。
当日はテレビジョン公開の挨拶をすることになっていたので、午後テレビ館に行った。

試験中は何も故障がなかったのに、正式に挨拶を始めようとしたら停電、約1時間ぐらい待ってようやく予定の挨拶ができた。
とにかく一室での像が音とともにそのまま他の室で見たり聞いたりできたので、大変なにぎわいであった。」

かくして、西会場のテレビジョン館は、大変な賑わいであったそうです。
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2014年06月25日

戦後の鹿児島、初めての大博覧会「九州ステートフェア」

終戦から間もない昭和25年3月25日、鹿児島市で戦後はじめての博覧会「九州ステートフェア」が開催されました。
九州ステートフェアは、県農事試験場五十周年を記念した農業振興博覧会で、5月15日まで47日間にわたって開催されました。
計画では5月10日までの予定でしたが、好評のあまり15日まで延長されたそうです。
地元鹿児島県だけでなく、県外からも多くの人々が訪れ、のべ40万人を超えたそうです。

■ 博覧会開催のキッカケ
当時、全国各地で博覧会ブームが起こっており、昭和25年ごろまで毎年2,3の都市で開かれるほどでした。
どこの博覧会も、盛況を極めていたそうです。
そうしたムードのなか、鹿児島でも何回となく計画されていましたが実現されずにいました。

昭和24年春、県農事試験場が翌年50周年を迎えるにあたり、何か記念事業を開くことになりました。
記念事業の計画は、当時の博覧会ブームに乗り農業振興の博覧会を行うという方向性が固まっていきました。
そして鹿児島県・鹿児島市・農協が一体となって準備が進められていくことになりました。

■ 財政問題
博覧会の予算は7000万円、当時としては膨大な金額でありました。
入場料で3000万円、各メーカーからの会場提供料を1000万円と見込み、残り3000万円を鹿児島県と鹿児島市で負担するという計画を立てたのでした。
しかし、当座の金がなかったことから、会場建設費を前売り券収入で賄うという苦しいスタートとなってしまいました。

前売り券は1枚100円、40万枚を印刷。
前売り券の裏にスタンプを押すことになった県税事務所では、十数人の女子職員が毎日かかりきりで作業を行いました。
すべて押し終わるのに、二週間以上かかったそうです。

前売り券を売りさくため、関係者たちは懸命のPR活動に励みました。
ポスターは2種類作成、鹿児島県出身で洋画壇の重鎮であった海老原画伯が手がけました。
ポスターはとても評判が良かったそうです。
『思い出の鴨池動物園(昭和61年刊)』の29ページに、ポスターと入場券の写真が掲載されています。

ポスターだけでなく、マイクロバスも購入し宣伝カーとして町中を走り回りました。
宣伝カー、今では見られなくなったボンネットバスで、天井には2個の大きな拡声器が取り付けられていました。
宣伝カーの写真も、『思い出の鴨池動物園』に掲載されています。

前宣伝の効果があったためか、前売り券20万枚を売りさばき、大きな赤字を出すという心配はなくなったのでした。

■ 会場建設
博覧会開催にあたっては、財政面だけでなく会場建設も大変であったそうです。
会場は第一会場・第二会場の2つ造ることになっていました。
第一会場は鴨池動物園内に、第二会場は鹿児島大学教育学部の辺りを予定していました。
当時、鹿大教育学部の辺りは一面の水田であったそうです。
その水田に隣接するように、農事試験場と畜産試験場がありました。
水田は第二会場となるべく、急ピッチで埋められていきました。

博覧会当日、第一会場が野外演芸場・飛行塔・ウォータシュートなどの娯楽施設を中心にしてつくられました。
一方、第二会場では紅茶・澱粉・サトウキビなどを陳列した特産館やアメリカ農業館が建てられたそうです。
また、農機具館も建てられ、ここには全国各地のメーカーが新製品を並べており、見物客は驚嘆するばかりであったそうです。
他にも、DDTや新農薬・新肥料も展示されるなど、そうとう意欲的な博覧会であったそうです。

次回は、第一会場となった鴨池動物園での様子について触れてみます。
posted by ぶらかご.com at 15:35| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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