2014年07月31日

鴨池公園のうち鴨池動物園

戦災復興事業や都市計画事業によって、中央公園や平田公園など多くの公園が造られましたが、戦前から整備されたものもありました。
城山公園、天保山公園、祇園洲公園、多賀山公園、磯公園そして鴨池公園などです。
とくに鴨池公園は、動物園・野球場・陸上競技場・海水浴場などを有する鹿児島市最大の総合公園でありました。

鴨池公園が総合公園となったのは、鹿児島市が鹿児島電気軌道(株)から電車買収と同時に、附属設備として買い取ったことから始まりました。

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掲載した鴨池公園の図は、鴨池飛行場を建設する前の真砂町や鴨池の辺りを表しています。

【 鴨池動物園 】
鴨池動物園が誕生したのは大正5年のこと.
当時の動物園周辺は、ススキの原野と松林の生い茂る淋しいところであったそうです。
『鹿児島の路面電車50年』に、昭和30年代に撮影された写真が掲載されています。
郡元交差点から鴨池方面を撮影した写真に、現在の郡元電停の両側には鬱蒼とした林が茂っています。
この辺り、昭和30年代ごろまで戦前とあまり変わらなかったかもしれません。
また撮影された林は、奇跡的に空襲を免れたようです。

開園当初の動物園は、現郡元電停から山手側の方、現グランガーデン一帯3500坪の敷地に建てられていました。
園舎には、サル・オウム・九官鳥ぐらいしかいなかったそうです。

大正7年になると、敷地8000坪に拡張し動物の購入や娯楽遊具施設が整っていきました。
昭和3年7月、鹿児島電気軌道鰍フ経営不振から、電車とともに動物園を鹿児島市が買い取ったのでした。
『勝目清回顧録』によると、鹿児島電気軌道鰍フ買収には相当苦労されたようです。
昭和初め頃の鴨池動物園は、九州で唯一の動物園であったそうです。
鹿児島市では動物を増やそうとしますが、なかなか思うように行かなかったそうです。

昭和5年6月16日、野上堅蔵氏が鴨池動物園にゾウやその他の動物を寄付するという話が舞い込んできました。
当時、ゾウの値段は体の高さ1尺につき千円という相場だったそうです。
そこで5千円出して5尺(約151センチ)の像を購入しました。
九州で初めてのゾウであったことから、大変な人気者となり子供たちに喜ばれたそうです。
現在でいえば、コアラにも負けぬほどの人気ぶりであったかもしれません。

購入したゾウは、五尺ばかりの子供でありましたが、しだいに大きくなり、数年後には立派に大人のゾウとなりました。
このゾウ、戦争中に病死してしまったそうです。

野上氏の寄付によって、エミューやワニ、シーライオンなどが鴨池動物園で見られるようになって、ますます九州一の動物園として充実するようになりました。

【 鴨池の土地買収 】
鴨池動物園、野球場、運動場(現UR住宅)などの土地は、もともと島津家の所有でした。
鹿児島電気軌道鰍ェ、電車収入の増加をはかるための施設として遊園地を計画しました。
そのとき、島津家から土地を借りて施設をつくったものでした。
鹿児島市が鹿児島電気軌道鰍買収する際、一括買収して動物園を経営し、その後野球場や運動場を整備したのでした。

戦前、十五銀行の休業や減資など金融大混乱のため、大株主であった島津家は莫大な負担をしなければならなくなりました。
そこで、様々な財産の処分が始まりました。
そのうちのひとつとして、鴨池の土地が処分されることになったのでした。

島津家と鹿児島市の交渉の結果、坪数5万100坪、価格32万円と決まりました。
交渉はまとまりましたが、お金の都合が大変であったそうです。
『勝目清回顧録』に、この辺の事情がこと細かく記されていますので、ご覧になってみてください。
金融危機と不景気の最中に行われた金策だけに、土地売買の調印するまでに3年ほどかかったそうです。
また、買収に要したお金は、それまで前例のない公園施設に対する市債が許可されたものでありました。

【 旧海浜院跡地の買収 】
昭和14年、鹿児島市は動物園隣接地、日本赤十字社所有の旧海浜院跡地37500uの払下げ契約を結びました。
上に掲載した地図では、真砂町と書かれたところになります

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「土地払下願」と「契約書」の内容が、『鹿児島市電三十年史』に掲載されています。
それによると、海浜院のあった所は鹿児島市郡元町字境ヶ濱と呼ばれていました。
鹿児島市長から出された払下願、宛名は日本赤十字社長 公爵徳川家達殿となっています。
当時、侯爵・公爵・伯爵・子爵・男爵などの爵位があり、その他多くの国民は平民でありました。

さて鹿児島市では、この土地に児童公園を建設しようと様々な計画を進めていました。
しかし、太平洋戦争が勃発すると軍はこの土地を接収、飛行場建設にとりかかり、待避壕を建設するなど軍事施設化していきました。

終戦後、この土地は鹿児島市に移管されることになりましたが、住宅難を解消するため宅地に転用されることになりました。
その後、郡元保育園や郡元住宅が建てられ、現在のような形になったようです。


次回まで、引き続き鴨池公園についてふれてみます。
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2014年07月28日

公園の整備

混乱と食糧不足のなかでの復興事業は、宅地や街路だけでなく公園や広場、緑地帯が整備されていきました。
整備された公園や緑地帯は、つぎの通りです。

■ 運動公園
中央公園(昭和23年)、平田公園(昭和24年)、若宮公園(昭和25年)、南林寺公園(昭和25年)、城西公園(昭和24年)、共研公園(昭和25年)、中村公園(昭和25年)、以上7つの公園は、運動公園として整備されました。
カッコの中の年代は、施行年を表しています。

【 南林寺公園(天文館公園) 】
南林寺公園は昭和34年3月23日、名称を「天文館公園」と改めたそうです。
『鹿児島市政だより』昭和33年7月8日号に、天文館公園にプール完成の記事と写真が掲載されています。
「天文館公園にプールが出来上がりました。このプールは長さ25メートル、幅17メートルで毎日午前9時から午後7時まで使用できます。
使用料は、大人15円子供5円で一回の使用時間は約50分です。
なお七月中旬昼間は市内小中学生が使用し、一般市民の方は午後5時から使用することになっています。また現在工事中の附属施設も八月半ばには完備しますので、当分の間仮施設を使ってください。」

現在の天文館公園は、以前にくらべすっかり綺麗になりました。
天文館公園といえば、ナイターでソフトボールをやってるイメージでしたが、以前はプールがあったようです。
上町(かんまち)出身の嫁さんに聞いたところ、あったような気がするとのこと。
天文館プールの記憶はないようですが、夏休みになると若宮公園のプールによく行っていたとのこと。
現在の若宮公園、広場と小さくした大乗院橋が保存されていますが、以前はプールもあったそうです。


■ 児童公園
復興事業の公園整備では、児童公園も整備されました。
昭和25年までに整備された公園は19か所、次の通りになります。

1.昭和23年整備
ザビエル公園、照国公園、清滝公園、朝日通、港公園、塩屋公園、新屋敷公園。

2.昭和24年整備
測候所前公園、西川公園

3.昭和25年整備
下荒田公園、騎射場公園、松方公園、西駅裏公園、新土公園、常盤公園、八幡公園

4.昭和26年
長田公園、上荒田公園、中荒田公園。

その後も、公園整備は毎年のように行われるようになります。
昭和30年代になると新設の公園や整備が、毎年のようにあちこちで行われました。
昭和32年には、立馬場から南洲公園までバスが通ることのできる道路が完成。
市政だよりによると、この道路、「観光道路」と呼んでいたようです。
昭和32年6月5日号で、次のように記載しています。

【 南洲公園 】
「市では南洲公園を桜の名所にするため、昨年から一般の墓地を改葬して公園化しましたが、近く頂上までの観光道路をつくることになりました。
この道路は市電の長田町停留所東よりのところから、上の原水源地入口をへて頂上に通ずる幅6メートル道路で、今月初め着工して7月末ごろ完工の予定です。
これが完成によって頂上はバス30台位の駐車場広場や売店を設け市内観光バスも、簡単に登れるようになり、広く県外観光客へも紹介できますので、あらたに観光名所として一段とクローズアップされることとおもわれます。」

どうやら、南洲公園の大きな駐車場は、墓地跡であったようです。


■ 鹿児島市政だより・昭和34年8月25日号より
復興事業によって整備が進められた公園でしたが、その利用に当たって困った人たちもいたようです。
鹿児島市政だよりでは、「楽しい遊び場 公園をいたわろう」と題して公園の目的やマナー、禁止事項を列記しています。
禁止事項のなかに、面白いものがありましたので、本文とともに紹介してみます。

「市民のいこいの場所として市内にはたくさんの公園ができました。公園はここを利用することによって休憩や散歩、運動などができ気分がさっぱりいて皆さんの健康を守るのに大いに役立っています。
公園にはいろいろ種類があってそれぞれ目的によって使いみちがちがいます。
市内の公園で一番多いのが児童公園です。人口や住宅それに自動車などが増えて遊び場がなくなった子供たちのために。子供さんが安全に遊べるようにとってある広場が児童公園です。

したがって大人の人は子供が十分楽しめるように、ここでの野球などは控えていただかなくてはなりません。
大人のためには中央公園や天文館公園などのように運動公園といって、野球、ソフトボール、テニスなどができる所があります。
このほか一般公園といって城山、多賀山、寺山など景色のよいところで休憩、ハイキングなどに利用できる場所があります。
このように公園もその目的や使いみちに従って利用していただかなくてはなりません。

(途中省略)
記事後半からは禁止事項が列記されており、けっこう面白いことが書かれています。

1.公園の植木、鉄棒やシーソーにフトンをかけるなど物干し台にしない
2.公園の広場に、ニワトリ小屋など設けない
3.植木の枝を折ったり、花をつんだりしない。
4.公園の便所にラクガキをしない。
5.公園の便所の壁に向かってキャッチボールをしない
6.公園の外灯を石や空気銃などでわらない。
7.ブランコ、シーソー、鉄棒などの金具をはずさない。
8.水飲場の出口に棒や砂をつめこむようないたずらはしない。
9.児童公園では、大人の遊びはやめる

大人の遊びというのは分かりませんが、植木や遊具を物干し代わりにするというのは分かるような気がします。
鉄棒の高さは、布団を干すのにちょうど頃合いなものであったかもしれません。

さて、戦災復興事業や都市計画事業によって、次々と新しい公園が生まれたのですが、戦災前から設置されたものもありました。
そのなかで特に大きなものは、鴨池公園でありました。
鴨池公園は、動物園・野球場・陸上競技場・海水浴場などを有する鹿児島市最大の総合公園でありました。
次回は、鴨池公園についてふれてみます。
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2014年07月25日

鹿児島市の舗装道路と街路樹

■ 鹿児島市の道路舗装
『勝目清回顧録』によると、鹿児島市で初めて舗装道路をおこなったのは、現中央公民館裏の道路であったそうです。
10メートルほどの道に、コンクリートブロックを敷いた試験的に行ったものだそうです。

本格的な舗装道路は、天文館通り〜いづろ通り角までの工事が初めてでした。
大正15年12月5日、いづろ通の代表者春田泰助、福留三善、春田宗次郎、今村武兵衛の4氏から道路の舗装改良の希望が鹿児島市に出されました。
工事にかかる経費は約3万円、当時の鹿児島市予算では1ヶ所に3万円を投入することは困難でした。
しかし、いづろ通の代表者たちから1万5千円の寄付がなされ、2ヶ年継続事業として実施されることになりました。
昭和2年着手、翌3年11月5日に落成式が挙行されたのでした。
このとき、初めて鹿児島市に都市的な道路ができたのでした。

初めての舗装道路には、問題もあったそうです。
舗装の基礎には桜島の溶岩を使用、これには工事請負者も驚くほどしっかりしたものであったそうです。
しかし、表面にアスファルトブロックを使用したことは失敗であったと、『勝目清回顧録』に記述しています。
アスファルトブロックは修理の際に便利ということから、各地で使われていました。
そこで鹿児島市でも使用することになりました。
長い間にブロックの表面はすり減らされ、凸凹ができぬよう修理することは困難であったそうです。
しまいには、修理困難ということで管理出来なくなったそうです。

終戦直後の舗装
『勝目清回顧録』に戦後の道路舗装工事について、次のように記述しています。

「終戦後15年、ホコリばかりで困った道路もいくぶんか舗装されたので、市民の不満も少なくなった。私の感想としては、道路の放送は意外に早くできたと思っている。
へたな戦争で大敗北した日本で、こんなに早く道路の舗装が進むとは予期していなかった。2,30年後には道路らしい道路となるだろうから、道路の形だけ私の時代に造っておけばいいくらいに考えていたのである。予想外に早かった」

【 防塵舗装 】
昭和33年11月1日発行の「鹿児島市政だより」に、当時の道路舗装に関する記事が掲載されています。
予算の制約のなか、防塵舗装という安価な工事によって舗装工事を行ったようです。
記事によると、昭和33年の時点で主要幹線道路の舗装は順調に行われていたようです。
その他の道路整備をはかるため、幅11メートル以上の幹線道路も舗装工事を施すことになりました。

そのとき行われた道路は、塩屋本通線・玉竜高校前線・中洲通線・松見通線・武之橋通線・甲南通線・城西本通線・鷹師町通線・原良本通線・草牟田小学校前線・玉里御殿線・鴨池動物園線ほか37の道路について、防塵舗装が施されたそうです。

防塵舗装は、仮舗装というものでありましたが、市民たちには好評であったようです。
当時の鹿児島市は、財政規模が小さく舗装をどんどん進めるという訳にはいきませんでした。
『勝目清回顧録』に記述されていますが、「私の市政中、もっとも頭の痛い一つは道路の舗装であった。貧弱公共団体のなやみである」


■ 街路樹
復興事業が進み、街路の形が整ってくると街路樹も植えなければならないと考えるようになったそうです。
というのも、大規模な空襲で市街地のほとんどを焼失した鹿児島市にとって、町の緑は保健衛生・休養・保安などに大きな効果をもたらすと考えたからでした。
昭和26年〜27年にかけて高等農林学校の学者や有識者を交えて、主要幹線道路の植樹計画を作り上げました。

会議では、街路樹として次のような植物が選定されました。
1.郷土植物よりの選定;くす・山桜・椿・もくせい
2.南方的植物よりの選定;フェニックス・アコウ・もくまおう
3.一般的植物よりの選定;いちょう・なんきんはぜ・あおぎり・やなぎ・あぶらぎり・アカシヤ

街路樹の植栽は、道幅20メートル以上の路線から開始されました。
幅20メートルに満たない道路は、地域性・街区の性格により必要と思われる所だけに植えられました。
電車道路など36メートル以上の幹線道路には、すべて郷土の代表的樹木「くす」が植えられました。

鹿児島市役所前の50メートル道路(現みなと大通り)には、中央部に18メートルのグリーンベルトが造成されました。その真ん中には、フェニックスが植えられました。
昭和26年のことであったそうです。
当時の写真が、『鹿児島市戦災復興誌』に掲載されています。

フェニックスを植えた経緯が、『鹿児島市戦災復興誌』に記述されています。
「市庁舎の前に貫通した50メートル道路に、市を代表する街路樹はないものかと、いろいろ検討された。外国の街路樹を調査中ふと目にとまったのが、ナポリの街路樹、フェニックスだった。これだ!!と即決され、宮崎の園芸店から1本15000円の苗木を11本買って来て植え込まれた。ついでにナポリ通り・パース通りなどにも植栽されたのである。」

昭和55年度末までに植えられた街路樹の上木は16880本、下木は65万4194本という大きな数になったそうです。

【 鹿児島市政だよりから 】
1.高麗橋から附属小前までの並木道
昭和33年12月15日発行の『市政だより』によると、高麗橋から大学通に樟が植えられたそうです。
「郷土色豊かな樟の木を、高麗町本通りから、上荒田本通りをへて郡元の大学付属小学校前まで、約2000メートルに335本植えました。これは、1本あたり千円くらいするもので、いまのところ、枝葉一枚もつけていない。
一見、木の棒みたいですが、明年四月ごろは緑の葉をふさふさとつけたすばらしい並木になりますので、いまこれを傷つけないよう、通り会の方々の、注意とご協力をお願いいたします。」

ここを車で通るときは素通りすることが多いので、街路樹があることは気づいていましたが、樹種までは気がまわりませんでした。
通った際は、眺めてみるのもいいかもしれません。
市政だよりの記事の中に、「いまこれを傷つけないよう・・・」と記述されていますが、その心配が現実のものとなってしまいました。

2.昭和35年6月25日発行『鹿児島市政だより』から
“街路樹を大事にしよう”という見出しで、記事は次のようにつづきます。
「市の緑化係では、この鹿児島市をすばらしいみどりの都とするために、街路樹の育成に努力していますが最近、この街路樹を荒らす心なき人が出て困っています。
街路樹は、それがひとり前になるまでには、たくさんの人出と長い年月がかかります。
それが一夜のうちに荒らされては、いくらうえても追いつきません。
街路樹は観光鹿児島のシンボルです。お互いに十分注意して大切に育てましょう。」

つづいて記事は、7つの注意事項を箇条書きにして記述しています。
●家の前の街路樹は、自分の庭木という気持ちで可愛がりましょう。
●街路樹を折ったりする人を見たらお互いに注意しましょう。
ここまでは、ふつうの注意事項という感じです。
そのほかに、当時の暮らしの一面を垣間見るような注意事項が3つほど記述されています。

●街路樹の根部に「タドン」の灰や塵などは捨てないようにしましょう。
●街路樹に牛馬など、つながないようしましょう。
●街路樹の下で焚火はしないようにしましょう。

当時、台所では練炭などを使っている家庭が多かったようです。
市政だよりでは、火の始末や火事の注意を呼びかける記事が昭和30年代は多いようです。
車が徐々に増えていたようですが、まだまだ荷物の運搬には馬車が使われていたようです。
『鹿児島市の100年』という写真集に、鹿児島港を走る馬車を撮影した写真が掲載されていますので、ご覧になってみてください。
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