2014年08月29日

昭和51年6月24日の南日本新聞記事から

昭和51年6月22日から降り始めた雨は、23日からは1日で100ミリを超すものになりました。100ミリを超す雨は25日まで続いたため、各地で土砂崩れや河川の氾濫が発生。
鹿児島県では死者32名、重傷者12名、全壊住家94棟・半壊73棟、床下浸水2232棟、床上浸水173棟などの被害が発生しました。
鹿児島市での死者13名、曽於郡松山町5名、大隅町4人、国分市2人、鹿屋市4人、垂水市2人、輝北町1人、東桜島町1人の合計32名。

これらの大惨事は25日に発生したものでしたが、前日の南日本新聞6面に「生き続けるさつまの顔(21)」と題する連載コラムが掲載されていました。
翌日発生する大惨事を予見したかのようなコラムになっています。
今回は、昭和51年6月24日の南日本新聞の記事に触れてみます。

■ シラスとは
シラスとは“白砂”あるいは“白洲”から由来した俗称。専門家の間では熱雲堆積物、軽石流、火砕流などと呼ばれる。シラスの研究が進むにつれ、立派に学術用語として通用するようになった。
火山の爆発によって、ガス、火山弾など様々なものが噴出されるが、このうち地上に堆積して固まったものが“灰石”。固まらず細かな粒子のままの堆積物がシラスである。
調査によると、県内の分布面積は2113㎢、684億㎥に及ぶという。
鹿児島県の専売特許のように思われたシラスだが、同様のものが北海道や東北地方にも分布していることが、その後の研究でわかった。(昭和51年6月24日南日本新聞記事)

【 昭和51年以前のシラス崩壊による災害 】
昭和44年6月29日〜30日に発生したもので、死者43名・行方不明3名。
それから1ヶ月後の昭和46年8月、県本土を襲った台風19号による雨によって各地で崖崩れが発生しました。この事故によって、死者45名・行方不明2名を出してしまいました。
さらに、昭和47年7月の南九州北部を襲った豪雨被害でも、小学生や幼児ら4名がガケの下敷きとなり死亡しています。

こうした災害をふまえて、「生き続ける さつまの顔(21)」は掲載されてようです。
この記事では、昭和36年頃から本格化した宅地造成とガケ崩れに因果関係のあることが記述されています。
当時、住宅不足を解消するため市街地近郊の山林は続々と開発され、宅地化されていきました。土地神話も後押ししたことから、造成地の需要は高まるばかりであったようです。

■ 生き続ける「さつまの顔」(21)
この記事では、当時鹿児島大学の大庭教授のインタビューを交えたものになっています。
カギ括弧は、教授の弁になります。

「シラスの物性・本質を無視し、土でも砂でもないシラスを土や砂と同じように扱ったのが、シラス地帯でガケ崩れが頻繁に起こるようになった原因」
シラス台地がしだいに開発されるようになったのは、昭和36・7年頃。
「この頃からわが国の高度成長期と軌を一にして人口の都市集中化が起こり、都市周辺部の開発が促進された。自然環境破壊の結果、43年頃からシラス地帯のいたる所で爆発的に大きな災害が続発するようになった。」と分析する。

「シラスは崩しやすい。だから、これを削って窪地や谷間をどんどん埋め平坦にし、たちまち安いコストで宅地ができる、このような甘い考え方が大災害を頻発させた。崩しやすいということは、崩れやすいということです。

※戦時中、防空壕を掘ることになりましたが、鹿児島の場合はシラスであったため簡単に掘り進めることができたそうです。『勝目清回顧録』に、次のように記しています。
「他県の横穴防空壕はたいてい岩石であったので、なかなか進まなかったらしいが、鹿児島の場合はシラスだったので、素人でも掘れる上に案外簡単に掘り進んだ。あまり早く延びるので、本省ではインチキをやっているくらいに考えたらしい。県土木課長らが実地検分のうえ報告することまで起こった。」

宅地造成が始められた頃、シラス地帯のガケ崩れが台風時の豪雨や局地的集中豪雨などの天災によるものか、それとも開発などにかかわる人災によるものか議論はふっとう、大きな社会問題となっていた。
しかし、明らかに人災であったことは開発が進み面積が拡大するとともに、ほぼ比例して災害発生件数が増え、災害規模が大きくなっていったことからも明白であったようです。

当時のマイホームブームによって宅地造成が急ピッチで進んでいた昭和47年頃のこと。
鹿児島市で造成中の団地で、シラス防災に関する大規模な実験が行われました。
大庭教授らが鹿児島市住宅公社の協力でおこなったもので、地山シラス(自然のままのシラス)と盛土シラス(造成したシラス)のそれぞれ横2メートル、高さ2メートルのモデル実験場をつくりました。
スプリンクラーで、100ミリを超す集中豪雨を再現。どちらが雨に弱いか試すということを行いました。
約一時間後、それぞれのシラスの崩れ方には明瞭な差が出たのでした。盛土シラスは芝を張っていたにもかかわらず、地山シラスよりも浸食の度合いが早かったのでした。
「水を吸ったシラスは、角砂糖のように崩れる」ことが立証され、造成地の危険性を改めて認識したのでした。

「人間が自然を開発する以上は、当然、自然界のバランスを再現するような仕方で防災措置を工夫するか、または自然の猛威に対抗できるだけの強力な対抗措置をとるべき」と教授は力説する。

一見すると固く締まっているように見える盛土シラス、水を含めばたちまち崩れてしまうそうです。
つまり、崩したシラスを宅地造成などに使うと、流動する水に対しては著しく弱く、土石流となって激しく流れ出してしまうのでした。
また、シラスのなかには軽石も含まれており、これらが流れ出すと排水溝やパイプを詰まらせる原因になり、災害を大きくする要因にもなるそうです。

昭和51年当時、シラス防災の方法として、@アスファルトやタールを吹き付けるAビニールで覆うBシラスとセメントを混ぜるなどがあったようですが、根本原因を克服するまでにはなかったようです。

記事は、次のように結んでいます。
「今後10年、20年の間にわたって災害を出さないようにしていくためには、大災害が起こってしまってからの泥縄式対策ではダメ。起こるであろう災害を前もって予測し、先取りすることが必要であり、そのための予測防災学が必要」と同教授は言う。

記事が掲載されてから、40年近く経ちました。
おそらく技術や研究も相当進んだことでしょうから、当時の大きな心配は要らないかもしれません。
次回は、6月25日に発生した災害に触れてみます。
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2014年08月26日

昭和38年〜40年代の長雨と災害

【 昭和38年の豪雪と長雨 】
昭和38年6月22日『鹿児島市政だより』2面に次のような記事が掲載されています。
中洲通りなど高級舗装 デコボコ道路を解消
「記録破りの大雪と長雨のために、今年は特に道路のいたみ方がひどいようです。このような市内のデコボコ道路を整備するために、6月市議会で2,310万円の道路関係予算を可決されました。雨期明けとともに、道路工事も本格的になってきます。」

記録破りの大雪
昭和37年末頃、冬型の気圧配置になるとともに、北西の季節風に乗って大陸から寒気が九州方面に流れ込んできました。そのため、九州各地は寒い雪のなかで正月を迎えました。
1月5日には再び強い寒波に見舞われ、一段と本格的な冬型が強まりました。
2月上旬にかけて、日本付近は深い気圧の谷となり、低気圧が次々に日本海に入ってきました。
これらの低気圧に吹き込む強い北西風によって、次々に新しい寒気が南下したため全国的に記録的な豪雪となり、大きな雪害が起こったのでした。

1月1日から2月10日ごろまで続いた降雪、低温、強風のため各地でこれまでにないような大きな被害が発生しました。
降り続く雪のために、陸上交通はいたるところで麻痺状態となり、バス路線の運休は全地域で発生しました。
また、長い異常低温によて農作物の被害も莫大な額にのぼりました。

この雪害によって、負傷者16名、全壊した住家3戸、がけ崩れ1ヶ所、鉄道被害2か所という被害が発生したそうです

昭和38年4月下旬〜6月上旬の長雨
4月18日、これまで朝鮮南部にあった前線が南下して九州付近に停滞、梅雨を思わせるような長雨の状態となりました。
4月28日には気圧の谷が接近したため再び雨となり、前線が停滞したことから全般的に悪天候となったのでした。

5月4日には東シナ海に低気圧が現れ、またまた雨模様の天気となりました。
その後は梅雨と同じように長期間にわたって前線が停滞したことから、本格的な長雨となってしまいました。
この状態は6月6日頃まで続き、各地で長雨による被害が発生しました。

この長雨と大雨によって、鹿児島県全域で負傷者、住家倒壊、浸水などの被害が発生しました。
また、甘藷・なたね・麦など農作物の被害は甚大であったそうです。
床上浸水5戸、床下浸水358戸、全壊住家2戸・半壊2戸、船舶沈没1隻、がけ崩れ59ヶ所、鉄道被害2ヶ所。


『鹿児島市政だより』昭和40年7月20日号に、「ことしは気象異変の年だ。太陽の黒点数が少なく、天明の飢饉のときと気象が類似している。大きな気象災害が起こるのではないだろうか、などとうわさされています。」という記事を掲載しています。
この記事は、昭和40年に限りませんでした。
昭和40年代以降に発生した異常気象と災害を、言い当てるものとなったようです。


【 昭和41年の水害 】
1.昭和41年4月9日
4月9日、黄海上にあった高気圧は東日本に去り、大陸にあった気圧の谷が東に進むにつれて東シナ海にあった前線が北上、これによって西日本に雨を降らせ始めました。
この前線上には、上海の南と九州の南西海上のそれぞれに1012ヘクトパスカルの低気圧が発生。
このため、九州南部には小笠原高気圧から湿った空気が大量に流れ込み、大雨を降らせたのでした。

鹿児島市では4月9日午後11時頃からの3時間で111ミリの豪雨が降り、住家浸水が発生しました。
南薩地方では道路損壊、がけ崩れなどの被害が発生しました。
死者1名、床上浸水60戸、床下浸水408戸、道路損壊25ヶ所、堤防決壊3ヶ所、がけ崩れ36ヶ所など。

2.昭和41年6月19日〜20日の水害
19日朝、大陸東岸にあった気圧の谷が、ゆっくり接近してきたため、奄美大島の北を東西に走っていた梅雨前線が北上を始めました。
また、東シナ海に低気圧が発生し、20日998ヘクトパスカルに発達して対馬海峡を経て日本海に入ったものです。
この低気圧、九州西岸付近で閉塞したため阿久根付近で雨が多かったそうです。
総降水量187ミリを観測した阿久根を中心に、出水地方一帯で水害が発生しました。
床上浸水15戸、床下浸水175戸、道路損壊5ヶ所、がけ崩れ5ヶ所、鉄道被害1ヶ所など。

3.昭和41年6月21日〜23日の水害
21日午後3時過ぎから1時間半にわたって局地的に降った大雨のため、鹿屋市の中心街は側溝があふれ、住家が浸水。
22日夜〜23日朝にかけても断続的な大雨に見舞われ、大隅地方では崖崩れや床下浸水など大きな水害が発生しました。

死者4名、負傷者8名、全壊住家8戸・半壊12戸、床上浸水98戸、床下浸水971戸、道路損壊125ヶ所、堤防決壊1ヶ所、崖崩れ103ヶ所、鉄道被害21ヶ所、被災世帯128戸、被災者384名。

【 昭和44年6月28日〜7月11日の大雨 】
6月29日、活発化した梅雨前線によって北薩地方では早朝から雨が強くなってきました。
30日には、前線がゆっくり南下して九州中部に停滞した。
これによって鹿児島県の中部を中心に強い雨が降りました。
とくに鹿児島市では午前6時32分頃〜7時32分までの1時間で62.5ミリを観測しました。

6月30日から7月1日にかけて大雨をもたらした前線は、2日に奄美大島まで南下。
しかし、7月4日から5日にかけて低気圧が対馬海峡を通過したことで前線が活発化し、大雨となりました。

【 被害状況 】
大雨は川内市や鹿児島市を中心に、県下全域に大きな水害をもたらしました。
川内附近では川内川の氾濫によって広範囲で住家の浸水が発生。
鹿児島市では、崖崩れによって多くの人命が失われてしまいました。
また、7月3日から降り出した雨は、4日〜5日と7日に豪雨となりました。
6月末の大水害の後だったことから、県内各地に大きな被害が発生したのでした。

死者49人、行方不明3人、負傷者88人、全壊住家161棟・半壊137棟、流失住家6棟、床上浸水5885棟、床下浸水8241棟、被災世帯6620戸、被災者22951人、崖崩れ851ヶ所、道路損壊483ヶ所、堤防決壊130ヶ所、橋流失23ヶ所など。

【 鹿児島市での状況 】
この水害で鹿児島市が受けた被害は、死者18人、負傷者118人、全壊住家116棟、半壊93棟、床上浸水723棟、床下浸水2400棟という大きなものでした。
また、吉野町平松では7月5日に山津波が発生し、死者2名・負傷者1名を出しています。
『鹿児島市民の広場』昭和45年6月1日号1面に、被害写真と記事が掲載されています。


『鹿児島市民の広場』昭和44年8月1日号に、水害について次のような記事を掲載しています。
「ことしの梅雨は、記録的な大雨を降らせ、かってない大きな被害をもたらしました。市内での雨量は1千ミリを越え、18人もの尊い犠牲者を出したのをはじめ、被害総額も18億4千万円の多額にのぼりましたが、息つく暇もなく、今度は本格的な台風シーズンがやってきます。
鹿児島地方気象台の話によりますと、今年は8月に1個、9月に2個の台風が鹿児島に接近することが予想されるが、気象変動のたいへん激しい年なので、大型の台風が上陸することも、十分考えられるということです。」

その後も、鹿児島県は毎年のように気象異変に見舞われます。
そのうち昭和51年と52年、二年続けて鹿児島市では大きな災害が発生してしまいました。
このブログでは、鹿児島市を中心に大きな災害を取り上げて記述しています。
鹿児島県で発生した自然災害全般について知りたい方は、『鹿児島県災異誌』を参考にしてみてください。
県立図書館や鹿児島市立図書館に蔵書していますよ。

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2014年08月22日

戦後の自然災害・集中豪雨とガケ崩れ

広島県で大雨と大規模な土砂崩れによって、大きな被害が出てしまいました。
以前は、鹿児島でも大雨による大規模な土砂崩れによる被害が頻発していました。
地球温暖化が叫ばれるようになって、大雨と土砂崩れの被害は、どんどん北上しているような印象を受けます。
“異常気象”や“未曽有の”という言葉を、よく耳にするようになりました。
昭和40年7月20日発行の『鹿児島市政だより』に、それらと似た記事が既に掲載されていました。

「ことしは気象異変の年だ。太陽の黒点が少なく、天明キキンの時と気象が類似している。大きな気象災害が起こるのではないだろうか、などとうわさされています。鹿児島市で頭にうかぶのは台風のことです。・・・」

『鹿児島県災異誌』を見ると、昭和30年代は、ほぼ毎年水害や台風被害が発生していたようです。
それに加えて竜巻・霜害・暴風雪・水害・高潮・旱魃などが鹿児島県に襲い掛かり、大きな災害をもたらしたようです。
『鹿児島市政だより』の記事は、これらもふまえてのものだと思われます。

昭和40年以降も、鹿児島県には毎年のように台風や風水害などが発生し、土砂崩れや河川の氾濫によって大きな災害が発生してしまいました。
台風や活発化した梅雨前線は、大雨をもたらし大規模な土砂崩れを引き起こしましたが、これは相当昔から発生していたようです。
土砂崩れがあったと思われる地名が残されています。
それについて、『創立百二十周年記念 宇宿郷土誌』に記載されていました。

【 創立百二十周年記念 宇宿郷土誌(平成11年刊) 】
だし跡
紫原台地、宇宿の亀原台地、笹貫の上の魚見原大地から海岸に通ずる所に、「だし」と呼ばれる地名が残っている。ここは梅雨の時など大雨が降って、大水を打ち出したところで、大地のシラスが大水と共に流れ出し、附近一帯が埋められ、大変民家は苦渋した所である。
紫原入口の「溜池のだし」、「砂走のだし(上塩屋)」など、「〇〇のだし」の名が残っているが、大水で大変苦労した所である。
今は水害対策がなされ、この地帯も住宅化されつつあるが、まだ危険な所も残っている。

【 旧喜入町の小字地図より 】
その他、旧喜入町生見地区の小字地図には、二ツ崩・二ツ崩迫・崩下などの地名があったようです。
「崩」ですから、以前発生したものか、頻繁にあったものかは分かりません。
しかし、「崩」という地名の周辺では、危険性に対する認識は共有できていたかもしれません。
地名には、その土地の性質を表現していることもありますので、大切に保存していきたいものです。

鹿児島市中心部にあっても、武岡の麓にある武や常磐町、原良町、永吉町、小野町、田上町、新照院、草牟田、伊敷、長田町、皷川町、稲荷町などにも、自然災害を表しているような地名や言い伝えが残っているかもしれません。

【 鹿児島での水害 】
鹿児島での水害といえば、平成5年の「八・六水害」が良く取り上げられますが、昭和40年代、50年代にも大雨による大きな災害が発生していました。
また平成5年は、2月と4月に霜害が発生しています。

同年6月12日〜7月8日まで大雨が降ったりやんだりして、県内各地で大きな被害がもたらされました。
また、7月31日〜8月2日にかけて姶良地域を中心に豪雨となり、大きな被害をうけました。
そして、8月5日〜6日にかけても大雨が降り、鹿児島市街地は大変な水害におそわれたのでした。

大雨が止んでホッとしたの束の間、8月8日〜10日かけて、台風7号が鹿児島に接近。
垂水市二川の裏山が崩れ、死亡者がでてしまいました。
また、9月1日〜3日には台風13号が鹿児島に上陸しました。
この台風で金峰町、川辺町でがけ崩れが発生、死亡者がでてしまいました。

平成5年の鹿児島は、自然の猛威がいっぺんに襲い掛かって来た年でもありました。
次回から数回に分けて、昭和40年以降、鹿児島で発生した大規模な自然災害について触れてみます。
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