2014年09月12日

昭和52年6月24日の災害

昭和52年6月15日から18日にかけて、県本土と熊毛地方で大雨となりました。
15日から18日にかけての雨量は次の通り。
鹿児島市213ミリ、竜ヶ水177ミリ、喜入290ミリ、志布志206ミリ、内之浦251ミリ、指宿221ミリ、溝辺237ミリ、輝北274ミリ、大隅町262ミリ、大口227ミリ、紫尾山273ミリ、宮之城226ミリ、川内244ミリなど。

梅雨前線は、18日〜19日になると奄美大島から沖縄付近に南下、20日には沖縄の南海上まで下がっていました。
19・20日の両日は、鹿児島本土での降雨はありませんでした。

21日、梅雨前線は再び北上しはじめ、大隅半島で雨が降り出し、22日は全般に雨となりました。
23日、前線は九州南岸に停滞、大隅半島で午前中に雨が降っただけで、曇ったり晴れ間を見せていました。
24日本土で降雨がありました、宮之城で50ミリが最高で、その他の地域は10ミリ〜30ミリ程度の心配するほどのないものでありました。

6月24日鹿児島市吉野町竜ヶ水
災害のあった竜ヶ水は、見上げるような高い崖になっています。
この急な崖は、およそ2万5千年前〜2万年前に活動した姶良火山のカルデラ壁にあたるそうです。

6月24日午前10時48分、鹿児島市吉野町竜ヶ水駅近くのシラス崖が、高さ約300mに亘って突然崩落。
重さ10トンを超す巨大な岩石混じりの土砂3万㎥が、山麓の人家と国鉄日豊本線と国道10号線上に崩落。
この崩落で9人が生き埋めで死亡、重傷1人、軽傷1人、住家13棟が全壊し、電気・電話回線などに被害が発生しました。
全員の遺体を発見するのに10日間を要し、土石に埋まった日豊線の復旧に1ヶ月かかり、危険回避と救出作業のため国道10号線も通行止めとなりました。

災害発生時、住民の証言が残されていました。今年広島で発生した土砂災害と似たところもありますし、今後の参考にもなるかもしれません。
【 証言1 】
「最初は地震みたいに家が揺れた。とたんにゴゴゴーッという物すごい地響きがした。あわてて家を飛び出してみたら、近所の家がなくなっていた。」

【 証言2 】
「地震のような揺れが2,3度あって、怖くなって外に飛び出したら、ザーッという音とともに大きな岩が押し寄せて来た。危ないと奥の間に逃げたが、アッという間に家もろとも土石の下敷きになった」

土石流が発生する直前、地震のような揺れがあったようです。

■ 『かごしま市民のひろば』昭和62年6月1日号
3面に、「梅雨本番 雨災害に備えを」を題した特集を掲載しています。

「うっとうしい梅雨の季節となりました。梅雨は災害の季節ともいわれ、大雨災害が起こるのもこの時期です。鹿児島地方気象台の長期予報によりますと、ことしの梅雨は、雨が集中的にドッと降るなど陽性型だといわれており、このような気候では、ガケ崩れや洪水などの災害が多く発生しがちです。そこで、本格的な梅雨を前に備えを怠らないよう心がけ、大雨災害を未然に防止しましょう。」

また、災害時の心得として10項目を挙げて注意を呼び掛けていました。
避難場所は、これまで25ヶ所であったものを53ヶ所に増やして災害に備えていました。

■ 『かごしま市民のひろば』昭和53年6月1日号
1面に、竜ヶ水の崩落現場の写真が掲載されています。
『かごしま戦後50年』にも、崩落現場の写真が掲載されていますのでご覧になってみてください。
日豊本線上に、土砂と巨大な岩石が崩落しています。
「災害は忘れた頃にやってくる」と題して、次のような記事を掲載しています。

「一昨年の六月紫原団地周辺の二か所でおきた山地崩壊や、昨年の竜ヶ水災害など今でもその恐ろしさは忘れることができません。
市では、このような災害を二度と繰り返さないためには、市内の災害危険個所を先月、山之口市長をはじめ市の幹部が点検しました。・・・」

昭和53年の鹿児島市は、災害時の避難所を62ヶ所に増やしています。
「必要に応じ臨時避難場所を開設しますので、身の不安や危険を感じたら、この避難所だけにとらわれず近くの安全な施設へ避難してください」と呼びかけています。

【 崩落の原因について 】
6月15日〜18日にかけて竜ヶ水での降雨量は、177ミリありました。
しかし、19・20日の両日に雨量はなく、21日以降も比較的少ないものでした。
24日午前10時48分頃に、土砂崩れが発生してしまいました。
原因として、地下水や特殊な地形・地質が災いして大規模な地滑り崩壊につながったと考えられているそうです。

「災害は忘れた頃にやって来る」といわれますが、およそ10年後、鹿児島市はゲリラ豪雨によってガケ崩れや川の氾濫に見舞われることになります。
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2014年09月09日

住宅難と宅地造成

終戦直後から鹿児島市では、住宅難の様相を示しつつありました。
戦時中の鹿児島市は8回の空襲を受け、住宅の半数以上を失いました。
膨大な数の住宅を失った上に、沖縄や奄美大島などへの引揚者が踏みとどまるということもあったことから、住宅不足は深刻なものとなっていました。
まだ、復興が十分でないにも関わらず、鹿児島市に人口が集中するようになっていました。
そうして、住宅不足は年を追うごとに深刻なものとなっていました。

【 紫原団地の造成 】
昭和30年、鹿児島市住宅協会は、イモ畑と原野であった紫原を宅地化することにしました。
翌年3月から土地を買収、昭和32年度から紫原1丁目付近の造成を開始しました。
この紫原には、鹿児島大学移転や鴨池動物園移転という構想もあったようです。
市電が紫原に上がるには、勾配が急であったことから断念したそうです。
とにもかくにも、紫原台地の造成は始められることになりました。
当時は土木用の機械がありません。福岡からブルドーザー2台を借り受けたそうです。
土砂の運搬には、馬車やリヤカーが主体でありました。
土砂は、南港附近の埋立地に運ばれました。
埋立地附近には、アメリカ軍の不発弾が多く、自衛隊に爆弾処理してもらいながらの作業であったそうです。
紫原団地の造成、九州にあっては福岡の小笹団地に次ぐ団地造成で、「宅地造成」という言葉も紫原が最初に使ったものであったそうです。

第一回の分譲は昭和37年8月のことで、価格は1坪2,500円〜3,000円。
敷地231uに木造60uほどで、分譲価格は50万〜60万円ほどでした。
当時、大学教授や校長、教頭、公務員の課長級以上の収入がある人でなければ買えなかったそうです。
当初は幼稚園や学校もなく、水道が敷設されるまでは鹿児島市の散水車の給水に頼っていました。

その後も紫原台地は造成が進み、人口が膨れ上がりつつありました。
当初、紫原団地には道路の計画がありませんでした。
人口が増えるにつれ、市街地に通じる幹線道路整備が急務となっていました。
昭和40年6月から紫原橋の建設が始まりました。
橋は国鉄南鹿児島駅付近の国道225号線と団地を結び、昭和42年に完成しました。
また、唐湊と鹿児島大学方面を結ぶための唐湊陸橋が昭和44年に完成しています。

■ ますます深刻になる住宅不足
昭和40年頃になると、鹿児島市の住宅不足は増々深刻となり、約1万戸の住宅が不足していました。
宅地の少ない鹿児島市、地価の上昇率は九州一であったそうです。
鹿児島県と鹿児島市、旧谷山市は、市街地背後の丘陵地を造成した大型団地を計画しました。
鹿児島市住宅公社は武岡団地を造成、鹿児島開発事業団は大明丘・天神山・城山・伊敷・玉里・慈眼寺・星ヶ峯と次々に開発していきました。
鹿児島県住宅供給公社は、原良団地や地方都市の団地開発を行っていきました。

【 宅造災害 】
原良や城山の団地開発が本格化した昭和44年6月30日、集中豪雨によって土砂が流出して附近の住家に大きな被害を出してしまいました。
鹿児島地方は6月28日から雨模様。翌日には日雨量251.9ミリの大雨。
30日朝には土砂降りとなり、午前6時〜8時までの時間雨量は98ミリの局地的豪雨となりました。

雨水は物すごい流れとなって土砂を流し始め、泥水は原良町の“かけごし”付近まで達しました。
住宅地は軽石交じりの土砂で埋まったそうです。
この土砂災害で、原良、小野町の被害は全壊1戸、半壊11戸、床上浸水40戸、床下浸水300戸にも達しました。
造成地は、シラスが2,3メートルほど浸食され、まるで峡谷のようであったそうです。
この災害で、雨量強度の捉え方がより厳しくなり、宅地造成工事の抜本的な見直しがなされました。
それでも、昭和51年には宇宿や唐湊で死者がでるほどの土砂崩れが発生するなどの被害が発生してしまいました。

■ 土地神話と建築費の高騰
高度成長とともに、鹿児島市の人口は年間1万人〜1万2千人も増加。
昭和44年12月には、40万人を超え、明らかな一点集中となっていました。
それに伴って、マイホーム熱もさらに高まっていきました。

田中角栄内閣の列島改造論によって、企業は土地を買占め、庶民の宅地需要の高さもあって、土地価格は異常に上昇していきました。
昭和48年4月の地価は、全国平均で30.9lも上昇、「土地は儲かる」という土地神話が誕生したのでした。
鹿児島開発事業団は昭和48年2月、玉里団地の第5回分譲をしたところ、申込者が殺到したのでした。最高141倍、最低でも5倍。平均23倍という競争率であったそうです。
また、県住宅供給公社が同年3月に売り出した原良・緑ヶ丘など4団地138筆には、約6500人もの申し込み者が押し掛けたそうです。

昭和49年10月、オイルショックが起こると、地価だけでなく木材、セメント、ビニール管などの建築資材価格が急騰。
そこに大工さん不足もあって人件費が高騰し、マイホーム建設に冷水を浴びせるものとなりました。
それでも家を持ちたいという庶民の欲求は、無くなることはなかったようです。

鹿児島市の団地造成は、それまでの都市の様相を大きく変えたのでした。
そして鹿児島市周辺部では緑が失われ、自然破壊を憂える人もあるようです。
自然破壊で山の保水力が低下し、雨水はそのまま川へ流れ込み、氾濫を引き起こす要因となっているのかもしれません。
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2014年09月06日

危ないと気付きながら災害に遭う悲しさ

昭和52年6月24日から降り始めた大雨は、25日も降り続け甚大な災害を発生させました。
災害発生翌日の南日本新聞では、早くも南風録に次のようなコラムを掲載しています。

6月26日付南日本新聞・南風録
「悪い予感が的中した。集中豪雨や大型台風の洗礼を受けないまま、山のてっぺんまで住宅やビルが建っている。県内各地にはシラス山の下に家々がならぶ。いつか自然の猛威にさらされれば、積み木細工みたいにガラガラと壊れそうで不安でならなかった。案の定、がけ崩れが続出、すでに31人の死者、行方不明者が出ている。
“危ない”と気づきながら災害に遭う悲しさ。」

「シラスが雨に弱いことは常識である。それにもかからずガケの上や下に宅地造成地ができ、すぐ売り切れてしまう。宅地難のせいだろうが、責められるべきは買主よりもまず造成業者であり、監督官庁であろう。宅地造成の規制をさらに強化しなければ、人災は忘れぬうちにやってくる。」

6月29日の社説では、「繰り返すなシラス地帯の悲劇」と題する記事を掲載し、宅地造成と許可行政について痛烈な批判記事を掲載しています。

6月29日付南日本新聞社説
「22日から25日かけて鹿児島県内を襲った集中豪雨は、死者32人、総額84億円を超す大きな災害をもたらした。その後、雨は一段落の状況にあるが、まだ梅雨が明けたわけではないし、梅雨明け後も引き続いて台風禍に見舞われる危険がある。
豪雨禍の教訓を生かして、今後に備えなければならない。」

「家屋被害などは比較的少ないのに、死者が多いこと、しかもそのほとんどがガケ崩れの被害者であることだ。
鹿児島県民は、「雨に弱いシラス地帯」の悲劇を、またも見せつけられたのである。
周知のように、鹿児島県本土は半ば以上、シラスに覆われている。しかも全国で指折りの多雨地帯であり、ガケの多い台地ばかりという地形上の悪条件も加わる。われわれの郷土は、まことに雨にもろい体質を備えているのである。」

社説では、ガケ崩れの要因として宅地造成と許可のあり方について言及していきます。

【 見逃せぬ安易な宅造 】
気象庁の予報では、ことしの梅雨はいわゆる陽性型で、後半大雨を降らしそうだといわれた。幸か不幸か、気象庁の警告はピタリ的中した。鹿児島地方は連続3日間、100ミリをはるかに上回る豪雨に見舞われたのである。
雨量が100ミリを超すとガケ崩れが始まり、150ミリでは災害が発生するという。この目安に従えば、災害が起きたのも不思議はないが、果たして防災対策に手抜かりはなかったのか。

すでに報道されたとおり、鹿児島市の場合、宅地造成そのものに問題があったことは明らかだ。つまり安易な宅地造成、無理な開発が災害の第一の原因だったのである。
そしてなによりも、宅地造成や建築にたずさわる業者、土地や家を求める人が、シラスの恐ろしさを認識しなければなるまい。

【 機敏な避難体制を 】
「鹿児島県内にはガケ崩れの危険地帯が2000ヶ所以上もある。「危うきに近寄らぬ」ことが最良の防災対策ではあろうが、現実には3万戸とも5万戸ともいわれる多くの県民が、そこで日々の生活を営んでいる。
これらの地帯では機敏な避難こそ、惨事を未然に防ぐ唯一の対策であろう。
鹿児島市の生き埋め災害の場合、避難勧告が出たり、注意が行われたにもかかわらず、それが徹底しなかったり、時間的に間に合わなかったりしたようだ。
関係機関の的確な判断・指示と同時に、住民も機敏に行動するように望んでおきたい。」

「梅雨期の豪雨でこれだけの被害を出したのは、昭和44年6月以来7年ぶりのこと。
台風の雨による大きな被害も、昭和46年8月の台風19号以来なかったこともあって、住民の間にも「心の緩み」があったかもしれない。」

6月30日付南日本新聞第10面に、「人災地帯 集中豪雨禍の教訓・上」という記事を掲載し、建築許可行政に対する疑問をつづっています。
それによると、「予想以上の雨が集中的に降った」「まさかと思われたところが崩れた」、一見仕方のない天災のように見えるこれら災害は、そのケースを細かく当たると、人災ではないかと思われる場合が多い。

【 建築許可に疑問 】
一挙に9人の犠牲者を出した市内宇宿町の崩壊現場。全員の遺体こそ発見されたが、後片付けは依然すすまない。残された人たちの表情は暗く、後片付けの手はにぶりがちだ。後片付けの手伝いに来ていた中年の男性が、「あんな崖の端に、家を建てることが許されているのだろうか。これは天災と人災の複合的な要素が強いですよ。」と呟く。

※宇宿町の崩落現場を撮影した写真が、『かごしま市民のひろば』昭和52年6月1日号に掲載されています。
ガケ上に建つ3軒の家は、右から昭和43年、45年、47年に建てられたものだそうです。
住宅の安全を確保するための建築基準法の施行・適用は、それまで県の管轄でした。
昭和47年4月、政令に基づいて市に移管されたのでした。
鹿児島市が引き継いだとき、2軒の家はすでに建てられていました。3軒目の建築申請が出たとき、一時ストップをかけたそうです。

しかし、県が同じ箇所を認可していたということ、「自分の土地に家を建てて何が悪い
」といった地主側の意見に押され、「安全には十分注意する」という条件付きで昭和47年に許可したものだそうです。
また、「こうした行政の姿勢が人災を招いてきた」と主張する人々が多かったそうです。

新聞の記事は、次のように結んでいます。
「ここ数年大きな災害もなく、人口過密で宅造が急速に進められた鹿児島市。もろい土壌と宅造開発による水体系の変化に、行政当局も市民も無頓着になりすぎていはしなかったか。梅雨前線が再び北上、被災地には二次災害の危機がしのびよっている。」

昭和30年代後半から、鹿児島市では増え続ける人口にともなって住宅不足が問題化するようになっていました。
これを解消するため、山林の開発し宅地造成が行われ、大きな団地がつくられていきました。
宅地造成は、官だけなく民間業者によってもすすめられていました。
当時から、土砂災害や水体系への影響を危惧する人もありましたが、旺盛な住宅需要の前では歯止めにならなかったようです。
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