2014年09月06日

危ないと気付きながら災害に遭う悲しさ

昭和52年6月24日から降り始めた大雨は、25日も降り続け甚大な災害を発生させました。
災害発生翌日の南日本新聞では、早くも南風録に次のようなコラムを掲載しています。

6月26日付南日本新聞・南風録
「悪い予感が的中した。集中豪雨や大型台風の洗礼を受けないまま、山のてっぺんまで住宅やビルが建っている。県内各地にはシラス山の下に家々がならぶ。いつか自然の猛威にさらされれば、積み木細工みたいにガラガラと壊れそうで不安でならなかった。案の定、がけ崩れが続出、すでに31人の死者、行方不明者が出ている。
“危ない”と気づきながら災害に遭う悲しさ。」

「シラスが雨に弱いことは常識である。それにもかからずガケの上や下に宅地造成地ができ、すぐ売り切れてしまう。宅地難のせいだろうが、責められるべきは買主よりもまず造成業者であり、監督官庁であろう。宅地造成の規制をさらに強化しなければ、人災は忘れぬうちにやってくる。」

6月29日の社説では、「繰り返すなシラス地帯の悲劇」と題する記事を掲載し、宅地造成と許可行政について痛烈な批判記事を掲載しています。

6月29日付南日本新聞社説
「22日から25日かけて鹿児島県内を襲った集中豪雨は、死者32人、総額84億円を超す大きな災害をもたらした。その後、雨は一段落の状況にあるが、まだ梅雨が明けたわけではないし、梅雨明け後も引き続いて台風禍に見舞われる危険がある。
豪雨禍の教訓を生かして、今後に備えなければならない。」

「家屋被害などは比較的少ないのに、死者が多いこと、しかもそのほとんどがガケ崩れの被害者であることだ。
鹿児島県民は、「雨に弱いシラス地帯」の悲劇を、またも見せつけられたのである。
周知のように、鹿児島県本土は半ば以上、シラスに覆われている。しかも全国で指折りの多雨地帯であり、ガケの多い台地ばかりという地形上の悪条件も加わる。われわれの郷土は、まことに雨にもろい体質を備えているのである。」

社説では、ガケ崩れの要因として宅地造成と許可のあり方について言及していきます。

【 見逃せぬ安易な宅造 】
気象庁の予報では、ことしの梅雨はいわゆる陽性型で、後半大雨を降らしそうだといわれた。幸か不幸か、気象庁の警告はピタリ的中した。鹿児島地方は連続3日間、100ミリをはるかに上回る豪雨に見舞われたのである。
雨量が100ミリを超すとガケ崩れが始まり、150ミリでは災害が発生するという。この目安に従えば、災害が起きたのも不思議はないが、果たして防災対策に手抜かりはなかったのか。

すでに報道されたとおり、鹿児島市の場合、宅地造成そのものに問題があったことは明らかだ。つまり安易な宅地造成、無理な開発が災害の第一の原因だったのである。
そしてなによりも、宅地造成や建築にたずさわる業者、土地や家を求める人が、シラスの恐ろしさを認識しなければなるまい。

【 機敏な避難体制を 】
「鹿児島県内にはガケ崩れの危険地帯が2000ヶ所以上もある。「危うきに近寄らぬ」ことが最良の防災対策ではあろうが、現実には3万戸とも5万戸ともいわれる多くの県民が、そこで日々の生活を営んでいる。
これらの地帯では機敏な避難こそ、惨事を未然に防ぐ唯一の対策であろう。
鹿児島市の生き埋め災害の場合、避難勧告が出たり、注意が行われたにもかかわらず、それが徹底しなかったり、時間的に間に合わなかったりしたようだ。
関係機関の的確な判断・指示と同時に、住民も機敏に行動するように望んでおきたい。」

「梅雨期の豪雨でこれだけの被害を出したのは、昭和44年6月以来7年ぶりのこと。
台風の雨による大きな被害も、昭和46年8月の台風19号以来なかったこともあって、住民の間にも「心の緩み」があったかもしれない。」

6月30日付南日本新聞第10面に、「人災地帯 集中豪雨禍の教訓・上」という記事を掲載し、建築許可行政に対する疑問をつづっています。
それによると、「予想以上の雨が集中的に降った」「まさかと思われたところが崩れた」、一見仕方のない天災のように見えるこれら災害は、そのケースを細かく当たると、人災ではないかと思われる場合が多い。

【 建築許可に疑問 】
一挙に9人の犠牲者を出した市内宇宿町の崩壊現場。全員の遺体こそ発見されたが、後片付けは依然すすまない。残された人たちの表情は暗く、後片付けの手はにぶりがちだ。後片付けの手伝いに来ていた中年の男性が、「あんな崖の端に、家を建てることが許されているのだろうか。これは天災と人災の複合的な要素が強いですよ。」と呟く。

※宇宿町の崩落現場を撮影した写真が、『かごしま市民のひろば』昭和52年6月1日号に掲載されています。
ガケ上に建つ3軒の家は、右から昭和43年、45年、47年に建てられたものだそうです。
住宅の安全を確保するための建築基準法の施行・適用は、それまで県の管轄でした。
昭和47年4月、政令に基づいて市に移管されたのでした。
鹿児島市が引き継いだとき、2軒の家はすでに建てられていました。3軒目の建築申請が出たとき、一時ストップをかけたそうです。

しかし、県が同じ箇所を認可していたということ、「自分の土地に家を建てて何が悪い
」といった地主側の意見に押され、「安全には十分注意する」という条件付きで昭和47年に許可したものだそうです。
また、「こうした行政の姿勢が人災を招いてきた」と主張する人々が多かったそうです。

新聞の記事は、次のように結んでいます。
「ここ数年大きな災害もなく、人口過密で宅造が急速に進められた鹿児島市。もろい土壌と宅造開発による水体系の変化に、行政当局も市民も無頓着になりすぎていはしなかったか。梅雨前線が再び北上、被災地には二次災害の危機がしのびよっている。」

昭和30年代後半から、鹿児島市では増え続ける人口にともなって住宅不足が問題化するようになっていました。
これを解消するため、山林の開発し宅地造成が行われ、大きな団地がつくられていきました。
宅地造成は、官だけなく民間業者によってもすすめられていました。
当時から、土砂災害や水体系への影響を危惧する人もありましたが、旺盛な住宅需要の前では歯止めにならなかったようです。
posted by ぶらかご.com at 00:01| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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