2014年09月09日

住宅難と宅地造成

終戦直後から鹿児島市では、住宅難の様相を示しつつありました。
戦時中の鹿児島市は8回の空襲を受け、住宅の半数以上を失いました。
膨大な数の住宅を失った上に、沖縄や奄美大島などへの引揚者が踏みとどまるということもあったことから、住宅不足は深刻なものとなっていました。
まだ、復興が十分でないにも関わらず、鹿児島市に人口が集中するようになっていました。
そうして、住宅不足は年を追うごとに深刻なものとなっていました。

【 紫原団地の造成 】
昭和30年、鹿児島市住宅協会は、イモ畑と原野であった紫原を宅地化することにしました。
翌年3月から土地を買収、昭和32年度から紫原1丁目付近の造成を開始しました。
この紫原には、鹿児島大学移転や鴨池動物園移転という構想もあったようです。
市電が紫原に上がるには、勾配が急であったことから断念したそうです。
とにもかくにも、紫原台地の造成は始められることになりました。
当時は土木用の機械がありません。福岡からブルドーザー2台を借り受けたそうです。
土砂の運搬には、馬車やリヤカーが主体でありました。
土砂は、南港附近の埋立地に運ばれました。
埋立地附近には、アメリカ軍の不発弾が多く、自衛隊に爆弾処理してもらいながらの作業であったそうです。
紫原団地の造成、九州にあっては福岡の小笹団地に次ぐ団地造成で、「宅地造成」という言葉も紫原が最初に使ったものであったそうです。

第一回の分譲は昭和37年8月のことで、価格は1坪2,500円〜3,000円。
敷地231uに木造60uほどで、分譲価格は50万〜60万円ほどでした。
当時、大学教授や校長、教頭、公務員の課長級以上の収入がある人でなければ買えなかったそうです。
当初は幼稚園や学校もなく、水道が敷設されるまでは鹿児島市の散水車の給水に頼っていました。

その後も紫原台地は造成が進み、人口が膨れ上がりつつありました。
当初、紫原団地には道路の計画がありませんでした。
人口が増えるにつれ、市街地に通じる幹線道路整備が急務となっていました。
昭和40年6月から紫原橋の建設が始まりました。
橋は国鉄南鹿児島駅付近の国道225号線と団地を結び、昭和42年に完成しました。
また、唐湊と鹿児島大学方面を結ぶための唐湊陸橋が昭和44年に完成しています。

■ ますます深刻になる住宅不足
昭和40年頃になると、鹿児島市の住宅不足は増々深刻となり、約1万戸の住宅が不足していました。
宅地の少ない鹿児島市、地価の上昇率は九州一であったそうです。
鹿児島県と鹿児島市、旧谷山市は、市街地背後の丘陵地を造成した大型団地を計画しました。
鹿児島市住宅公社は武岡団地を造成、鹿児島開発事業団は大明丘・天神山・城山・伊敷・玉里・慈眼寺・星ヶ峯と次々に開発していきました。
鹿児島県住宅供給公社は、原良団地や地方都市の団地開発を行っていきました。

【 宅造災害 】
原良や城山の団地開発が本格化した昭和44年6月30日、集中豪雨によって土砂が流出して附近の住家に大きな被害を出してしまいました。
鹿児島地方は6月28日から雨模様。翌日には日雨量251.9ミリの大雨。
30日朝には土砂降りとなり、午前6時〜8時までの時間雨量は98ミリの局地的豪雨となりました。

雨水は物すごい流れとなって土砂を流し始め、泥水は原良町の“かけごし”付近まで達しました。
住宅地は軽石交じりの土砂で埋まったそうです。
この土砂災害で、原良、小野町の被害は全壊1戸、半壊11戸、床上浸水40戸、床下浸水300戸にも達しました。
造成地は、シラスが2,3メートルほど浸食され、まるで峡谷のようであったそうです。
この災害で、雨量強度の捉え方がより厳しくなり、宅地造成工事の抜本的な見直しがなされました。
それでも、昭和51年には宇宿や唐湊で死者がでるほどの土砂崩れが発生するなどの被害が発生してしまいました。

■ 土地神話と建築費の高騰
高度成長とともに、鹿児島市の人口は年間1万人〜1万2千人も増加。
昭和44年12月には、40万人を超え、明らかな一点集中となっていました。
それに伴って、マイホーム熱もさらに高まっていきました。

田中角栄内閣の列島改造論によって、企業は土地を買占め、庶民の宅地需要の高さもあって、土地価格は異常に上昇していきました。
昭和48年4月の地価は、全国平均で30.9lも上昇、「土地は儲かる」という土地神話が誕生したのでした。
鹿児島開発事業団は昭和48年2月、玉里団地の第5回分譲をしたところ、申込者が殺到したのでした。最高141倍、最低でも5倍。平均23倍という競争率であったそうです。
また、県住宅供給公社が同年3月に売り出した原良・緑ヶ丘など4団地138筆には、約6500人もの申し込み者が押し掛けたそうです。

昭和49年10月、オイルショックが起こると、地価だけでなく木材、セメント、ビニール管などの建築資材価格が急騰。
そこに大工さん不足もあって人件費が高騰し、マイホーム建設に冷水を浴びせるものとなりました。
それでも家を持ちたいという庶民の欲求は、無くなることはなかったようです。

鹿児島市の団地造成は、それまでの都市の様相を大きく変えたのでした。
そして鹿児島市周辺部では緑が失われ、自然破壊を憂える人もあるようです。
自然破壊で山の保水力が低下し、雨水はそのまま川へ流れ込み、氾濫を引き起こす要因となっているのかもしれません。
posted by ぶらかご.com at 23:58| Comment(2) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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