2014年09月15日

鹿児島市を襲った、昭和61年7月10日のゲリラ豪雨

■ 昭和61年7月頃の新聞記事
昭和61年7月1日の南日本新聞によると、「円、163円台に高騰」という見出しと共に、米経済の停滞懸念、1ヶ月半ぶり、ドル売りが殺到という記事を掲載しています。
円とドルの為替レートは160円台の頃で、円高は深刻な問題となりつつあったようです。
記事によると、「米国の貿易赤字増大や日本の経常収支黒字幅が依然高水準なことから、日米関係の悪化を懸念してドル売りが殺到、円相場は5月15日以来一ヶ月半ぶりに163円台に入った。」

また、この年はメキシコでサッカーのワールドカップが開催されていました。
決勝ではアルゼンチンと西ドイツが対戦し、3−2でアルゼンチンが優勝しています。
MVPはマラドーナ、「マラドーナのための大会」を締めくくるにふさわしいフィナーレだったと南日本新聞の記事は伝えています

この年の夏には衆参同日選挙も行われており、7月1日付『南風録』に「過熱しているのは陣営ばかりで、有権者は意外に冷めた目で見ている」「支持政党なしの無党派層が、今回は大幅に増えている」と伝えています。
7月10日、鹿児島市は局地的なゲリラ豪雨に見舞われたのでした。

■ 昭和61年7月10日、空の異変
九州南部は、亜熱帯高気圧周辺部から温暖な気流の流れ込みが続き、大気が不安定な状態になっていました。
10日早朝、雨雲は鹿児島県本土周辺の海上に散在していましたが、陸上では観測されず九州南部は晴れていました。

午前9時頃から海上にあった雨雲が陸上に移動し始め、鹿児島市周辺には高さ4キロメートル前後の雲が観測されていました。
その後、鹿児島市上空で雷雲がまとまるとともに、急速に発達、午前10時30分には高さ8〜11キロメートルに達していました。

この雷雲は夕方ごろまで鹿児島市上空に停滞しました。
鹿児島地方気象台では午前10時25分から23時10分の間に、192.5ミリの雨量を観測。
最大1時間降水量は、15時10分から16時10分までに75ミリを記録。
その他、国鉄武町観測所では、日雨量302ミリ(午前10時30分〜18時まで)、1時間雨量114ミリ(15時20分〜16時20分)の雨量を観測したそうです。

このゲリラ的な豪雨の最大の特徴は、鹿児島市だけに豪雨をもたらしたことでした。
鹿児島市以外の地域で、大雨は殆ど降らなかったそうです。

■ 豪雨による被害状況の時系列
この日の大雨は、局地性が極めて強く、短時間に多量の降水量を観測。
被災地も鹿児島市中央部の急傾斜地や山際の危険地域で、災害が発生しました。

12時50分 大雨洪水雷雨波浪注意報発令
13時46分 田上町で「道路冠水、敷地内に流入」の通報を皮切りに通報が相次ぐ。
13時50分 大雨洪水警報に切り替え
15時00分 消防局への通報、1時間に72本(15時〜16時)に達し、合計279本の通報があった
15時15分 郡元町唐湊、カクイわた前の新川が氾濫、住民に避難命令。
      新川の氾濫によって、住宅地は深い所で腰のあたりまで水に浸かる。
      同時刻、市内42両の全消防車、救急車が出動。ガケ崩れの通報が頻繁に入る。
15時57分 長田町城ヶ谷でガケ崩れ、5人生埋め2人死亡、3人救出。
      生後8ヶ月の男の子は、5時間後に救出。
16時10分 上竜尾町常安団地バス停付近で、高さ80m・幅50mにわたるガケが崩れ、5人が生き埋めとなり全員死亡。
16時15分 平之町城山観光ホテルビアガーデン下一帯の住民に避難命令。
      同時刻、市水防本部設置。
16時20分 1時間雨量74.5ミリを記録。
16時27分 平之町三育保育園裏でガケ崩れ、家屋倒壊。
16時30分 新照院町前の谷で3人生埋め、2人死亡・1人救出。
      武2丁目、武岡荘附近でガケ崩れ、1人生埋め・死亡。市災害対策本部設置。
17時40分 平之町三育保育園裏で再びガケ崩れ。6人生埋め、5人死亡・1人救出。
18時20分 西別府町海江田団地でガケ崩れ。5人生埋め、全員救出(1人重傷)。
18時26分 田上1丁目でガケ崩れ。1人生埋め・死亡。
20時30分 吉野町三船でガケ崩れ。3人生埋め、2人死亡・1人救出
22時00分 自衛隊の出動要請

■ 被害状況
鹿児島市内では午前10時半ごろから雨が降り出し、1時間降水量が46ミリ(12時40分〜13時40分)を記録した頃より床下浸水や道路冠水などの被害が発生し始めました。
14時半頃には、小さなガケ崩れも起き始めていました。
1時間降水量が50ミリを超えた(14時40分〜15時40分に57ミリ)頃から小河川が氾濫し、人的被害を含む大きなガケ崩れが次々に発生しました。
1時間降水量が75ミリ(15時10分〜16時10分)を記録した頃が災害のピークであったようです。

雨が降り止んだ17時過ぎに3件の大きなガケ崩れが発生。とくに吉野町三船の場合は、雨が降り止んだ3時間後に発生しています。

この大雨による死者は18人、重傷者5人、軽傷者10人。
また、住家全壊66棟・半壊28棟、床上浸水263棟・床下浸水694棟にものぼりました。

【 川と化した町通り 】
この大雨では甲突川が氾濫することはありませんでしたが、濁流によって通りという通りは川と化し、商店街や飲食店などは軒並み水びたしになったそうです。
朝日通りや天神馬場、文化通り、山之口本通、二官橋通り一帯などの繁華街では、深い所で膝上まで達しました。
軽石や木切れが濁流とともに流れてきたため、通行人は逃げ惑ったそうです。

昭和61年7月12日付南日本新聞19面には、「川と化したアーケード街。急造の橋が架けられた」と題する記事が写真と共に掲載されています。
写真は10日の午後4時20分頃、中町のアーケードを撮影したものです。
記事では“急造の橋”と記載していますが、よく見ると、いくつも並べられた長椅子の上を人々は歩いています。

■ 7月12日付南日本新聞社説
「シラス災害まざまざと」と題した社説に、当時の鹿児島市の都市開発のあり方と防災意識を高めようとする記事を掲載しています。

「県内では高度経済成長とともに鹿児島市への人口集中が始まり、いま総人口の3分の1が集まっている。旧市街地だけでは膨れる人口を九州できないので、周辺の丘陵地や郊外を造成して住宅を建ててきた。また地価が高いなどの理由からガケ下に住んでいる人も多く、市内の急傾斜地崩壊危険区域は300ヶ所以上にも及ぶ。」

「一連の開発で浮き彫りになったのは、災害にもろい都市の姿である。市周辺部の造成地では樹木を切り払い道路を舗装したため、降った雨は地下に浸透する割合が少なく、低い市街地へどっと流れていく。
今回の集中豪雨では、またたく間に市街地は水に浸かった。一時的に雨が多く降ったことのほか、周辺部から流入したことも大きい。さらには桜島の降灰などで肝心の側溝がつまっていて、水はけを悪くしたことも災いしたといえるだろう。」

「市内の幹線道路では増水で車が通れず、運転不能になった車が路上に放置されるなど、一時は交通がマヒ状態だった。ビルの地下で浸水したところがあったのも、水害にもろい都市の断面と言える。行政や商店街などは、今回の教訓を生かして集中豪雨に強い街づくりに努力してもらいたい。ガケ下などの一斉点検だけにとどまらず、市街地の防災もこの際、見直す好機である。」

「シラス土壌の多い鹿児島は、県全体が国の“特殊土壌災害地帯”に指定されている。これはシラスの性質に基づくもので、豪雨になれば山やガケ崩れが起きる危険度が極めて高いといことだ。言い換えれば、県民は常に災害の危険と隣り合わせに暮らしていることになる。
それだけに、防災への認識を怠ってはならない。
鹿児島では気象災害の大部分は、台風と前線活動によって占められている。つまり県民にとって、台風と集中豪雨の二つが最も要注意ということになる。
一般に台風に比べて豪雨に対する備えはおろそかにされがちであるだけに、今後は行政も豪雨対策に力を入れるべきだ」

■ その他の関連記事
以前、「危ないと気付きながら災害に遭う悲しさ」という記事を書きましたが、昭和61年7月10日の豪雨災害でも、九年前と同じことが起こっていました。
7月12日付南日本新聞20面によると、死者の出たガケ崩れ7ヶ所のうち、同危険区域や市の風水害危険個所に指定されていたのは2ヶ所だけであったそうです。
「指定しても防災の予算が追い付かない」(鹿児島市)
「いろいろ制約を受けるため、指定を拒む住民が多い」(鹿児島県)

危険個所指定によって土地の評価が下がることを危惧する地主さん、予算の問題を抱えた行政。
この辺の問題をクリアしない限り、悲劇は繰り返すのかもしれません。

当時、甲突川にかかる五石橋を撤去しようという声が上がっていたそうです。
「豪雨時には、洪水の危険があるから撤去すべし」というものであったらしい。
7月10日の豪雨では甲突川の氾濫は起こらず、石橋撤去論の根拠に疑問を抱かせる結果にもなったそうです。
また、7月15日付南日本新聞によると、昭和天皇・皇后両陛下が鹿児島県に見舞金を贈られたそうです。
posted by ぶらかご.com at 19:04| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。