2014年09月30日

実方太鼓橋と五石橋

■ 実方太鼓橋
平成5年6月25日付南日本新聞5面に、「実方太鼓橋は大丈夫なのか」と題する投書が掲載されていました。
送り主は郷土史家の方で、実方太鼓橋の文化的価値を見出していたからこその投書であったと思われます。

「先日、実方太鼓橋近くに住む老人から電話があった。
実方太鼓橋のすぐ近くの右岸に団地が造成されることになり、近々工事が始まるということを工事担当の会社からの挨拶で知らされたらしい。
すぐ市役所・県庁を訪れ、不安を訴えたが、どちらも“うちじゃない”と言ってたらい回しにされ、鹿児島土木事務所の開発指導課にたどりついたとのこと。

お役所仕事の机上計算で開発許可が出されていたようであり、また無責任な対応だったので、相談に乗り力を貸してほしいとのことだった。
生まれてから七十数年、実方太鼓橋の傍で暮らしてこられた古老の経験にもとづく直観的な不安を聞いて、これは一大事だと思った。
文化財保護行政は、またしても後手を引いた形になった。鹿児島県最古の石橋の保存とd木川の治水の万全を関係当局にお願いしたい。
しばらくは推移を見守り、誠意のないときはとことんまでキャンペーンを展開することにしよう。」

この郷土史家の危惧は、8月6日の水害によって現実のものとなってしまいました。

●8月8日付南日本新聞21面「県内最古、市民散策の場 実方太鼓橋流出
「鹿児島市の稲荷川に架かり、同市の文化財にも指定されている県内の石橋で最も古いといわれる同市坂元町と吉野町を結ぶ“実方太鼓橋”が6日夜の集中豪雨による激流で流され、跡形もなく消失した。
同橋は日本最初のめがね橋で知られる長崎市の眼鏡橋(1634年建造)と同時代の寛永年間(1624〜1643)に架けられたといわれる。

アーチの直径は約7.3m、幅員は約3.8m。
当時は鹿児島城下と重富方面を結ぶ重要な道路に架けられた橋だった。今では史跡としてだけでなく、市民の散策の場になっていた。
橋のたもとに住む堀之内豊さんは、“6日午後7時半頃、自宅1階の屋根に届く激流に洗われ、あっという間になくなってしまった。由緒ある橋を惜しいことをした”と残念がっていた。」

長崎の眼鏡橋は昭和35年に重要文化財に指定され、その後の大洪水で流失してしまいました。しかし、市民の力によって見事に復元されたそうです。
実方太鼓橋の方は、甲突五石橋より見劣りしたためか、復元するという話は盛り上がらなかったようです。
鹿児島の場合も、他県のように古いものへの対応を考え直さないといけないかもしれません。

■ 甲突川五石橋と八・六水害
甲突川には五つの石橋が架かり、世が平成となっても、車や人が日常的に使っていました。
平成5年8月6日の水害によって、武之橋と新上橋は流出してしまいました。

『かごしま20世紀山河をこえて 下巻』に、武之橋流出の状況が掲載されています。

「鹿児島市の甲突川。下流に架かる石橋・武之橋に濁流が押し寄せる。水位は3mほどに上昇。ドッスン、ドッスンと不気味な音を立てて流木やドラム缶が橋脚にぶつかる。
そのたびに水位計の監視と水量の現状把握のために橋上にいた八幡消防分団長の石原克己の足元が揺れる。危険を察知した石原は、市電の通る大橋に急いで移動した。

大橋から注視すると、橋の石組みの継ぎ目から泥水が噴出している。はじめて見る光景だ。その直後、橋の中央部のアーチが1mほど膨らんだかと思うと、石組みが崩れ、石がバラバラになって空中に噴出した。“それはまるで機銃掃射のような音を立てて落ち、濁流にのまれていった」

平成5年8月6日、午後8時11分のことであったそうです。まもなく、新上橋も崩壊。
五石橋は、玉江橋・西田橋・高麗橋の3つになっていました。

■ 石橋撤去
当時、石橋撤去を望む市民のインタビューに、「石橋があったから川が氾濫した」と言っていたかと思います。
かなりの違和感を持って、そのニュースを見ていたことを覚えています。

さて、石橋の撤去・保存という問題は、昭和40年代後半あたりから大きく論議されるようになっていたそうです。都市政策や治水対策からすれば、文化的価値を有する石橋の存在は、頭痛の種でありました。
しかし八・六水害後、県が出した石橋撤去という方針は、異例ともいうべき早さであったそうです。
当時の様子が、『かごしま20世紀山河をこえて 下巻』に詳しく書かれています。

「災害二日後の記者会見で、土屋佳照県知事は、五石橋の移設を前提にした激特(河川激甚災害対策特別緊急事業)による河川改修の方針を示唆する。街中でまだ災害復旧作業で大混乱している最中の早業だ。県議会の連合審査も激特導入の県方針を了承、鹿児島市も県に追随する。

今度の災害で甲突川の流下能力は毎秒300トンなのに、700トンの水が押し寄せ、氾濫した。川床を2m掘り下げて700トンの流量にも耐えるように、5年間の激特(約268億円)で河川改修する。そのため石橋撤去はやむなし。というのが県の考え。激特は2週間以内に申請しなければならなかった。」

これを知った現地保存を望む人々は、「災害発生のメカニズムや甲突川の流量調査もはっきりさせぬうちに、石橋の取り扱いを口にするのは不謹慎」として一斉に反発しました。

県の担当者の弁
「甲突川の問題は災害以前から色々検討を重ねていた。例えば、上流の花野口から吉野町花倉までの約7qで毎秒300トンを流す放水路も検討した。これだと約500億円。完成までに30年もかかる。今回は災害復旧の緊急事態、同じ災害を二度と繰り返さないために、一刻も早く復旧を終えねばならない。石橋は貴重な文化財と理解しているが、現地保存すれば今後、残った石橋が流出する恐れもある。移設して保存するのも文化財保護の一つの選択だ。なにしろ時間とカネがない。激特を導入せざるを得なかった。」

■ 県民投票要求も否決
県の移設方針によって、鹿児島市は平成6年4月15日、玉江橋の撤去を開始しました。
撤去は5月18日に完了。
市民グループは、「高麗橋の撤去前に、その是非を市民投票で決めよう」と、市民投票条例制定要求の署名運動を始めました。

平成7年1月13日には、高麗橋解体は始められていましたが、市民の関心は高く、法定有効数の3倍、24000人の署名を集め、平成7年3月本請求を起こしました。
しかし、市議会で否決。

市民グループの人たちは、西田橋を残そうと動き始めました。
治水と石橋県民投票の会が、西田橋県民条例制定の署名運動を開始、最終的に44000人の署名を集めることができたのでした。
平成7年10月20日、西田橋県民投票条例を本請求しましたが、翌月10日の県議会であっけなく否決されてしまいました。

平成8年2月21日西田橋の解体は始まり、翌年1月10日に作業は終了しました。
解体された西田橋・高麗橋・玉江橋は、旧営林署跡地と祇園之洲に復元されることになりました。
平成12年、石橋記念館とともに石橋記念公園として一般公開されることになったのでした。

甲突川五石橋撤去については『かごしま20世紀 山河こえて 下巻』に記載されています。詳しく知りたい方は、ご覧になってみてください。
posted by ぶらかご.com at 23:44| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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