2014年10月20日

天災と国防

「非常時」という言葉が使われていた昭和戦前期、東京帝国大学物理学博士であった寺田寅彦が、『天災と国防』と題する随筆を著しています。
この随筆は昭和9年に書かれたものですが、現代と似たところがあるかもしれません。
今でも十分な示唆を与えてくれる随筆と思いましたので、今回は、「天災と国防」について触れてみました。
全文を掲載しているサイトもあるようですから、ご覧になってみてください。

『天災と国防』が書かれた頃の日本は、満州事変をへて国際的孤立を深めつつありました。
当時、外交上の難問を抱えていたところに、自然災害も次々と発生していました。
そうして巷では、”非常時”という言葉が日常的に使われるようになっていました。
当時の状況を著書は、次のように記しています。

「非常時というなんとなく不気味な、しかしはっきりした意味の分かりにくい言葉が流行り出したのはいつごろからであったか思い出せないが、ただ近来何かしら日本全国土の安寧を脅かす黒雲のようなものが遠い水平線の向こう側からこっそりのぞいているらしいという、言わばとりとめのない悪夢のような不安の陰影が国民全体の意識の底層に揺曳していることは事実である。
そうして、その不安の渦巻の回転する中心点はと言えばやはり近き将来に期待される国際的折衝の難関であることはもちろんである。」

「そういう不安をさらにあおり立てでもするように、ことしになってからいろいろの転変地異がくびすを次いでわが国土を襲い、そうしておびただしい人命と財産を奪ったようにみえる。(中略)。
国際的のいわゆる非常時は、少なくも現在においては、無形な実証のないものであるが、これらの天変地異の非常時は、最も具象的な眼前の事実として暴露しているのである。」

※「くびすを次いで」=次から次と

「日本は、地理的位置が極めて特殊であるために国際的にも特殊な関係が生じ、いろいろな仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同様に、気象学的地球物理学的にもまたきわめて特殊な環境の支配を受けているために、その結果として特殊な転変地異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれていることを一日も忘れてはならないはずである。」

■ 忘れられがちな重大な要項
まず、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害が、その激烈の度を増すという事実である。
文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するような色々の造営物を作った。そうしてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然が暴れ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。
その災禍を起こさせたもとの起こりは、天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。
いや上にも災害を大きくするように努力しているものは、たれあろう文明人そのものなのである。」

「20世紀の現代では、日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプが縦横に交差し、いろいろな交通網が隙間もなく張り渡されている有様は、高等動物の神経や血管と同様である。
その神経や血管の一か所に故障が起これば、その影響はたちまち全体に波及するであろう。」

※平成5年8月6日に発生した水害で、道路の寸断・浄水場の停止などによって鹿児島市街地の住民は大変な苦労を強いられました。
水と食糧の不足は、市民たちの大きな悩みの種であったようです。
水害後、汚泥の処理や消毒といった衛生面のことも考慮しなければなりませんでした。

「文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。その主なる原因は、結局そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆(てんぷく)を忘れた頃に、そろそろ後車を引き出すようになるからであろう。
しかし、昔の人間は、過去の経験を大切に保存し蓄積して、その教えに頼ることがはなはだ忠実であった。」

■ 旧村落と自然淘汰
作者は関東大震災後の地方都市や台風通過後の信州を訪れ、古くからの集落を見て次のように感じたようです。

「大震後、横浜から鎌倉へかけて被害の状況を見学に行ったとき、かの地方の丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどく滅茶苦茶に破壊されているのを見たときにつくづく、そういう事を考えさせられたのであったが、今度の関西の風害でも、古い神社仏閣などは存外あまり傷まないのに、時の試練を経ない新様式の学校や工場が無残に倒壊してしまったという話を聞いて、いっそうその感を深くしている次第である。
やはり文明の力を買いかぶって自然を侮り過ぎた結果から、そういうことになったのではないかと想像される。
要するに、時の試練を経ない造営物が今度の試練でみごとに落第したと見ることはできるであろう。」

「今度の大阪や高知県東部の災害は台風による高潮のために、その惨禍を倍加したようである。最もひどい損害を受けた主な区域はおそらく、やはり明治以後になってから急激に発展した新市街地ではないかと想像される。」

「古い民家の集落の分布は一見偶然のようであっても、多くの場合にそうした進化論的の意義があるからである。その大事な深い意義が、浅薄な“教科書学問”の横行のために蹂躙され忘却されてしまった。
そうして付け焼刃の文明に陶酔した人間は、もうすっかり天然の支配に成功したとのみ思い上がって所きらわず薄弱な家を立て連ね、そうして枕を高くしてきたるべき審判の日をうかうかとまっていたのではないかという疑いも起こし得られる。

旧村落は自然淘汰という時の試練に堪えた場所に“適者”として“生存”しているのに反して、停車場というものの位置は気象的条件などということは全然無視して、官僚的政治的経済的な立場からのみ割り出して決定あれているためではないかと思われるからである。」

鹿児島にあっても同様で、腰までつかるほどの沼地であったところに停車場がつくられ、田んぼであったところは、住宅が密集していきました。

■ 複雑化する都市
「戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないだろうが、天災ばかりは科学の力でもおの襲来を中止させるわけにはいかない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水が来るか、今のところ容易に予知することができない。最後通牒も何もなしに突然襲来するのである。それだから、国家を脅かす敵としてはこれほど恐ろしい敵はないはずである。」

「たとえば安政元年の大震のような大規模なものが襲来すれば、東京から福岡に至るまでのあらゆる大小都市の重要な文化設備が一時に脅かされ、西半日本の神経系統と循環系統に相当ひどい故障が起こって有機体としての一国の生活機能に著しい麻痺症状を惹起する恐れがある。
万一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば市民がたちまち日々の飲用水に困るばかりでなく、氾濫する大量の流水の勢力は少なくも数村を微塵になぎ倒し、多数の犠牲者を出すであろう。水電の堰堤が破れても同様な犠牲を生じるばかりか、都市は暗闇になり肝心な動力網の源が一度に涸れてしまうことになる。

次に起こる安政地震には、事情が全然違うということを忘れてはならない。」

■ 専門家の警告
「わが国の地震学者や気象学者は、従来かかる国難を予想してしばしば当局と国民とに警告を与えたはずであるが、当局は目前の政務に追われ、国民はその日の生活にせわしくて、そうした忠言に耳をかす暇がなかったように見える。誠に遺憾なことである。」

NHKで「巨大災害」というシリーズ番組を放送していましたが、異常気象・台風の大型化・巨大地震・火山噴火など発生頻度が高くなっているようです。
これらの災害が発生すれば、複雑化した都市生活に多大な影響を及ぼすかもしれません。
天災を止めることはできませんが、災害を減らすことはできるかもしれません。
政治的・経済的ジレンマもあるでしょうが、行政を担っている人々は、専門家の警告に耳を傾け減災の手立てを考えて欲しいものです。
「危ないと知りながら、災害に遭う悲しさ」を避けるためにも。
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2014年10月16日

昭和9年の大旱魃

■ 昭和9年
満州事変を経て、国際的孤立を深めつつあった昭和9年の日本。
日本には外交上の難問と共に、自然災害が次から次と襲い掛かっていました。
そんなか、『天災と国防 (講談社学術文庫)』という随筆が書かれていました。
作者は寺田寅彦、東京帝国大学の理学博士でした。
寺田は夏目漱石の門下として、俳句や科学をテーマとした随筆を多数残しています。
また、『吾輩は猫である』の水島寒月、『三四郎』の野々宮宗八のモデルとも言われている人物です。

■ 昭和9年頃の鹿児島
『鹿児島県災異誌』によると、昭和9年7月から8月、鹿児島には大干ばつが発生していました。
北太平洋高気圧が異常なまでに強く、7月26日〜8月25日までの31日間、わずか11.7oの雨が降ったに過ぎませんでした。

未曽有の大干害は、県本土・熊毛・大島地方で甚だしいものがありました。
農作物の生産は大幅に減少、サツマイモ8割、陸稲9割、水稲で5割も落としてしまいました。
干害は農作物だけでなく、飲料水にも困り、果ては電力事情も悪化したそうです。
干害の惨状は、予想以上で社会的にも深刻な様相を表していました。
2,3の郷土誌に当たってみました。

【 谷山市誌より 】
「昭和9年陸稲収穫皆無、水稲大減収」
昭和9年は大旱魃に見舞われた年であった。だいたい鹿児島地方では台風豪雨や集中豪雨による被害が多く、日照りの年は大豊作といわれるものであった。
この昭和9年の大旱魃は、水稲の植付前に降雨が少しもなく、一部の水田を除いてはまったく植付ができなかった。

とくに山田・中・西上福・中央・東上福などの上田(じょうでん)地帯は、用水の極端な不足によって植え付けが不可能となってしまいました。
集落の人々は、水神祭りや神社・寺などで雨乞いをしたが、雨はついに降らなかった。
やむなく陸田に棒をつきさして、一株・一株の苗植えを試みたが、これも直ちに枯死した。

また、この旱魃では竹藪も葉が赤くなるという有様で、いかに日照りが続いたかわかる。
農家は畑作に精出したが、これもうまくいきませんでした。
その年から翌年にかけて、町民は食糧難に陥り大いに困った。
そのときの大旱魃と苦境を忘れず、後世に伝えるため、山田部落などに記念碑が建てられたそうです。

【 喜入町郷土誌 】
喜入町郷土誌に、次のように記されています。
昭和の初期、大旱魃が続き田植えができないことがあった。
昭和14年から15年にも旱魃が続き、農民の生活はますます困窮した。
そこで仮屋崎集落では、日照りに左右されず稲作ができるよう八幡川上流の四郎木場からトンネルを掘り、用水路を引く大工事を集落の総意で決定しました。
昭和18年から、3年かけて用水路を完成させたのでした。
この工事は、とてつもない難工事であったそうです。

用水路ができたことによって、“ウトンタンボ”と呼ばれる豊かな水田が広がりました。
そのときの苦労をしのぶため、昭和57年、集落の婦人部では田植えから収穫までの農作業を「早乙女踊り」として完成させました。
そうして、「早乙女踊り」を保存・伝承するため、保存会が結成されたそうです。

【 鹿児島市の場合 】
戦前の鹿児島市にも、永吉町から原良、上荒田周辺には広大な田んぼが広がっていました。
永吉と原良の田んぼは、石井出用水のおかげで水に困ることはなかったと言われています。
石井出用水は、上流から小舟が物資輸送に使えるほどの水量があったそうです。

藩政時代の石井出用水は、伊敷から永吉・原良・西田・荒田方面にわたる広大な田んぼに水を供給していました。
そのため、用水が止まることは農家にとって死活問題でした。
当時、島津氏が経営する田中宇都の精米用水車館、永吉の紡績館も石井出用水を利用していました。
農家の人たちは、用水が不足するときは水車を止めるという証文を島津氏と取り交わしていたそうです。
石井出用水は、それほどまでに重要な用水路でありました。

昭9年の旱魃で石井出用水は枯れ、水不足が発生してしまいました。
原良の田んぼは枯死寸前となり、水争いさえ起きるほどであったそうです。
農民代表は再三、県当局と交渉しましたが申し入れを聞き入れませんでした。
水車利用の証文の写しを持って県と交渉すると、すぐに水車を止めることが出来たのでした。

水車を止めてから末端の田んぼに用水が行きわたるまで、まる一日かかったそうです。
勢いよく流れ出す水を見て、農家の人たちは焼酎を酌み交わしながら「万歳!」を叫んだということです。
鹿児島県の多くの地域が旱魃で不作に陥りましたが、石井出用水の恩恵を受けた田んぼは豊作であったそうです。
この用水、今では務めを終え、何処を流れていたかさえ分からなくなってしまいました。
昭和9年の旱魃について、旧谷山市・旧喜入町・鹿児島市を取り上げました。
おそらく各地の郷土誌にも掲載されていると思われますので、ご覧になってみてください。

戦前の日本には軍事上の敵だけでなく、自然災害という対処しようのないものが襲い掛かっていました。
寺田寅彦は、それらのことを踏まえて『天災と国防 (講談社学術文庫)』という随筆を書いているようです。
次回は、『天災と国防』について触れてみます。
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2014年10月12日

平成5年9月20日の地滑り 旧日吉町毘沙門

■ 旧日吉町毘沙門
平成5年9月20日午後8時頃、日置郡日吉町毘沙門で大規模なガケ崩れが発生しました。
2世帯5人が生き埋めとなり、3人は救助されましたが2人が帰らぬ人となってしまいました。
崩れた土砂は2棟の民家を飲み込み、町道を超えて大川まで達していたそうです。

毘沙門地区のガケ崩れは、これまでの災害発生状況と大きく異なっていました。
というのも、当時、梅雨前線が九州南岸で停滞していましたが、日吉町付近の降水量は2,3o程度でありました。
また午前中、小雨がぱらついた程度で、役場の観測では6oであったそうです。
そのため警報は発令されていませんでした。

これまでの長雨と戦後最大級の台風といわれた9月2日の13号のもたらした雨で、山はたっぷり水を含んでいたようです。
鹿児島大学理学部地学科のホームページによると、毘沙門の花崗岩は深い層の所まで風化が進み、砂質の真砂土になっていたことが原因であったようです。
風化した花こう岩は脆く、叩けばすぐ崩れてバラバラになるそうです。

今年、広島市で起きた土砂災害も、風化が進んだ崩れやすい花崗岩によって形成された“マサ土”の地質が広がっているそうです。

■ 災害に関する地名 
地名は、古の人々がその土地に相応しい名前を名付けたものだそうです。
その名前を言えば、同じ共同体に住む者たちは、すぐにわかるものでありました。
地名には、その土地の性質や地形、災害などを意味しているものもあるようです。
地名のなかには、時代の変遷とともに名前を変えられてしまったものも少なくありません。
今年、広島県で発生した土砂災害の被害を受けた地区もそうでした。
地名学という分野で地名研究を行っているようですが、日本では学問分野として確立されていないそうです。そういう意味では、素人でも入って行きやすい分野かもしれません。

【 ビシャ・ビシャモン 】
鹿児島大学理学部地学科のホームページに、毘沙門の地名に関する記事が掲載されていました。
ビシャは、一般にミサゴと呼ばれる鳥のこと。魚を捕えるため海にビシャンと突っ込むさまと、山腹が滑り落ちるさまを表したものだそうです。また、毘沙門信仰との関係から“土地の神”を鎮める意味もあるとのことです。

【 ヘ ビ(蛇)・竜 】
『角川日本地名大辞典』によると、「蛇(じゃ)」という名は、土砂の流出や体積を表しているそうです。
また、水の流れや土石流が流れる様子を、蛇がのたうち回る様を例えたものだそうです。
蛇池(じゃいけ)・蛇崩(じゃくずれ)・蛇喰(じゃばみ)など。

先月のNNNドキュメントによると、今年広島市安佐南区八木地区を襲った土砂災害、かつてこの地は、「蛇落地悪谷(じゃらくじあしだに)」と呼ばれていたそうです。
八木蛇落地悪谷と呼ばれていた地名が、いつしか「上楽地(じょうらくじ)」となり、「八木上落地芦谷(やぎじょうらくじあしや)と言うようになったそうです。
今では「八木」という名前だけが残されてしまいました。

八木地区にある「浄楽寺」の言い伝えによると、「むかし、竜が住んでいたそうです。あるとき、竜の首をはねると何処かへ飛んで行きました。首が落ちたところを蛇落地と呼ぶようになったそうです。」
蛇落地の名は、鉄砲水や土砂崩れなどを経験した古の人々が、危険な所という意味で名付けたもののようです。

鹿児島でも竜に関する民話は多いのですが、筆者はまだ自然災害に関するものに出会っていません。竜がお坊さんから功徳を得る話が多いようです。
雨と嵐をともなったものとおもわれる話を下に書きだしてみました。
竜の化身(旧祁答院町)
皇徳寺の池 大蛇の話(鹿児島市谷山)

【 ヒ ラ(平) 】
急傾斜地やガケ地を表し、古事記に出てくる「ひらさか」は坂道や滑りやすい土地をいうそうです。
国土交通省中国地方整備局太田川河川事務所のサイトによると、「ヒラ」は昔「ピラ」と発音され、「平」の字があてられていたそうです。平野などを連想しそうですが、そうではなく、ある地点が崩壊する意味で使われるそうです。
鹿児島市平之町の「平」も、崩れるという意味になりそうです。
昭和61年7月10日の豪雨で、平之町にある山のガケが崩れて死亡者を出してしまいました。


学問として確立していないにかかわらず、地名に関する本は結構出版されているようです。
最寄りの図書館に蔵書があるかもしれません。参考にしてみてください。
この地名が危ない (幻冬舎新書)』幻冬舎
地名は災害を警告する ~由来を知り わが身を守る (tanQブックス)』(tanQブックス)
地名は警告する―日本の災害と地名』(谷川健一)
日本の地名 (岩波新書)』(谷川健一・岩波新書)など。
posted by ぶらかご.com at 18:25| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする