2014年10月16日

昭和9年の大旱魃

■ 昭和9年
満州事変を経て、国際的孤立を深めつつあった昭和9年の日本。
日本には外交上の難問と共に、自然災害が次から次と襲い掛かっていました。
そんなか、『天災と国防 (講談社学術文庫)』という随筆が書かれていました。
作者は寺田寅彦、東京帝国大学の理学博士でした。
寺田は夏目漱石の門下として、俳句や科学をテーマとした随筆を多数残しています。
また、『吾輩は猫である』の水島寒月、『三四郎』の野々宮宗八のモデルとも言われている人物です。

■ 昭和9年頃の鹿児島
『鹿児島県災異誌』によると、昭和9年7月から8月、鹿児島には大干ばつが発生していました。
北太平洋高気圧が異常なまでに強く、7月26日〜8月25日までの31日間、わずか11.7oの雨が降ったに過ぎませんでした。

未曽有の大干害は、県本土・熊毛・大島地方で甚だしいものがありました。
農作物の生産は大幅に減少、サツマイモ8割、陸稲9割、水稲で5割も落としてしまいました。
干害は農作物だけでなく、飲料水にも困り、果ては電力事情も悪化したそうです。
干害の惨状は、予想以上で社会的にも深刻な様相を表していました。
2,3の郷土誌に当たってみました。

【 谷山市誌より 】
「昭和9年陸稲収穫皆無、水稲大減収」
昭和9年は大旱魃に見舞われた年であった。だいたい鹿児島地方では台風豪雨や集中豪雨による被害が多く、日照りの年は大豊作といわれるものであった。
この昭和9年の大旱魃は、水稲の植付前に降雨が少しもなく、一部の水田を除いてはまったく植付ができなかった。

とくに山田・中・西上福・中央・東上福などの上田(じょうでん)地帯は、用水の極端な不足によって植え付けが不可能となってしまいました。
集落の人々は、水神祭りや神社・寺などで雨乞いをしたが、雨はついに降らなかった。
やむなく陸田に棒をつきさして、一株・一株の苗植えを試みたが、これも直ちに枯死した。

また、この旱魃では竹藪も葉が赤くなるという有様で、いかに日照りが続いたかわかる。
農家は畑作に精出したが、これもうまくいきませんでした。
その年から翌年にかけて、町民は食糧難に陥り大いに困った。
そのときの大旱魃と苦境を忘れず、後世に伝えるため、山田部落などに記念碑が建てられたそうです。

【 喜入町郷土誌 】
喜入町郷土誌に、次のように記されています。
昭和の初期、大旱魃が続き田植えができないことがあった。
昭和14年から15年にも旱魃が続き、農民の生活はますます困窮した。
そこで仮屋崎集落では、日照りに左右されず稲作ができるよう八幡川上流の四郎木場からトンネルを掘り、用水路を引く大工事を集落の総意で決定しました。
昭和18年から、3年かけて用水路を完成させたのでした。
この工事は、とてつもない難工事であったそうです。

用水路ができたことによって、“ウトンタンボ”と呼ばれる豊かな水田が広がりました。
そのときの苦労をしのぶため、昭和57年、集落の婦人部では田植えから収穫までの農作業を「早乙女踊り」として完成させました。
そうして、「早乙女踊り」を保存・伝承するため、保存会が結成されたそうです。

【 鹿児島市の場合 】
戦前の鹿児島市にも、永吉町から原良、上荒田周辺には広大な田んぼが広がっていました。
永吉と原良の田んぼは、石井出用水のおかげで水に困ることはなかったと言われています。
石井出用水は、上流から小舟が物資輸送に使えるほどの水量があったそうです。

藩政時代の石井出用水は、伊敷から永吉・原良・西田・荒田方面にわたる広大な田んぼに水を供給していました。
そのため、用水が止まることは農家にとって死活問題でした。
当時、島津氏が経営する田中宇都の精米用水車館、永吉の紡績館も石井出用水を利用していました。
農家の人たちは、用水が不足するときは水車を止めるという証文を島津氏と取り交わしていたそうです。
石井出用水は、それほどまでに重要な用水路でありました。

昭9年の旱魃で石井出用水は枯れ、水不足が発生してしまいました。
原良の田んぼは枯死寸前となり、水争いさえ起きるほどであったそうです。
農民代表は再三、県当局と交渉しましたが申し入れを聞き入れませんでした。
水車利用の証文の写しを持って県と交渉すると、すぐに水車を止めることが出来たのでした。

水車を止めてから末端の田んぼに用水が行きわたるまで、まる一日かかったそうです。
勢いよく流れ出す水を見て、農家の人たちは焼酎を酌み交わしながら「万歳!」を叫んだということです。
鹿児島県の多くの地域が旱魃で不作に陥りましたが、石井出用水の恩恵を受けた田んぼは豊作であったそうです。
この用水、今では務めを終え、何処を流れていたかさえ分からなくなってしまいました。
昭和9年の旱魃について、旧谷山市・旧喜入町・鹿児島市を取り上げました。
おそらく各地の郷土誌にも掲載されていると思われますので、ご覧になってみてください。

戦前の日本には軍事上の敵だけでなく、自然災害という対処しようのないものが襲い掛かっていました。
寺田寅彦は、それらのことを踏まえて『天災と国防 (講談社学術文庫)』という随筆を書いているようです。
次回は、『天災と国防』について触れてみます。
posted by ぶらかご.com at 23:30| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする