2014年11月29日

明治32年8月14・15日の風水害

明治32年8月14・15日、鹿児島を襲った台風は、強い風と雨をもたらしました。
中心気圧は960mb以下を示し、最大風速49.6m、2日間の降水量89oを記録しました。
鹿児島県本土は台風の進路の右側に当たり、かなり強い風と雨であったと思われます。
鹿児島県全体の被害は、全壊家屋16000戸・船舶流出破損320隻・家屋破損浸水317戸・橋流出14ヶ所にのぼりました。
当時の様子を、『鹿児島市史(大正5年刊)』から見てみます。

鹿児島市史より
8月14・15日の2日間、鹿児島市は未曽有の大暴風に見舞われました。
14日未明から天候は異常を示し、午前9時30分中央気象台は海陸の警戒報を発令しました。
同日の夕方、にわか雨が降った後、東から西に怪しい気配の雲が流れ始めました。
そうして、今にも嵐がやって来そうな雲行きとなりました。

14日午後11時を過ぎた頃になると、東から早い風が起こり、次いで南東からの激しい風が吹き始めました。
15日午前2時頃、風・雨ともに激しくなりました。
風が南寄りに変わると、風は激烈をきわめるようになりました。
午前3時頃、風が西寄りに変わると風力はやや弱くなり、午前4時を過ぎると風は全く収まりました。
古老が言うには「60年来の暴風なり」、というとてつもなく激しい雨風であったようです。
明治32年時点での古老ですから、江戸時代生まれの人になります。

鹿児島市内の被害状況
被害家屋1447戸(全壊916戸・半倒346戸・大破185戸)
被害船舶60隻(全破損46隻・半破損14隻)
死者10余人

この日、西田方面では倒壊家屋のほか、多数の家屋が浸水したそうです。
鹿児島市では14日の夜半から、消防組を出動させ罹災者の救助に着手。
そうして炊き出しや食糧の給与、551戸に小屋掛料を給付しました。
鹿児島測候所は、県庁へ暴風報告を提出。
この台風が、いかに猛烈なものであったかをうかがわせるものになっています。

暴風報告
『13日午前9時30分、中央気象台より海陸の警報至る。曰く「低気圧の位置は琉球北部に在りて745mmを示し、最低気圧所在地、近傍晴雨計、大いに降る。中心は北東に進む。」
と当所の晴雨計は758oを示し、その差13oなりし爾後2時該、中心は九州南西部の沖に移動して750oを示せり。

而して気圧は毎秒約1oあて累降し、風力次第に募り、午後8時より烈風となり、天候ますます険悪を示し、同11時20分台風に達し、爾後晴雨計は1時間10o前後急降し、風勢いよいよ猛烈をきわめ、翌15日午前1時ないし2時に毎秒平均速度70.9mを示し、気圧は同1時40分に723.9oの最低を示せり。

蓋し暴風の中心は当時最近距離を通過せしより、風向は該中心の経過するに従い、烈風7時より強風、午後1時疾風となり、ついに沈静せり。
急激なる気圧の変化は、本邦気象観測以来、稀有の現象にして、風勢の猖獗(激しく暴れる)なりしは石垣島において観測せし外、他にその類を見ざるところなりとす。』

明治32年の台風では、急激な気圧の変化が観測されました。
それは、日本の気象観測史上初であり、珍しい現象であったようです。
また江戸時代生まれの古老によれば、この台風は「60年来の暴風」でもありました。
また当時の鹿児島市内には木造建築の建物が殆どで、現代のものにくらべ弱い構造物であったことでしょう。

倒壊する家屋が多かったと思われますが、このときの台風の最低気圧は960mbをきったというのですから、かなり大きなものであったと思われます。
この台風被害から12年後の明治44年9月21日、非常に強い台風が鹿児島に襲い掛かりました。
この台風による雨と風によって、鹿児島市は相当な被害を受けました。
これについては次回、触れてみます。
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2014年11月27日

明治23年と明治24年の台風被害

明治23(1890)年9月23日、台風が襲い掛かり鹿児島市は大きな被害を受けました。
死者5名・負傷者1名、被害家屋数2025戸。
備荒儲蓄法の適用を受け、5日または7日分の食料を2018戸・8523人に支給して被災者の救助に当たりました。
また、家を失った932戸に小屋掛料を支給、金額は3286円であったそうです。

■ 備荒儲蓄法
この法律は1880年(明治13)に20年間の時限立法として成立したものでした。
法律制定の目的は、国家財政の大部分を占める地租を安定的に確保するため、「非常の凶荒・不慮の災害・地租の補い」に対処するものでした。
備荒金は地租収入の3%にあたる120万円と各府県の地租3%を拠出。国の拠出金120万円のうち30万円を毎年儲蓄し、残りの90万円を各府県に配布。府県は自らの地租3%分と合わせて運用し、災害準備金とするものでした。

罹災民1戸に対して食糧30日分、小屋掛料1戸10円以内、種籾料1戸20円以内で支給するという基準が設けられていました。
この法律は20年間の時限立法でしたが、10年目で儲荒高が相当程度になったという理由で儲蓄は打ち切られることになりました。

しかし、その後の濃尾地震、福井・富山の洪水被害、三陸津波などの大災害が毎年のように発生。1890年代の終わりごろになると儲蓄金は底を尽き、新たな災害救助金制度が創設されることになりました。

■ 鹿児島市の被害状況
鹿児島市内の被害状況を表にしてみました。

m23higaijoujoukyou1.pdf

『鹿児島市史』(大正5年刊)に、当時の様子が次のように記されています。

「明治23年9月23日 是日暴風あり、近来稀に見るの一大暴風たり。同市の被害戸数二千有余の多きを算し、又死者5名・負傷者1名を出すに至り。
災後罹災者は居るに家なく、食うに糧なく、或は親戚に救われ、或は知友に助けられ以て一時の難を免れたる者ありしと雖も、其多くは知友親戚もまた遭難中の人となり、遂に路上に彷徨し老幼相擁して飢えに叫ぶ者あるを見、麑城全街凄愴の気を以て満たされ、極目荒涼光景転だ惨憺たり。」
同年9月25日、鹿児島市長は暴風被害に対し次のような告諭を材木商に発令しました。
「今般暴風の災害に罹り、市内の惨状言うべからず。貧民の家屋に至りては、全倒半倒等殆ど全市戸数の九分の一に垂んとす。
之れが小屋掛等に供給する材木その他の要品を商業とする者は、此災難の事情を深く酌み受け、平常の価格を以て売り払はらわるべし」

災害後、どのような状況であったか同書や鹿児島市史では触れていません。
この辺につきまして資料を探している所でありまして、分かりしだい掲載したいと思います。


■ 明治24年9月13日の台風被害
およそ1年後の9月13日、またまた鹿児島市に台風がやってきました。
この台風の最低気圧は966.2mb、最大風速16.4m/s、降水量144oでありました。
大正5年刊行の『鹿児島市史』では、次のように記しています。

「是日暴風雨、家屋の倒潰大破など512戸に達し、和船11を壊われり。是より先き同12日午前10時より天候不穏の兆しを呈し、風少しく加わり同日午後4時頃に及んで漸次風力を増し、遂に是日午前第三時頃に至りて暴風となれり。風力は昨年の暴風に大差なかりしと雖も被害戸数その半数に達せざりしは、主として市民全体昨年の惨況に鑑み、自衛の方法を講じたるに因る。市は例により罹災貧困者を救助したり。」

食糧を給与したる戸数235戸(993人)
給与したる食糧数量9石壱斗八升四合(玄米)
小屋掛料を給したる戸数372戸・金935円であったそうです。

また、この台風で新築工事中であった市役所庁舎が倒潰してしまいました。
この庁舎は木造2階建で、現在の市立美術館のところでありました。
『勝目清回顧録』によると、完成した市庁舎は当時としては珍しい西洋式の木造二階建ての建物で、落成式のときたくさんの市民たちが見物に出かけたそうです。
大正末期頃には、相当腐朽が進み、床下は白アリにそうとう食われていたそうです。
この市庁舎の画像は、『明治大正昭和ふるさとの想い出写真集 鹿児島』、ほかの写真集に掲載されていますので、参考にしてみてください。
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2014年11月23日

明治19年9月23・24日の風水害

明治19年9月23日から24日にかけて、南九州一帯は猛烈な台風に見舞われました。
もっとも被害の大きかったのは、笠利村以南の39ヶ村。
当時の記録によると、「家屋全倒500軒、半倒638軒、倉庫全倒35ヶ所」であったそうです。
おそらく、船舶の遭難もあったと思われますが、漁船の損害は本土の方が甚大でした。

志布志の有明湾では、出漁中の漁夫約280人が一挙に無くなるという悲惨な事故が発生。
一夜明けた浜辺には、足の踏み場もないほど死体があがったそうです。
志布志ではこれを「枇榔島合戦」として語り伝えていたそうです。

枇榔島合戦
○9月23日の天気概況
午後2時現在、鹿児島の気圧756mb、北東の風、風力2、雨量48、一の低気圧は九州の南にあるものの如し。而して鹿児島は独り微降(756mb)を報じたれども九州の北西部は微昇、東部は甚昇を報ず。

○天気予報
全国的に北ないし東方の風吹き、天気不安定にして多少の雨

○暴風警報
午後3時30分、南海岸の警戒を要す

それまでの1週間、志布志近海は久しぶりの大漁に沸き返っていたそうです。
20日過ぎから海のうねりが高くなり、小雨がぱらつき始めていました。
時化の前触れを思わせましたが、漁師たちは港に帰らず、錨をおろしたまま漁を続けていました。

天気の状況は刻々と移り変わっていました。
「警戒を続行中のところ、23日午後9時に至り果して鹿児島の南西に低気圧現出し、同所は東の強風吹けり。24日午後2時に至り低気圧の中心はすでに鹿児島沖に来たり。同町の気圧は735mbに降下し、四国・九州は暴風となり宮崎は199oの雨量を報ぜり」

○運命の9月24日
24日午後2時現在、鹿児島・宮崎ともに風力5でありましたが、鹿児島の雨量は92oでした。しかし、豪雨の被害は宮崎のほうが激しいものがありました。
都城や飫肥などでは、この日、水死18人・圧死5人を出しました。
船舶の遭難で亡くなったのは1人であったそうです。

一方、県境を隔てた志布志の場合、悲惨でありました。
正午過ぎ、雲行きの激変に漁師たちが気づき、網をあげて帰り支度を始めていました。
時すでに遅く、台風の中心が襲い掛かってきました。
浜辺では家族や村の人たちが、「帰れ!帰れ!」と叫んでいました。
村人たちの目の前で、船は木の葉のように波にのまれ、次々と沈んでいきました。
やがて、風雨のため視界が遮られ、村人たちは夜通し泣き叫んだそうです。

翌朝、無数の死体が浜を埋め尽くし、確認されたもの280人。全滅であったそうです。
志布志の陸上での被害は、家の全半壊79戸。
この台風は、働き手と住家をいっぺんに奪い去っていきました。
遭難者にあって最年少の者は、12歳であったそうです。
勝手を知り尽くしていた湾内での事故、不運としか言いようがありません。

同じ日に発生した災害
同じ日、甑島の長浜沖で手打ちの漁船が遭難、2名死亡・15人が救助されています。
また、この台風で鹿屋郷の警察署をはじめ42戸が全壊、死者2人を出しました。
大隅地方にとって、それまで経験したことのないような天災となってしまいました。

平成5年に発生した「八六水害」やその後の自然災害のニュースでは、「未曽有の」や「百年に一度」、「これまで経験したことのない」と表現されます。
明治以後の自然災害をまとめた資料などをみると、「八六水害」に酷似した災害やゲリラ豪雨を思わせる気象災害がすでに発生していたようです。
次回から数回にわたって、明治の鹿児島市で発生した大きな災害に触れてみます。
posted by ぶらかご.com at 22:41| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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