2014年11月16日

城山にまつわる話いろいろ

鹿児島の犯罪多発地帯
終戦から昭和30年代頃までの城山は、犯罪や自殺が多発していたそうです。
終戦直後の混乱していた時代、自殺発生と聞けばすぐ城山を連想するほど。
ダイナマイトを使った心中事件では、身体が粉々になり、現場近くのクスの木にぶら下がっていたこともありました。
ふたり連れのアベックを狙う者や、傷害事件も多く、昭和35年頃まで年間20件以上の犯罪が城山で発生していたそうです。

園児誘拐
昭和35年、園児誘拐事件が発生。
顔見知りの少年に連れ出され、城山で殺されるという事件がありました。
犯人はクスの木の枝を使って園児を殺害、無残なやり方であったそうです。
当時の事件としてはもっとも凶悪で、鹿児島市民の恐怖をさそうものであったそうです。

放火事件
昭和38年には連続放火事件が発生。
犯人は「放火次郎」と名乗り、手紙や電話で放火を予告するという大胆な行動に出ました。
同年11月2日から29日までの間に、武・上荒田・郡元・天文館一帯で計22件の放火。
被害額は1750万円に上ったそうです。
捜査員たちは、毎晩徹底的にパトロールを行いましたが、放火次郎は巧みにスキをついて放火と続けました。

捜査陣が考え出したのが、城山花火作戦というものでした。
放火次郎が放火予告をするとき、市内の公衆電話を使っていることを突き止めました。
そこで市内約300ヶ所ある公衆電話のそばに署員を張りこませ、犯人が新聞社に電話すると同時に、城山から花火を打ち上げるというものでした。
花火を合図に電話をかけている人を一斉に職務質問する仕組みであったそうです。

何度も打ち上げると犯人に気づかれる恐れがあり、実際には3回打ち上げただけでした。
また花火作戦で、犯人に職務質問していながら突き止めることはできなかったそうです。
その後、放火次郎は逮捕されたそうです。

安心して登れる山に
昭和36年頃からは、城山の犯罪を一掃するべくパトロールを強化しました。
ただ、城山が天然記念物指定地であること、費用の点から防犯灯を設置することが出来なかったそうです。
そこでパトロールを増やすという地道な努力をつづけることが唯一の対策でした。
戦後の混乱期からくらべ、世の中が落ち着いてきたことやパトロール強化が加わり、目立った犯罪は無くなったそうです。
犯罪件数は少なくなったものの、ケンカや自殺といった事件が起こることがあったそうです。

テレビ塔
毎日新聞が昭和43年9月に行った全国世論調査によると、テレビの普及率は96.9%。
日本じゅう殆どの家庭がテレビを持ち、一日当り約2時間半見ているという結果であったそうです。
鹿児島県での普及率は88.1%、全国平均より低いといっても相当普及していたようです。
城山は鹿児島県で初めて、テレビの電波が流れたところでありました。

鹿児島でテレビ放送の準備が始まったのは、昭和31年ごろから。どこにテレビ塔を設置するかが、最初の関門であったそうです。
波長の関係で、できるだけ高く、障害物の少ないところに送信アンテナを建てることが必要でした。

●NHK
NHKは紫原や武岡などを調査しましたが、現在の城山展望台駐車場の上にあった台地に土地を購入してテレビ塔を建設したそうです。
テレビ塔建設にあたっては、設置場所が天然記念物指定地ということで、「一木一草も傷つけないように」と厳命されました。
工事は緊張の連続であったそうです。
そして昭和33年初め頃に完成、2月から電波が流れだしたのだそうです。

●MBC
MBCは当初、展望台近くにあった鉄塔にアンテナを取り付ける予定であったそうです。
その鉄塔は、戦時中、防空監視所と利用されていましたが、昭和31年頃には放置されていたそうです。
この鉄塔、もとは南林寺町のガンガラ橋近くににあったものを、城山に移設したものでした。
下に掲載した地図では、ガンガラ橋のすぐ右手に火見櫓と記されています。

minseitou1.jpg

南林寺にあった頃は「火の見櫓」として使われており、『勝目清回顧録』に次のように記しています。

「消防上の必要から火見櫓を計画して、鉄骨の高さは30bぐらいあったと記憶する。工事が終わったので、完工検査をしなければならない。ただ簡単な検査だけだと思って行ったら、30bぐらいもある鉄丸棒のハシゴを上って、望楼のところまで検査しなければならないとこのこと。
初めの間はどうにか上れたが、三分の一位上って下を見たらもういけない。恐ろしくなって足がふるえるようだ。私は一生の勇をふるってついに頂上の望楼にたどり着いた。
望楼は風に揺れるようで気持ち悪いこと甚だしい。私の眼には風景はかすんでいて、見晴どころではなかった。」

展望台周辺も天然記念物に指定されており、枝一本といえども傷つけてはならないということで、他に私有地を探すことになりました。
そうして夏蔭城跡下の土地を購入、昭和34年にテレビ塔が完成しました。
MBCの塔は高さ約80m、NHKの塔は約85mの高さであったそうです。
この塔を放送業界とは別の職業の人が、嫌っていたそうです。

パイロットのテレビ塔嫌い
テレビ塔、飛行機のパイロットにとって、かなり気になる存在であったようです。
当時の鴨池空港は、一日当り定期便だけで85回発着していたそうです。
ローカル空港としては最も利用度が高く、パイロット仲間では城山の“テレビ塔嫌い”が殆どであったそうです。

着陸する前や離陸した後、城山は飛行機が旋回する地点に当たっていました。
城山の高さにテレビ塔を加算すると、標高約200mにもなりました。
「飛ぶのに危険だと言わないが、なければスッキリするする」とパイロットたちは口をそろえて言うものであったそうです。
鴨池空港があった頃、城山のテレビ塔はパイロットにとって、少し目障りな存在に映っていたようです。
むかしの鹿児島を垣間見ることのできる話のひとつかもしれません。
posted by ぶらかご.com at 00:35| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月13日

城山と防空壕

壕掘り
太平洋戦争開戦当初、破竹の勢いをみせていた陸海軍部隊、昭和17年5月の珊瑚海海戦や同年6月のミッドウェー海戦以後、戦況が怪しくなり始めていました。
翌年2月のガダルカナル戦、5月にはアッツ島守備隊が玉砕。
昭和19年7月には、絶対国防圏のひとつであったサイパン島が陥落すると、戦況は日本軍にとってかなり不利なものとなっていました。
この頃、「本土決戦」の噂が広まり始めていたそうです。

昭和19年ごろの鹿児島にあって、敵機が空から襲ってくるという恐怖はありませんでした。
その日に備えて、空き地を持つ人はそこに防空壕を造り、空き地のない人たちは共同のものを空き地に造りました。
ついには城山や武岡、近郷の岡の下に町ごとの公共防空壕を掘らなければならない状況になったそうです。
そうして、自分の町の壕は自分たちで、爆風のことを考えて「コの字型」に掘らねばならなかったそうです。

国から補助費がでるようになると、防空壕は争って掘られるようになったそうです。
鹿児島はシラス地帯が多く、他県にくらべ相当掘りやすかったようです。
鹿児島県庁は岩崎谷への通路に沿って防空壕を掘り、黎明館裏手には陸軍通信部隊のものがあったそうです。

sioyama5.jpg

遊歩道沿いに入口が塞がれた壕が残っていますが、それのことかもしれません。
壕の周りに案内板がありませんので、筆者の憶測になります。
鹿児島の場合、戦時中の遺物に関して関心がないのかもしれません。
防空壕が盛んに掘られるようになって、城山全体でおよそ100個を超えるそうです。

T字型防空壕
防空壕のなかで、最大規模のものが城山に計画されました。「T字型防空壕」と呼ばれます。
照国神社横から新照院山手のほうへ一直線に200mほど掘り、これと直角に交わるように新上橋電停付近から300m掘り進めT字型に連結しようというものでした。
2つの壕を幹線にして、壕の左右に横穴を掘って市役所や銀行、郵便局、その他の施設が入るように計画されました。

市施設課の直営工事で新川組が請け負いました。
昭和19年9月15日、起工式をすますと工事が着々と進められていきました。
このとき、幹線となる壕の高さを3m、幅3mの穴にすることが決められ、一昼夜三交代の突貫工事が始まりました。
ツルハシとシャベルだけの手掘りでありましたが、シラス土壌のため工事は順調に進んだそうです。
掘り出された土で低地を埋めたり、馬車で運んで甲突川の河原に捨てていたそうです。
投入された労力は、1万人も及んだということです。

終戦までに照国神社と新照院を結ぶトンネルは完成しましたが、新上橋からのものは200m掘り進んだところで終戦を迎えたそうです。
新上橋からの工事中に、西南戦争時代の地下室が発見されたそうです。地下室はおよそ4m四方、車座で10人は座れる広さであったそうです。
戦後、地下室は防空壕とともにコンクリートで塞がれたそうです。

新上橋側から掘り進められていた壕には、もうひとつエピソードがありました。
昭和20年4月8日、新上橋電停の工事現場で大惨事が発生しました。
空襲警報が鳴り、近くの住民数百人が壕に殺到。
壕入口のすぐ近くに250s爆弾が着弾、入口付近にいた数十人が生き埋めとなってしまいました。壕内にいた人たちも爆風で倒され、悲惨な状況となりました。
鹿児島市で土砂を掘り起し、死体を収容しましたが、壕内では死臭がただよい酢を散布しながらの作業であったそうです。
『写真と年表でつづる かごしま戦後50年』の3ページ目に、昭和22年頃の新上橋電停付近を撮影した写真が掲載されています。防空壕前を木炭バスが走っています。
参考にしてみてください。

終戦直後の城山の様子
終戦直後、市街地の9割が焼かれた鹿児島市には、公有地・私有地を問わず、家を焼かれた人々がバラックを建て仮住まいを始めました。
多くの防空壕が残っていた城山は、かなり絶好の場所であったようです。

壕のなかにムシロを敷いて、ランプで生活する人々が殺到したそうです。
当時、行政は混乱しており、庶民たちは自力で生き抜く以外、すべがありませんでした。
土地を持たない人々は、城山にバラック住宅を次々と建てたそうです。
昭和21年頃には200人が生活していたとのこと。
この付近では、ケンカや売春など悪の巣窟にもなっていました。

鹿児島市がこの問題に手をつけたのは昭和33年頃からであったそうです。
観光ブームが盛り上がり始めた昭和30年頃から、鹿児島市や県に観光客や市民から苦情の手紙が舞い込むようになりました。
鹿児島市でも昭和36年6月に都市公園法の適用に踏み切り、建築基準法・都市公園法・文化財保護法の3つの違反として立ち退きを勧告しました。
昭和36年には電灯もつくようになり、居座りの大きな要因にもなったそうです。
立ち退きと居座りの問答は決着がつかず、昭和41年6月の集中豪雨で城山の傾斜地が崩れて不法住宅一軒がシラスに埋まり、死者1人を出す事故が発生しました。
この事故がきっかけとなって、公園整備と危険地区整備の両面から、退去問題が再び起こったそうです。

高成長時代にあった昭和40年代、城山には、まだまだ戦争の傷跡が残っていた所であったようです。
posted by ぶらかご.com at 00:00| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月10日

城山に車道を通す

■ 城山に車道を
市民憩いの場として訪れる人が多くなった城山、昭和の初めまで比較的広い登山道が9本通っていいましたが、車の走れる道路は一本もなかったそうです。
お年寄りや子供のなかには、展望台まで登ることのできない者もありました。
昭和5年、在郷軍人会連合会長であった宅間豊彦氏が主となって、「在郷軍人の労働奉仕によって城山に車が通れる道を造ろう」という話が市長に申し出られました。
市長も賛同して、着々と準備を進めていました。

鹿児島市としては大賛成であったようです。
昭和4年4月16日、広島で全国市長会が行われました。
市長会終了後、鹿児島市の代表たちは大阪、京都、門司、久留米の市庁舎その他を視察。
京都市には観光課があり、観光事業に力を入れていることに気づいたそうです。
京都市地図など、とくに観光客が分かりやすいように工夫され、各種の観光地説明書などができていたのでした。
これに触発されて、鹿児島市では勧業課に観光係を設けることになりました。
そうして、「史と景の国」というキャッチフレーズができたそうです。
観光客誘致のひとつとして、車道建設はうってつけであったようです。

計画では照国神社東側道路から展望台まで155m、幅4.85mの道路を新設。明治44年に建設した旧道の半分を生かしながら勾配を緩くしようとするものでした。
必要な作業員約6000人、工費約5500円の予算をたてました。
在郷軍人会は第六師団に工兵隊の出動や工事用道具の借用を交渉。はじめ5000人を動員し2日半の作業で済ませる予定でした。
在郷軍人会連合会では工事の分担区分を決め、鹿児島市に工事費の一部として1000円を寄付しています。

在郷軍人会が交渉した第六師団は、熊本市の花岡山に車道をつくったという実績がありました。車道のおかげで、だれもが気楽に花岡山を訪れることができるようになっていました。

城山の車道建設計画が具体化するにしたがい、反対運動が盛り上がりだしました。
“開発”と“自然保護”という問題の先駆けであったかもしれません。
反対運動は一般市民だけでなく、学者にも広がり、学問上の反対は全国的な規模にまで広がったそうです。

■ 反対運動
当初の反対運動は、敬天舎や大道館、共立学舎などが反対を表明していました。
「南洲翁らが血を流した聖地を自動車の排気ガスで汚せるか」といった、“聖地としての城山”を意識してのものであったようです。
反対運動が広まるにつれ、学者グループが学問的立場から自然保護に立ち上がりました。
昭和6年1月下旬ごろになると、反対運動は政界や文部省にまで影響したそうです。
1月25日には、文部省から脇水鉄五郎博士(地質学)が現地調査に入り、27日に実地見分しています。
その後、文部省から「調査が終わるまで工事を中止せよ」という指令が届き、工事は一時ストップすることになりました。
2月9日、「工事施工さしつかえなし」電報が届き、二ヶ月にわたって繰り広げられた問題に幕が降ろされたのでした。

■ 工事開始
2月11日の紀元節を起工式とさだめ、その日から在郷軍人会は物すごい勢いで工事に着手したそうです。
工事は7つの工区に分けられ、それぞれ分会ごとに分担区域が決められていました。
bP名山分会、2中洲分会、3八幡分会、bS西田分会、5山下分会、6大龍分会、7草牟田分会。
この工事では、婦人会が炊き出し、中洲・荒田2つの小学生や袴姿の女学生までもが応援に来たそうです。
多いときは2000人を超える人海戦術で工事は進み、3月上旬には完成しました。
そうして、3月10日の陸軍記念日には華やかな完工式が行われ、新設道路でリレー競争が行われたそうです。

■ 天然記念物指定
工事が完了した3ヶ月後の6月1日のことです。文部省が城山公園を「天然記念物・史跡」に指定。正式な告示は6月3日、史跡名勝天然記念物保存法(大正8年4月10日制定)によるものでした。
当時、鹿児島県下では唯一の「天然記念物・史跡」として国の指定を受けたのでした。
指定の決め手は、道路建設に反対した博物学会を中心とした学者グループの意見であったそうです。

この指定によって問題になったのは、出来たばかりの道路でした。
城山東北部の半分にあたる地域が指定され、道路はその真ん中を走っていました。
文部省によれば、「自動車の排気ガスが植物を害するおそれあり」という見解。
最終的な判断は、鹿児島県当局に委ねられました。
当時の県知事は山口安憲、「車道は必要」という考えをもっており、文部省と鹿児島市との板挟みにあっていました。
そこで、“高貴な人”だけを例外として自動車乗り入れを許可し、一般人は一切禁止としました。ちなみに、この道路を自動車で走ったのは昭和33年4月に訪問された天皇・皇后両陛下が展望台から鹿大に向かわれたときだけであったそうです。

■ 岩崎谷側車道
世論を二分して大きな騒動まで引き起こした末の道路でありながら、自動車通行禁止となった新しい車道。
鹿児島市では、再度計画を練り直すことになりました。
昭和9年、岩崎谷側道路を改修。このとき問題が起こることはなく、順調に出来上がったそうです。
これが、西郷洞窟前を走る車道になるそうです。
また、西郷洞窟から少し上ると、右手に階段がでてきますが、車道が出来る前の旧道の一部になるそうです。

siroyamakyudo1.jpg

その旧道を登ると左手に入口を塞がれた防空壕跡、登りついたところに信号がでてきます。
siroyamakyudo4.jpg

siroyamakyudo3.jpg



それを渡って遊歩道を進むと、薩軍本営跡裏手を通って、展望台へと出てきます。

■ 余談ですが、第六師団長のこと
新設の車道を造る際、第六師団の話に触れました。
当時第六師団の師団長は、荒木貞夫という人物でした。
戦後、A級戦犯として東京裁判で裁かれ、終身刑となった人物です。
昭和30年病気のため仮出所し、その後釈放されています。
『勝目清回顧録』に、次のような随筆が掲載されていました。

「もう一つは荒木第六師団長である。この工事には初めから十分了解のうえ始めたものであったが、反対運動が起こってから積極性がなくなったので、宅間在郷軍人分会長と熊本まで出かけて打ち合わせるけれども、ヌラリクラリではっきりしない。
工事が始まってからももちろん、熊本花岡山道路工事のように工兵隊は出してくれなかった。
不賛成なら不賛成で男らしく行動してもらいたかったが、工事を始めたら、鹿児島の連隊に工事器具は貸与差支えなしと内密に指令されていたそうで、器具の借用はできた。実にりこうなやり方だ。

“ひとつ軍人は要領を第一とすべし”と称していたから、荒木師団長初め頭のいい軍人がいたのだろう。このような利口な軍人が、こんどの戦争を指導したから、下手な戦争になったのではあるまいか。
私が接した東郷元帥、山本大将、地元では大久保中将そのた明治維新から日清・日露と本当に弾丸や剣の下をくぐった将軍連中とは段違いだった。」
posted by ぶらかご.com at 11:00| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする