2014年11月08日

城山の自然

■ 姶良火山の一部
地質に関する知識が殆どないため、鹿児島市史や県史などを参考にしました。
詳しく知りたい方は、図書館などで資料にあたってみてください。

およそ300万年前、錦江湾の北半分から帖佐、加治木などにかけて雄大な火山があったそうです。
それを姶良火山といい、城山もその山の裾野の一部にあたるそうです。
およそ50万年前、姶良火山は夥しい溶岩や噴煙を噴出。
このときの火山灰からできたのが“シラス土壌”。
鹿児島県の3分の2近くがシラスの層でできているそうです。
姶良火山の活動がいかに激しく、いかに膨大な量の火山灰を降らせたか想像させられます。

その後、姶良火山の中央部は大陥没を起こし、“カルデラ”と呼ばれる陥没火口ができました。これが錦江湾北部を形作っているそうです。
陥没後、新しい火山活動を起こし、海底から噴き出したのが桜島。
城山の地質を調べてみると、浅海か湖沼で堆積されたものと思われる地層が多いとのこと。
ある時代、水面下にあったものが浮かび上がったと考えられているそうです。
それは姶良火山陥没前のことで、桜島よりずっと古いことのようです。

鹿児島市街地は、もともと海底であったものが段々隆起し浅い海となったそうです。
甲突川や稲荷川、田上川などの三角州から発達して陸地となったそうです。
それで城山や紫原との間には、大きな時代差があるそうです。

■ 城山の植物
城山は植物の宝庫と言われ、およそ600種類あるそうです。
都市の真ん中で、豊富な植物が茂っている所は全国でも例がないそうです。
城山の遊歩道を進むと、大きくて太いクスノキが何本となく目に入ります。

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何本のクスノキが生えているのか分かりませんが、城山のようにクスの大木が群生しているところは珍しいそうです。

城山にクスの大木が群生している理由について、次のような説があるようです。
城山、古くは原生林だったそうです。自然の原生林ではシイ類が主体で、クスは殆ど見当たらないそうです。これは日光が遮られるためのようです。
かつて城山では原生林が倒れ、日当たりが良くなったためクスが育つようになったのではないかと考えられているようです。
城山に群生するクスを見て驚き、広く世界に発信した人物がいました。
元ウィーン大学総長で植物学の権威であったモーリッシュ博士。
博士は大正13年に鹿児島入りしているようです。
帰国後、博士は「日本の生物学」という書物のなかで城山に群生するクスを紹介しているそうです。
この本がキッカケとなって世界各国の植物学者が訪日すると、城山まで足を延ばす学者が多かったそうです。

■ 珍しい名前の木々
遊歩道を歩いていると、妙な名前が書かれたプレートが木々につけられています。
バクチノキ(バラ科)、ショウベンノキ(ミツバウツギ科)、バリバリノキ(クス科)

【バクチノキ名前の由来】
博打で負けたとき一枚一枚着物が剥がされるみたいに、木の皮がはがれることから名付けられたそうです。
【バリバリノキ】
葉が硬く、触れ合う時にバリバリと音を立てるという説や、枝や
葉に油分が多く、バリバリとよく燃えるという説があるそうです。

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【ショウベンノキ】
ショウベンノキは、春期に枝を折ると多量の樹液がでることから名づけられたそうです。

その他にもイタジイ(スダジイ)、アコウ、クワカッガエ、ヤマデキ、ギョクシンクワ、ボロボロノキ、ヤマゴンニャクなどの木々も繁茂しているそうです。
【ボロボロノキ】
枝がポリポリと簡単に折れることから名づけられたもののようです。

城山で初めて発見され、「城山」の名を付けられた植物があるそうです。
シロヤマシダ、シロヤマゼンマイ、シロヤマハギなど。
このうち、シロヤマハギは道路工事などで絶滅してしまったそうです。
わずかに二株が、鹿大農学部に移され植栽されているそうです。

城山が植物の宝庫となったのは、藩政期、一般人の立ち入ることのできない領域として保護されていたことが大きいようです。
薩摩藩は樟脳などを植え、オランダに輸出していたことから、造林事業も行っていたようです。
また、城山の地形が変化に富んでいることも、種類の多さに結びついているようです。

しかし、城山は西南戦争で大きな被害を受けたうえ、昭和6年の登山道路開設による観光開発でも相当なダメージを受けたと思われます。
太平洋戦争での空襲、昭和27年4月の大火災でも相当なダメージを受けているとおもわれます。
高度成長期以降は、車の排気ガスや宅地造成などによる影響も受けていると思われます。

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自然遊歩道を登る際、木々の名前を見て、クスクス笑いながら歩くのも面白いかもしれません。

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2014年11月06日

皇太子ニコラス殿下来麑記念碑

■ ニコライ2世来鹿
照国神社横の探勝園から城山自然遊歩道を行くと、山手の方に『露国皇太子ニコラス親王殿下来麑記念碑』が建っています。

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ニコラス殿下とは、ニコライ=アレクサンドロ=ヴィッチ=ロマノフ、ロシア帝国最後の皇帝となるニコライ2世のこと。
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後に日本は、ニコライ2世治世のロシアと戦争をすることになります。
鹿児島にやって来たのは、日露戦争よりも前の明治24年(1891)のことでありました。
世界史にも登場する人物の記念碑にしては、木立のなかでひっそりと建っています。

ニコライ2世は両親の勧めで、1890年10月から1891年8月にかけて世界各地を旅行することとなりました。旅行の中心地はイギリスとロシアが勢力圏争いをしている極東。
エジプト、英領インド、コロンボ(英領セイロン)、英領シンガポール、サイゴン(フランス領インドシナ)、オランダ領東インド、バンコク(シャム)、英領香港、上海と広東(清)を歴訪した後、最後の訪問国として日本にやって来ました。

明治24(1891)年4月27日、ニコライ皇太子を乗せたロシア軍艦が長崎に寄港し、5月19日まで日本に滞在。
日本政府は未来のロシア皇帝を国賓待遇で迎え、その接待を念入りに準備していたそうです。

■ 準備に大忙し
大正5年刊『鹿児島市史』によると、帝都東京よりも前に鹿児島に来られるというのはとても光栄なことという旨のことが書かれています。
国賓として迎えるため、鹿児島県知事山内堤雲は市町村長に対して注意事項を告げました。
●御道筋はもちろん、御見通の場所に於いて干物を為し又は汚穢の物品などを出してはいけない。
●御通行の際は御道筋に牛馬車を引入れてはならない。
●御道筋住居の者は屋内見苦しくないように注意すべきである。
●御通行の際、道路を横切ってはならない。
●御通行の際、御道筋に沿う高所または樹木等に登ってはならない。
●拝観人は路上に在りては立礼のこと。などなど。
その他、接待の順序や送迎などについての段取りが事細かに決められていたようです。

■ 明治24年5月6日
この日は今にも雨が落ちてきそうな曇り空、ただ風は穏やか。錦江湾の波も穏やかでありました。いづろ通りから海岸一帯は、歓迎の市民たちで山のような人だかり。
そして、みな手を額にして御召艦の到着をまっていました。

午前7時、パミアットアゾバアー号・ウラジーミルモノマッ号・アドミラルナヒーモフ号、3隻の船は日本海軍八重山を先導にして、湾内に入って来ました。
軍艦、武蔵・高雄・八重山には日章旗とロシア国旗が翻り、21発の祝砲が放たれました。
ロシア艦からも21発の答礼砲が放たれました。
午前8時30分、ロシア艦投錨。旧台場から花火21発が打ち上げられました。
桟橋には鳥居形の大緑門を設け、日露の国旗を交差させていました。
また、日・露・ギリシャの旗章を記した提灯を吊るして飾っていたそうです。

午前9時25分、ロシア皇太子ニコラウス親王殿下、桟橋に到着。
公爵島津忠義公が出迎え、皇太子を人力車に乗せると、いづろ通りから広馬場に出て朝日通りから県庁に入っていきました。
沿道には島津家の人々や県・市の職員、教師、生徒、一般の人たちが歓迎のために並んでいたそうです。
県庁ではニコラウス皇太子とギリシャ親王のふたりに、『麑海魚譜』『烟草図書』を献上しました。また桜島大根、夜光貝、ソテツなどをご覧になったそうです。

県庁を出た一行は、山下町の授産場を訪問。授産場では煙草・織物・押絵が献上されました。
ニコラウス親王は、ここで巻タバコ数箱をお買い上げになったそうです。
授産場を後にしたニコラウス親王は、名山小学校へ入られ昼食をとられました。
名山小学校は歓迎場となっており、講堂に玉座を設け正面入り口に日・露・ギリシャの国旗を掲げていました。廊下の両側には活花を飾り、玉座の四隅には古画名幅を掛け、金屏風で装飾してあったそうです。
校庭では撃剣や棒踊りなどが奉納され、ロシア軍艦乗り込みのカメラマンが撮影していたそうです。

■ 犬追物をご覧になる
山下小学校を後にして、皇太子一行は田ノ浦の陶磁器製造所へ行き、ここで買い物をされたそうです。
そうして磯の島津邸に入られました。
正門には島津公爵長崎式部官などが出迎え、ニコラウス殿下一行は外庭丘上に設けられた桟敷へと案内されました。

ここでは東郷重持の腰矢と数矢をご覧になりました。
次に2島津家令息秀丸君に引率された200名の甲冑武者が、古式の武士踊りを演じました。
次に島津忠義公をはじめとした人たちによって、乗馬場にて略式の犬追物が演じられました。なかでも忠義公と東郷重持の技が最も軽妙であったので、見るもの賞賛の声を上げるものであったそうです。

ニコラウス親王は、武士踊りの起源や沿革について細かなことまで尋ねられたそうです。
他にも様々なお尋ねがあったようですが、薩摩独特の統治制度であった102の都城のことについて熱心に尋ねたそうです。
都城に配置された武士が平素は農耕に従事していること、戦がおこるや直ちに兵となって戦場に駆けつけることを聞かれました。
すると、皇太子は「それは我がロシアのコサック兵の制と同じようなものだ」と言って賞賛したそうです。

そうして夕刻、皇太子一行は磯御殿前から端艇に乗り、お召艦に帰られました。
午後6時40分、ロシア艦は護衛艦高雄他二隻の船と共に錦江湾を後にしたのでした。

■ 大津事件
5月11日、大津に入った皇太子一行は琵琶湖や唐崎神社を見学。
大津から京都へ戻る途中のことです。
警護に当たっていた巡査津田三蔵が、人力車に乗っていた皇太子をサーベルで斬りかかったのでした。
さいわい、命に別状はなかったのですが、頭蓋骨に裂傷が入るほどのケガを負いました。

ロシアの報復を恐れて世間は騒然、明治天皇自ら皇太子を見舞うという事態にまでなりました。
政府は日本の皇室に対する犯罪の刑罰を適用して死刑にするよう司法部に圧力を掛けましたが、大審院はこれを拒否。部下を指揮して一般の謀殺未遂罪として無期徒刑の判決を下して、司法権の独立を守ったと言われています。

この事件以降、ニコラウス皇太子は日本人に嫌悪感を持つようになり、ことあるごとに日本人を「猿」と呼ぶようになると言われています。ロシア首相セルゲイ・ヴィッテはニコライ皇太子の日本人蔑視が後の日露戦争を招いたと分析しているそうです。

それ以前の日清戦争直後から、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世らが「黄禍論」を盛んに唱えていたことから、その影響を受けていたと思われます。
そこへ大津事件で負傷したわけですから、日本(人)への心象は悪化したのではないかとおもわれます。
「黄禍論」は、黄色人種が白人をアジアから駆逐しようとするのではないかと警戒し、ヨーロッパ諸国はキリスト教文明を守るためにこれと対決すべきであるとする主張です。
黄禍論は、当時の外交的駆け引きのための方便と取ることもでき、単に人種差別の点からみるのはどうかと思われます。

■ 記念碑の建立
大津事件が起こると、「ロシア軍が攻めてくるのではないか」という不安が社会を覆いました。この不安は、鹿児島も同様でありました。
そこで、鹿児島県知事山内堤雲は流言飛語を防止することに努めるよう訓示しています。

また、島津忠義公は大津事件を耳にすると、鹿児島市長と共に皇太子を見舞うため京都へ出向いています。
明治25年、鹿児島市ではニコラス皇太子が来鹿したことを記念して、城山麓に記念碑を建てました。題して「露国皇太子ニコラス殿下来麑記念碑」というと『鹿児島市史』(大正5年)に記述されています。

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この記念碑は、城山公園自然遊歩道から外れた木立のなかで、ひっそりとたたずんでいます。
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2014年11月03日

大正天皇と城山

展望台への道
鹿児島県から鹿児島市に譲渡された城山公園、少しずつ整備・拡充されていきました。
しかし、敷地は城山の麓に限られ小規模な公園にすぎませんでした。
明治40年、皇太子殿下(のちの大正天皇)の鹿児島ご訪問が決定。
皇太子殿下の来鹿は、城山公園発展の大きな契機となりました。

皇太子殿下のご来鹿という知らせが鹿児島市に届いたのは、明治40年夏のことでした。
さっそく、市では奉迎準備委員会を立ち上げ、プランを練り始めました。
「鹿児島にお出でいただく以上、城山にだけは何としてでも登っていただきたい」という意見が出されたそうです。

当時、城山の登山道は旧藩時代の照国神社側と新照院口、岩崎谷の3ヶ所でした。
道といっても、藪をかき分け、人ひとりがやっと通れる程度のものであったそうです。
とても、皇太子殿下を案内できる状態ではありませんでした。
そこで、鹿児島市は陸軍が管轄する山頂一帯の譲与願いを提出。
譲与の必要性を切々と説き、必死さの伝わる文章になっています。
あて先は、陸軍大臣と内務大臣。
写しが大正5年発行の『鹿児島市史』に掲載されています。
「明治四十年七月廿九日 鹿児島市参事会 鹿児島市長 上村慶吉
陸軍大臣子爵寺内正毅殿
内務大臣 原 敬 殿」

ところが、陸軍省は“売却予定地になっている”として交渉は決裂。
皇太子殿下来鹿の期日は迫っていました。
そこで鹿児島市は、山頂の展望所設置と照国神社西側登山道拡修、岩崎谷口道開設の許可だけをとりつけ、急ぎ工事を進めたそうです。

勝目清さんの『少年時代の親友』によると、「明治40年、大正天皇の皇太子時代、城山に登られた時、照国神社横から今の展望台を経て、岩崎谷の南洲翁洞窟に降りる道らしい道が出来た。それでも車の通れる道ではない。皇太子も徒歩で、照国神社横の急坂を登られた。」

また、龍野定一さんの『城山の回想』で、「照国神社に参拝し、左横の小径を登って城山の頂上に駆け登り・・・。この小径は明治40年の秋、大正天皇が皇太子であられたとき鹿児島に行啓され、山頂にご案内申すために、りっぱな階段のある道路に改造されたものであった」とあります。
現在も、照国神社の西側に城山に登る階段の道があります。かなり勾配のきつい階段です。
神社の裏には、旧道の一部が残っているようですから、そのことを言っているのかもしれません。
勝目さんと龍野さんが記述している道が、どの道のことを言っているのか、まだ分かりません。


皇太子殿下の来鹿
明治40年10月26日、皇太子殿下は、御召艦香取ほか14隻の艦隊を従えて錦江湾に入られました。
市民は熱狂的なお迎えをしたそうです。
桜島沖では、島民がボートレースを披露。海岸沿いの一帯は黒山の人だかりでありました。

殿下は磯庭園、七高造士館などを視察。
三日目の28日、この日は抜けるような青空のもと、皇太子殿下は城山に登られました。
この日、登山道は掃き清められ、落ち葉ひとつないほどであったそうです。

午前11時半、殿下は人力車で登り口にお着きになりました。
有川貞寿市長、海軍大将東郷平八郎、村木侍従武官、伯爵樺山資紀、男爵鮫島員規、小澤武雄陸軍中将、鹿児島市名誉職員らが随行したそうです。
この日、皇太子殿下は元気がよく有川市長とともに常に先頭を歩かれたそうです。
カーブにさしかかる度にお伴の方が遅れがちとなり、二番目の急カーブになると、東郷大将らはずっと遅れてしまったそうです。

このとき皇太子殿下は、「足の弱い者は、後から来てもいいよ。市長、行進、行進」とおっしゃったそうです。
大正天皇といえば、健康不安に悩まされたという印象が強いのですが、この日は驚くほど元気であったようです。

展望台では、昼食をはさんで2時間近くも休憩。
桜島を食い入るようにご覧になっていたそうです。
そして、西南戦争の経過を詳しく聞かれた後、弾痕の残る木を持ち帰るよう侍従に指示されたそうです。

午後1時40分、皇太子一行は下山し、馬乗馬場を経て新照院越の一孤松に御手を掛けさせられて西田方面を眺められました。
皇太子が手を掛けられた松のことを、「御手掛松」と呼ぶようになったそうです。

その後、南洲翁洞窟に立ち寄り、南洲翁終焉の地を過ぎてお帰りになったそうです。

本格的な登山道
山頂一帯の譲与を渋り続けていた陸軍省は、皇太子来鹿から3年後の明治43年、山頂と傾斜地の譲与を許可しました。
展望台や道路などが整備され、行楽地としての城山がスタートすることになりました。

鹿児島市は明治43年7月、照国神社東口から七高の上を通って山頂にいたる市道建設に着手。延長854m、幅3.6mの幹線を通し、これに5本の支線を設けるという計画でありました。総工費3,988円10銭であったそうです。
そうして、幹線・支線ともに同年12月には完成しました。
道路に沿って、桜・桃・カエデ・梅などの花木、クス、赤松、杉などの苗木が植えられたそうです。

工事の最中、西南戦争で打ち込まれた砲弾と貝類の化石が発見されました。
貝類の化石は、かつて城山が海底にあったことを裏付ける証拠で、とても重要な発見であったそうです。
貝類の化石と砲弾は、「城山公園開墾の記念物」として保存されているそうです。

その後、5つの支線は途中で埋まったり、昭和前期に造られた道路に統合されたりするなどで、はっきりした跡をとどめていないそうです。
城山登山道は、昭和に入ると様々な学者を巻き込んで大論争を戦わせることになります。
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