2014年11月03日

大正天皇と城山

展望台への道
鹿児島県から鹿児島市に譲渡された城山公園、少しずつ整備・拡充されていきました。
しかし、敷地は城山の麓に限られ小規模な公園にすぎませんでした。
明治40年、皇太子殿下(のちの大正天皇)の鹿児島ご訪問が決定。
皇太子殿下の来鹿は、城山公園発展の大きな契機となりました。

皇太子殿下のご来鹿という知らせが鹿児島市に届いたのは、明治40年夏のことでした。
さっそく、市では奉迎準備委員会を立ち上げ、プランを練り始めました。
「鹿児島にお出でいただく以上、城山にだけは何としてでも登っていただきたい」という意見が出されたそうです。

当時、城山の登山道は旧藩時代の照国神社側と新照院口、岩崎谷の3ヶ所でした。
道といっても、藪をかき分け、人ひとりがやっと通れる程度のものであったそうです。
とても、皇太子殿下を案内できる状態ではありませんでした。
そこで、鹿児島市は陸軍が管轄する山頂一帯の譲与願いを提出。
譲与の必要性を切々と説き、必死さの伝わる文章になっています。
あて先は、陸軍大臣と内務大臣。
写しが大正5年発行の『鹿児島市史』に掲載されています。
「明治四十年七月廿九日 鹿児島市参事会 鹿児島市長 上村慶吉
陸軍大臣子爵寺内正毅殿
内務大臣 原 敬 殿」

ところが、陸軍省は“売却予定地になっている”として交渉は決裂。
皇太子殿下来鹿の期日は迫っていました。
そこで鹿児島市は、山頂の展望所設置と照国神社西側登山道拡修、岩崎谷口道開設の許可だけをとりつけ、急ぎ工事を進めたそうです。

勝目清さんの『少年時代の親友』によると、「明治40年、大正天皇の皇太子時代、城山に登られた時、照国神社横から今の展望台を経て、岩崎谷の南洲翁洞窟に降りる道らしい道が出来た。それでも車の通れる道ではない。皇太子も徒歩で、照国神社横の急坂を登られた。」

また、龍野定一さんの『城山の回想』で、「照国神社に参拝し、左横の小径を登って城山の頂上に駆け登り・・・。この小径は明治40年の秋、大正天皇が皇太子であられたとき鹿児島に行啓され、山頂にご案内申すために、りっぱな階段のある道路に改造されたものであった」とあります。
現在も、照国神社の西側に城山に登る階段の道があります。かなり勾配のきつい階段です。
神社の裏には、旧道の一部が残っているようですから、そのことを言っているのかもしれません。
勝目さんと龍野さんが記述している道が、どの道のことを言っているのか、まだ分かりません。


皇太子殿下の来鹿
明治40年10月26日、皇太子殿下は、御召艦香取ほか14隻の艦隊を従えて錦江湾に入られました。
市民は熱狂的なお迎えをしたそうです。
桜島沖では、島民がボートレースを披露。海岸沿いの一帯は黒山の人だかりでありました。

殿下は磯庭園、七高造士館などを視察。
三日目の28日、この日は抜けるような青空のもと、皇太子殿下は城山に登られました。
この日、登山道は掃き清められ、落ち葉ひとつないほどであったそうです。

午前11時半、殿下は人力車で登り口にお着きになりました。
有川貞寿市長、海軍大将東郷平八郎、村木侍従武官、伯爵樺山資紀、男爵鮫島員規、小澤武雄陸軍中将、鹿児島市名誉職員らが随行したそうです。
この日、皇太子殿下は元気がよく有川市長とともに常に先頭を歩かれたそうです。
カーブにさしかかる度にお伴の方が遅れがちとなり、二番目の急カーブになると、東郷大将らはずっと遅れてしまったそうです。

このとき皇太子殿下は、「足の弱い者は、後から来てもいいよ。市長、行進、行進」とおっしゃったそうです。
大正天皇といえば、健康不安に悩まされたという印象が強いのですが、この日は驚くほど元気であったようです。

展望台では、昼食をはさんで2時間近くも休憩。
桜島を食い入るようにご覧になっていたそうです。
そして、西南戦争の経過を詳しく聞かれた後、弾痕の残る木を持ち帰るよう侍従に指示されたそうです。

午後1時40分、皇太子一行は下山し、馬乗馬場を経て新照院越の一孤松に御手を掛けさせられて西田方面を眺められました。
皇太子が手を掛けられた松のことを、「御手掛松」と呼ぶようになったそうです。

その後、南洲翁洞窟に立ち寄り、南洲翁終焉の地を過ぎてお帰りになったそうです。

本格的な登山道
山頂一帯の譲与を渋り続けていた陸軍省は、皇太子来鹿から3年後の明治43年、山頂と傾斜地の譲与を許可しました。
展望台や道路などが整備され、行楽地としての城山がスタートすることになりました。

鹿児島市は明治43年7月、照国神社東口から七高の上を通って山頂にいたる市道建設に着手。延長854m、幅3.6mの幹線を通し、これに5本の支線を設けるという計画でありました。総工費3,988円10銭であったそうです。
そうして、幹線・支線ともに同年12月には完成しました。
道路に沿って、桜・桃・カエデ・梅などの花木、クス、赤松、杉などの苗木が植えられたそうです。

工事の最中、西南戦争で打ち込まれた砲弾と貝類の化石が発見されました。
貝類の化石は、かつて城山が海底にあったことを裏付ける証拠で、とても重要な発見であったそうです。
貝類の化石と砲弾は、「城山公園開墾の記念物」として保存されているそうです。

その後、5つの支線は途中で埋まったり、昭和前期に造られた道路に統合されたりするなどで、はっきりした跡をとどめていないそうです。
城山登山道は、昭和に入ると様々な学者を巻き込んで大論争を戦わせることになります。
posted by ぶらかご.com at 22:32| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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