2014年11月06日

皇太子ニコラス殿下来麑記念碑

■ ニコライ2世来鹿
照国神社横の探勝園から城山自然遊歩道を行くと、山手の方に『露国皇太子ニコラス親王殿下来麑記念碑』が建っています。

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ニコラス殿下とは、ニコライ=アレクサンドロ=ヴィッチ=ロマノフ、ロシア帝国最後の皇帝となるニコライ2世のこと。
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後に日本は、ニコライ2世治世のロシアと戦争をすることになります。
鹿児島にやって来たのは、日露戦争よりも前の明治24年(1891)のことでありました。
世界史にも登場する人物の記念碑にしては、木立のなかでひっそりと建っています。

ニコライ2世は両親の勧めで、1890年10月から1891年8月にかけて世界各地を旅行することとなりました。旅行の中心地はイギリスとロシアが勢力圏争いをしている極東。
エジプト、英領インド、コロンボ(英領セイロン)、英領シンガポール、サイゴン(フランス領インドシナ)、オランダ領東インド、バンコク(シャム)、英領香港、上海と広東(清)を歴訪した後、最後の訪問国として日本にやって来ました。

明治24(1891)年4月27日、ニコライ皇太子を乗せたロシア軍艦が長崎に寄港し、5月19日まで日本に滞在。
日本政府は未来のロシア皇帝を国賓待遇で迎え、その接待を念入りに準備していたそうです。

■ 準備に大忙し
大正5年刊『鹿児島市史』によると、帝都東京よりも前に鹿児島に来られるというのはとても光栄なことという旨のことが書かれています。
国賓として迎えるため、鹿児島県知事山内堤雲は市町村長に対して注意事項を告げました。
●御道筋はもちろん、御見通の場所に於いて干物を為し又は汚穢の物品などを出してはいけない。
●御通行の際は御道筋に牛馬車を引入れてはならない。
●御道筋住居の者は屋内見苦しくないように注意すべきである。
●御通行の際、道路を横切ってはならない。
●御通行の際、御道筋に沿う高所または樹木等に登ってはならない。
●拝観人は路上に在りては立礼のこと。などなど。
その他、接待の順序や送迎などについての段取りが事細かに決められていたようです。

■ 明治24年5月6日
この日は今にも雨が落ちてきそうな曇り空、ただ風は穏やか。錦江湾の波も穏やかでありました。いづろ通りから海岸一帯は、歓迎の市民たちで山のような人だかり。
そして、みな手を額にして御召艦の到着をまっていました。

午前7時、パミアットアゾバアー号・ウラジーミルモノマッ号・アドミラルナヒーモフ号、3隻の船は日本海軍八重山を先導にして、湾内に入って来ました。
軍艦、武蔵・高雄・八重山には日章旗とロシア国旗が翻り、21発の祝砲が放たれました。
ロシア艦からも21発の答礼砲が放たれました。
午前8時30分、ロシア艦投錨。旧台場から花火21発が打ち上げられました。
桟橋には鳥居形の大緑門を設け、日露の国旗を交差させていました。
また、日・露・ギリシャの旗章を記した提灯を吊るして飾っていたそうです。

午前9時25分、ロシア皇太子ニコラウス親王殿下、桟橋に到着。
公爵島津忠義公が出迎え、皇太子を人力車に乗せると、いづろ通りから広馬場に出て朝日通りから県庁に入っていきました。
沿道には島津家の人々や県・市の職員、教師、生徒、一般の人たちが歓迎のために並んでいたそうです。
県庁ではニコラウス皇太子とギリシャ親王のふたりに、『麑海魚譜』『烟草図書』を献上しました。また桜島大根、夜光貝、ソテツなどをご覧になったそうです。

県庁を出た一行は、山下町の授産場を訪問。授産場では煙草・織物・押絵が献上されました。
ニコラウス親王は、ここで巻タバコ数箱をお買い上げになったそうです。
授産場を後にしたニコラウス親王は、名山小学校へ入られ昼食をとられました。
名山小学校は歓迎場となっており、講堂に玉座を設け正面入り口に日・露・ギリシャの国旗を掲げていました。廊下の両側には活花を飾り、玉座の四隅には古画名幅を掛け、金屏風で装飾してあったそうです。
校庭では撃剣や棒踊りなどが奉納され、ロシア軍艦乗り込みのカメラマンが撮影していたそうです。

■ 犬追物をご覧になる
山下小学校を後にして、皇太子一行は田ノ浦の陶磁器製造所へ行き、ここで買い物をされたそうです。
そうして磯の島津邸に入られました。
正門には島津公爵長崎式部官などが出迎え、ニコラウス殿下一行は外庭丘上に設けられた桟敷へと案内されました。

ここでは東郷重持の腰矢と数矢をご覧になりました。
次に2島津家令息秀丸君に引率された200名の甲冑武者が、古式の武士踊りを演じました。
次に島津忠義公をはじめとした人たちによって、乗馬場にて略式の犬追物が演じられました。なかでも忠義公と東郷重持の技が最も軽妙であったので、見るもの賞賛の声を上げるものであったそうです。

ニコラウス親王は、武士踊りの起源や沿革について細かなことまで尋ねられたそうです。
他にも様々なお尋ねがあったようですが、薩摩独特の統治制度であった102の都城のことについて熱心に尋ねたそうです。
都城に配置された武士が平素は農耕に従事していること、戦がおこるや直ちに兵となって戦場に駆けつけることを聞かれました。
すると、皇太子は「それは我がロシアのコサック兵の制と同じようなものだ」と言って賞賛したそうです。

そうして夕刻、皇太子一行は磯御殿前から端艇に乗り、お召艦に帰られました。
午後6時40分、ロシア艦は護衛艦高雄他二隻の船と共に錦江湾を後にしたのでした。

■ 大津事件
5月11日、大津に入った皇太子一行は琵琶湖や唐崎神社を見学。
大津から京都へ戻る途中のことです。
警護に当たっていた巡査津田三蔵が、人力車に乗っていた皇太子をサーベルで斬りかかったのでした。
さいわい、命に別状はなかったのですが、頭蓋骨に裂傷が入るほどのケガを負いました。

ロシアの報復を恐れて世間は騒然、明治天皇自ら皇太子を見舞うという事態にまでなりました。
政府は日本の皇室に対する犯罪の刑罰を適用して死刑にするよう司法部に圧力を掛けましたが、大審院はこれを拒否。部下を指揮して一般の謀殺未遂罪として無期徒刑の判決を下して、司法権の独立を守ったと言われています。

この事件以降、ニコラウス皇太子は日本人に嫌悪感を持つようになり、ことあるごとに日本人を「猿」と呼ぶようになると言われています。ロシア首相セルゲイ・ヴィッテはニコライ皇太子の日本人蔑視が後の日露戦争を招いたと分析しているそうです。

それ以前の日清戦争直後から、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世らが「黄禍論」を盛んに唱えていたことから、その影響を受けていたと思われます。
そこへ大津事件で負傷したわけですから、日本(人)への心象は悪化したのではないかとおもわれます。
「黄禍論」は、黄色人種が白人をアジアから駆逐しようとするのではないかと警戒し、ヨーロッパ諸国はキリスト教文明を守るためにこれと対決すべきであるとする主張です。
黄禍論は、当時の外交的駆け引きのための方便と取ることもでき、単に人種差別の点からみるのはどうかと思われます。

■ 記念碑の建立
大津事件が起こると、「ロシア軍が攻めてくるのではないか」という不安が社会を覆いました。この不安は、鹿児島も同様でありました。
そこで、鹿児島県知事山内堤雲は流言飛語を防止することに努めるよう訓示しています。

また、島津忠義公は大津事件を耳にすると、鹿児島市長と共に皇太子を見舞うため京都へ出向いています。
明治25年、鹿児島市ではニコラス皇太子が来鹿したことを記念して、城山麓に記念碑を建てました。題して「露国皇太子ニコラス殿下来麑記念碑」というと『鹿児島市史』(大正5年)に記述されています。

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この記念碑は、城山公園自然遊歩道から外れた木立のなかで、ひっそりとたたずんでいます。
posted by ぶらかご.com at 00:06| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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