2014年11月10日

城山に車道を通す

■ 城山に車道を
市民憩いの場として訪れる人が多くなった城山、昭和の初めまで比較的広い登山道が9本通っていいましたが、車の走れる道路は一本もなかったそうです。
お年寄りや子供のなかには、展望台まで登ることのできない者もありました。
昭和5年、在郷軍人会連合会長であった宅間豊彦氏が主となって、「在郷軍人の労働奉仕によって城山に車が通れる道を造ろう」という話が市長に申し出られました。
市長も賛同して、着々と準備を進めていました。

鹿児島市としては大賛成であったようです。
昭和4年4月16日、広島で全国市長会が行われました。
市長会終了後、鹿児島市の代表たちは大阪、京都、門司、久留米の市庁舎その他を視察。
京都市には観光課があり、観光事業に力を入れていることに気づいたそうです。
京都市地図など、とくに観光客が分かりやすいように工夫され、各種の観光地説明書などができていたのでした。
これに触発されて、鹿児島市では勧業課に観光係を設けることになりました。
そうして、「史と景の国」というキャッチフレーズができたそうです。
観光客誘致のひとつとして、車道建設はうってつけであったようです。

計画では照国神社東側道路から展望台まで155m、幅4.85mの道路を新設。明治44年に建設した旧道の半分を生かしながら勾配を緩くしようとするものでした。
必要な作業員約6000人、工費約5500円の予算をたてました。
在郷軍人会は第六師団に工兵隊の出動や工事用道具の借用を交渉。はじめ5000人を動員し2日半の作業で済ませる予定でした。
在郷軍人会連合会では工事の分担区分を決め、鹿児島市に工事費の一部として1000円を寄付しています。

在郷軍人会が交渉した第六師団は、熊本市の花岡山に車道をつくったという実績がありました。車道のおかげで、だれもが気楽に花岡山を訪れることができるようになっていました。

城山の車道建設計画が具体化するにしたがい、反対運動が盛り上がりだしました。
“開発”と“自然保護”という問題の先駆けであったかもしれません。
反対運動は一般市民だけでなく、学者にも広がり、学問上の反対は全国的な規模にまで広がったそうです。

■ 反対運動
当初の反対運動は、敬天舎や大道館、共立学舎などが反対を表明していました。
「南洲翁らが血を流した聖地を自動車の排気ガスで汚せるか」といった、“聖地としての城山”を意識してのものであったようです。
反対運動が広まるにつれ、学者グループが学問的立場から自然保護に立ち上がりました。
昭和6年1月下旬ごろになると、反対運動は政界や文部省にまで影響したそうです。
1月25日には、文部省から脇水鉄五郎博士(地質学)が現地調査に入り、27日に実地見分しています。
その後、文部省から「調査が終わるまで工事を中止せよ」という指令が届き、工事は一時ストップすることになりました。
2月9日、「工事施工さしつかえなし」電報が届き、二ヶ月にわたって繰り広げられた問題に幕が降ろされたのでした。

■ 工事開始
2月11日の紀元節を起工式とさだめ、その日から在郷軍人会は物すごい勢いで工事に着手したそうです。
工事は7つの工区に分けられ、それぞれ分会ごとに分担区域が決められていました。
bP名山分会、2中洲分会、3八幡分会、bS西田分会、5山下分会、6大龍分会、7草牟田分会。
この工事では、婦人会が炊き出し、中洲・荒田2つの小学生や袴姿の女学生までもが応援に来たそうです。
多いときは2000人を超える人海戦術で工事は進み、3月上旬には完成しました。
そうして、3月10日の陸軍記念日には華やかな完工式が行われ、新設道路でリレー競争が行われたそうです。

■ 天然記念物指定
工事が完了した3ヶ月後の6月1日のことです。文部省が城山公園を「天然記念物・史跡」に指定。正式な告示は6月3日、史跡名勝天然記念物保存法(大正8年4月10日制定)によるものでした。
当時、鹿児島県下では唯一の「天然記念物・史跡」として国の指定を受けたのでした。
指定の決め手は、道路建設に反対した博物学会を中心とした学者グループの意見であったそうです。

この指定によって問題になったのは、出来たばかりの道路でした。
城山東北部の半分にあたる地域が指定され、道路はその真ん中を走っていました。
文部省によれば、「自動車の排気ガスが植物を害するおそれあり」という見解。
最終的な判断は、鹿児島県当局に委ねられました。
当時の県知事は山口安憲、「車道は必要」という考えをもっており、文部省と鹿児島市との板挟みにあっていました。
そこで、“高貴な人”だけを例外として自動車乗り入れを許可し、一般人は一切禁止としました。ちなみに、この道路を自動車で走ったのは昭和33年4月に訪問された天皇・皇后両陛下が展望台から鹿大に向かわれたときだけであったそうです。

■ 岩崎谷側車道
世論を二分して大きな騒動まで引き起こした末の道路でありながら、自動車通行禁止となった新しい車道。
鹿児島市では、再度計画を練り直すことになりました。
昭和9年、岩崎谷側道路を改修。このとき問題が起こることはなく、順調に出来上がったそうです。
これが、西郷洞窟前を走る車道になるそうです。
また、西郷洞窟から少し上ると、右手に階段がでてきますが、車道が出来る前の旧道の一部になるそうです。

siroyamakyudo1.jpg

その旧道を登ると左手に入口を塞がれた防空壕跡、登りついたところに信号がでてきます。
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それを渡って遊歩道を進むと、薩軍本営跡裏手を通って、展望台へと出てきます。

■ 余談ですが、第六師団長のこと
新設の車道を造る際、第六師団の話に触れました。
当時第六師団の師団長は、荒木貞夫という人物でした。
戦後、A級戦犯として東京裁判で裁かれ、終身刑となった人物です。
昭和30年病気のため仮出所し、その後釈放されています。
『勝目清回顧録』に、次のような随筆が掲載されていました。

「もう一つは荒木第六師団長である。この工事には初めから十分了解のうえ始めたものであったが、反対運動が起こってから積極性がなくなったので、宅間在郷軍人分会長と熊本まで出かけて打ち合わせるけれども、ヌラリクラリではっきりしない。
工事が始まってからももちろん、熊本花岡山道路工事のように工兵隊は出してくれなかった。
不賛成なら不賛成で男らしく行動してもらいたかったが、工事を始めたら、鹿児島の連隊に工事器具は貸与差支えなしと内密に指令されていたそうで、器具の借用はできた。実にりこうなやり方だ。

“ひとつ軍人は要領を第一とすべし”と称していたから、荒木師団長初め頭のいい軍人がいたのだろう。このような利口な軍人が、こんどの戦争を指導したから、下手な戦争になったのではあるまいか。
私が接した東郷元帥、山本大将、地元では大久保中将そのた明治維新から日清・日露と本当に弾丸や剣の下をくぐった将軍連中とは段違いだった。」
posted by ぶらかご.com at 11:00| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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