2014年11月13日

城山と防空壕

壕掘り
太平洋戦争開戦当初、破竹の勢いをみせていた陸海軍部隊、昭和17年5月の珊瑚海海戦や同年6月のミッドウェー海戦以後、戦況が怪しくなり始めていました。
翌年2月のガダルカナル戦、5月にはアッツ島守備隊が玉砕。
昭和19年7月には、絶対国防圏のひとつであったサイパン島が陥落すると、戦況は日本軍にとってかなり不利なものとなっていました。
この頃、「本土決戦」の噂が広まり始めていたそうです。

昭和19年ごろの鹿児島にあって、敵機が空から襲ってくるという恐怖はありませんでした。
その日に備えて、空き地を持つ人はそこに防空壕を造り、空き地のない人たちは共同のものを空き地に造りました。
ついには城山や武岡、近郷の岡の下に町ごとの公共防空壕を掘らなければならない状況になったそうです。
そうして、自分の町の壕は自分たちで、爆風のことを考えて「コの字型」に掘らねばならなかったそうです。

国から補助費がでるようになると、防空壕は争って掘られるようになったそうです。
鹿児島はシラス地帯が多く、他県にくらべ相当掘りやすかったようです。
鹿児島県庁は岩崎谷への通路に沿って防空壕を掘り、黎明館裏手には陸軍通信部隊のものがあったそうです。

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遊歩道沿いに入口が塞がれた壕が残っていますが、それのことかもしれません。
壕の周りに案内板がありませんので、筆者の憶測になります。
鹿児島の場合、戦時中の遺物に関して関心がないのかもしれません。
防空壕が盛んに掘られるようになって、城山全体でおよそ100個を超えるそうです。

T字型防空壕
防空壕のなかで、最大規模のものが城山に計画されました。「T字型防空壕」と呼ばれます。
照国神社横から新照院山手のほうへ一直線に200mほど掘り、これと直角に交わるように新上橋電停付近から300m掘り進めT字型に連結しようというものでした。
2つの壕を幹線にして、壕の左右に横穴を掘って市役所や銀行、郵便局、その他の施設が入るように計画されました。

市施設課の直営工事で新川組が請け負いました。
昭和19年9月15日、起工式をすますと工事が着々と進められていきました。
このとき、幹線となる壕の高さを3m、幅3mの穴にすることが決められ、一昼夜三交代の突貫工事が始まりました。
ツルハシとシャベルだけの手掘りでありましたが、シラス土壌のため工事は順調に進んだそうです。
掘り出された土で低地を埋めたり、馬車で運んで甲突川の河原に捨てていたそうです。
投入された労力は、1万人も及んだということです。

終戦までに照国神社と新照院を結ぶトンネルは完成しましたが、新上橋からのものは200m掘り進んだところで終戦を迎えたそうです。
新上橋からの工事中に、西南戦争時代の地下室が発見されたそうです。地下室はおよそ4m四方、車座で10人は座れる広さであったそうです。
戦後、地下室は防空壕とともにコンクリートで塞がれたそうです。

新上橋側から掘り進められていた壕には、もうひとつエピソードがありました。
昭和20年4月8日、新上橋電停の工事現場で大惨事が発生しました。
空襲警報が鳴り、近くの住民数百人が壕に殺到。
壕入口のすぐ近くに250s爆弾が着弾、入口付近にいた数十人が生き埋めとなってしまいました。壕内にいた人たちも爆風で倒され、悲惨な状況となりました。
鹿児島市で土砂を掘り起し、死体を収容しましたが、壕内では死臭がただよい酢を散布しながらの作業であったそうです。
『写真と年表でつづる かごしま戦後50年』の3ページ目に、昭和22年頃の新上橋電停付近を撮影した写真が掲載されています。防空壕前を木炭バスが走っています。
参考にしてみてください。

終戦直後の城山の様子
終戦直後、市街地の9割が焼かれた鹿児島市には、公有地・私有地を問わず、家を焼かれた人々がバラックを建て仮住まいを始めました。
多くの防空壕が残っていた城山は、かなり絶好の場所であったようです。

壕のなかにムシロを敷いて、ランプで生活する人々が殺到したそうです。
当時、行政は混乱しており、庶民たちは自力で生き抜く以外、すべがありませんでした。
土地を持たない人々は、城山にバラック住宅を次々と建てたそうです。
昭和21年頃には200人が生活していたとのこと。
この付近では、ケンカや売春など悪の巣窟にもなっていました。

鹿児島市がこの問題に手をつけたのは昭和33年頃からであったそうです。
観光ブームが盛り上がり始めた昭和30年頃から、鹿児島市や県に観光客や市民から苦情の手紙が舞い込むようになりました。
鹿児島市でも昭和36年6月に都市公園法の適用に踏み切り、建築基準法・都市公園法・文化財保護法の3つの違反として立ち退きを勧告しました。
昭和36年には電灯もつくようになり、居座りの大きな要因にもなったそうです。
立ち退きと居座りの問答は決着がつかず、昭和41年6月の集中豪雨で城山の傾斜地が崩れて不法住宅一軒がシラスに埋まり、死者1人を出す事故が発生しました。
この事故がきっかけとなって、公園整備と危険地区整備の両面から、退去問題が再び起こったそうです。

高成長時代にあった昭和40年代、城山には、まだまだ戦争の傷跡が残っていた所であったようです。
posted by ぶらかご.com at 00:00| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする