2014年12月31日

マリンパーク

与次郎ヶ浜のところで記述するつもりだったのですが、すっかり忘れていました。
いま市民文化ホールの裏手辺り、長水路のところに“マリンパーク”と呼ばれる施設がありました。
クリーム色の塔先端に、サッカーボールのような球体が刺さったような形で、塔へ行くには、鉄製の橋を渡った覚えがあります。
また、長水路のなかでは足漕ぎのボートがあったと思います。
小さいころの記憶のため、かなり曖昧で申し訳ありません。

かごしま市民の広場』、昭和47年8月1日号と昭和46年1月1日号にマリンパークの図面や画像などが掲載されています。興味のある方はアクセスしてみて下さい。

かごしま市民の広場より
記事によると、「与次郎ヶ浜は、市民のレクリエーションセンターとしてまた、観光・スポーツセンターとして、埋立後、施設の整備が、着々と進められていますが、その中でもシンボルタワーと海中レストランは、世界でも珍しい施設ということで、市民のみなさんに最も期待されているものです。」

「このシンボルタワーは、埋立地の先端、外部護岸と内部護岸にはさまれた幅50m、延長1600mの長水路中央部に建てられ、タワーの海中部分がレストランになっています。
構造は、鉄骨鉄筋コンクリート造りで、塔の高さは海面の上が47.3m、海面の下が9.7mです。
タワーは大きく分けて4つの部分、すなわち、連絡橋を含む一階部分、展望台、頭部のシンボル球、海中のレストランと回廊に分けられます。」とあります。

確か、塔の部分は濃い白かクリーム色だったような気がします。
建設工事は昭和46年5月から始まり、翌年10月の国体前に終わったようです。
ちなみに、総工費8億5000万円であったそうです。
同紙に、マリンパーク内部に関する記事が次のように記されています。

シンボルタワーと海中レストラン
内部護岸から連絡橋でシンボルタワーへ
「シンボルタワーへは、内側の護岸からタワーにかけられている幅2m、長さ11.4mの連絡橋から渡って入ります。
そこが1階部分で、エレベーターホールや調理室があります。エレベーター(定員15名)はタワーの中心部を上下し、展望台から海中レストランまでを連絡します。」

海上16メートルに展望台と喫茶室
「1階からエレベーターで上ると海面から16.5mのところに面積221.6uの展望台と喫茶室があり、ここからはタワーをはさむ長水路はもちろんのこと、全面には雄大な桜島や錦江湾、うしろには与次郎ヶ浜埋立地の全景が望めます。
一般の人がのぼれるのはここまでで、その上はエレベーターなどの機械室になっています。」

当時の画像をみると、県立陸上競技場と球場、サンロイヤルホテルが建つだけの淋しい風景が広がっていたと思われます。

七色に輝く頭部のシンボル球
「タワーの先端には、アルミ製の32面鏡になった直径6.8mのシンボル球が取り付けられ、晴れた日には太陽光線を受けて七色に輝きます。
また夜間には、外部から照明を当ててその姿を、夜空にくっきりと映し出します。」

筆者がサッカーボールのような球体と思っていたのは、アルミ製の32面鏡だったようです。

泳ぐ魚を見ながら食事が楽しめるレストラン
記事によると、「次にタワーの下の海中1,2階はレストランと回廊があり、一番のみどころ。レストランと回廊の外側の壁には、1階部分に縦1m20p、横90cmの角形の窓、2階部分に直径90cmの円形の窓がそれぞれ36個取り付けられ、レストランからは海の中を泳ぐ魚を見ながらお茶や食事が楽しめます。

この窓はアクリル系のガラス4枚を合わせた薄さ7.6cmの特殊なもので、ガラスのくもりや水圧など、機能と安全を十分に考慮してあります。

一方、海中には水中照明灯が適当な箇所に配置され、夜でも窓から海中の自然が眺められるようになっています。
このほかの施設としては、非常用をかねた幅1.5mのらせん状階段が、海中2階から展望台までつけられているほか、防火・防水ドアや非常口が各所に設けられているなど、防災面の設備も完備しています。」と記述されています。

『かごしま市民の広場』昭和47年8月1日号の冒頭に書かれていますが、マリンパークは観光鹿児島の新名所としての役割を果たすはずでした。
筆者が再びマリンパークを訪れたときは、閉鎖寸前だったようです。
水槽にはクラゲと海藻が漂っているだけでした。
いつの間にか施設は跡形もなく無くなり、その場所も思い出せなくなってしまいました。




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2014年12月28日

埋もれた被爆

■ 頭を雨に濡らすなという噂
『鹿児島県災異誌』をめくっていたら、気になる項目がありました。
第4編 大気放射能の部というところです。
昭和32年から33年、鹿児島での放射能量を観測した数値が掲載されています。
そのころ、アメリカとソ連は核実験を繰り返していました。
同書では次のように記しています。

1.昭和32年(1957)4月3日、6日、10日、12日、16日にわたって、ソ連ではシベリヤ北部で一連の核実験を行った。
このため大気中に人工放射能が増加したので、鹿児島でも次のとおり異常値が観測された。
4月17日 定量63,000cpm(15.2μμc)/ℓ

2.昭和33年(1958)3月14日、24日にソ連シベリヤ北部で再び核実験を行ったので、33年3月29日242.000cpm(580.8μμc)/ℓの異常値が観測された。

3.昭和33年(1958)7月3日ビキニ環礁地帯で米国は核爆発の実験を行い、さらに12日、27日にエニウエトック環礁地帯で行った。
鹿児島では次の異常値が観測された。

7月7日 定量 17,400cpm/ℓ(42.0)μμc
定時 14,900cpm/ℓ(36.0)μμc

7月 8日 定時 9,100cpm/ℓ(22.0)μμc
7月14日 定量 25,000cpm/ℓ(60.0)μμc
定時 11,400cpm/ℓ(27.0)μμc

4.昭和33年(1958)10月1日・12日・15日・19日・20日・22日・24日・25日に一連の核爆発実験をソ連北極圏内のノバヤゼムリヤ島で行った。
このためかなり多量の人工放射能が発生し地球上に拡散し、翌年になっても減衰せず鹿児島でも次の異常値が観測された。

昭和33年10月26日 定量 25,500cpm/ℓ(61.0)μμc
          定時  4,100cpm/ℓ(10.0)μμc

昭和34年1月13日  定時 3,610cpm/ℓ(9.0)μμc
3月24日  定量 6,550cpm/ℓ(16.0)μμc


残念ながら筆者には放射能に関する知識がなく、上に示した数値がどれほどのものなかのか分かりません。
ただ、文面に”鹿児島でも次の異常値が観測された”とあることから、尋常な数値ではないのかもしれません。
筆者の両親が子供のころ、「頭を雨に濡らすな、髪が抜ける(禿げる)」と言われていたそうです。
上の数値を見るに、単なる噂ではなかったかもしれません。

■ 埋もれた被爆
ビキニ環礁での水爆実験の際、近くの海域で1,000隻近くの日本のマグロ漁船が操業していたことを伝える番組が放送されました。
NHKでは「ヒロシマが迫る”埋もれた被爆”」や日本テレビの「放射能を浴びたX年後」など。
「放射能を浴びたX年後」によると、ビキニ海域で操業していたマグロ漁船が鹿児島にも来ていたようです。
何か資料はないかと探していましたら、『鹿児島事件外史』(昭和37年刊・鹿児島新報社)に関連する記事が掲載されていました。

【 死の灰の恐怖 】
昭和28年9月、韓国によって「李承晩ライン」が一方的に設定されました。
対馬、済州島近海には串木野・阿久根・山川などから出航し、大半を李承晩ライン内で操業していたそうです。
ライン設定後は、ラインの外で操業せざるを得なくなり、漁獲高は激減してしまいました。
また、鳥島が米軍演習地になったため、県下の遠洋漁船は紀州沖、台湾近海、小笠原近海、トッラク島近海まで出ざるを得なくなりました。
当初は不安定な操業でしたが、2・3年もすると軌道に乗り始めていました。

ちょうどそのころ、昭和29年3月1日ビキニで原爆実験があり、第五福竜丸事件が起こりました。
死の灰騒動が起こったのでした。事件は静岡県焼津港を中心として起こったのですが、「汚染マグロ」の風評は鹿児島県下の漁船が採ってきた魚にまで及んでしまいました。
また、昭和33年7月14日に鹿児島の巡視船が被害を受けたことから、”死の海の恐怖”は最高潮に達したそうです。

【 拓洋・さつまが死の海に突入 】
国際地球観測年業務のひとつとして、海上保安庁の測量船「拓洋」と、鹿児島海上保安部巡視船「さつま」はビキニ西方海域で赤道海流を調査中に強い放射能を浴びてしまいました。
このうち拓洋には、南日本新聞と読売新聞の記者2人が乗船していたそうです。

拓洋が異常な放射能気団に突入したのは、北緯13度33分、東経153度34分の洋上。
ビキニから1300キロの地点で、”危険水域”から330キロも離れたところでした。
午前11時30分頃、「みなさん、ただいま拓洋・さつまは、放射能気団に入りました。高度の放射能ですから、厳重に注意してください」船内放送が危険を知らせました。
シンチレーション・カウンターで3400カウントが記されたが、時間が経つにつれカウント数は増すばかりでした。
午後10時になると、3万7千カウントという最高を記録。
前日の午前8時から8時30分にかけて、スコールも受けていました。

南日本新聞の記者は、次のように考えたそうです。
「死の海は結局、北緯14度から南に100キロ、西側は危険水域の西端から広大な範囲になるのだ。31年の第二次の調査では危険水域のスレスレで、最高130カウントを数え上げたに過ぎなかったはずだ。
それが今の調査で死の海がものすごく広くなったことだ。現在の危険水域を今後どのように設定するかが問題だ。

また、これを太平洋上のことだと見逃すわけにはいかない。この海域はビンナガ・メバチ・マグロ・カジキ漁場。放射能を運ぶ北赤道海流は、鹿児島の沿岸を洗う黒潮に通じていることだ。大変なことだ。」


拓洋とさつまは、3時間の汚染調査をしたのち、ラバウルに寄港。そこで乗組員全員の精密検査を行いました。
8月7日朝、東京港に帰り再び精密検査。全員、大した異常は認められなかったそうです。
後になってひとりの犠牲者が出て、乗組員たちは不安になったということです。

同書の記事はここまでとなっており、その後乗組員たちがどうなったのかは不明です。
精密検査を行ったとありますが、当時の医療技術がどれほどのものであったかは疑問です。
当事者たちも相当な高齢か、亡くなっていることと思われます。
この事件を掘り起こすには、あまりにも時間が経ちすぎたようです。
しかし、マスコミがこの問題を追及しているようですから、その報道を待ちたいと思います。



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2014年12月23日

観光地区条例と与次郎ヶ浜

開発と規制
かつて豊かな海辺であった与次郎ヶ浜は、昭和42年から始めった埋め立てによって109haもの土地へと変えられてしまいました。

埋立後の与次郎ヶ浜は、昭和45年に観光地区に指定され目的に沿わない建築物は建てられないことになっていました。
与次郎ヶ浜の中央部は県立野球場や陸上競技場など「スポーツ・教育ゾーン」、北側を「余暇・文化・業務ゾーン」、南側を「観光・余暇・文化ゾーン」の3つに分けられていました。

南日本新聞が平成13年に連載した「与次郎埋め立て新開地にかけた夢」によると、この地区では店舗1500u未満、生鮮3品(肉・野菜・鮮魚)は取り扱えないことになっていたそうです。
また住宅も自由に建てられず、建物を建てる際には道路から1.5m後退して建てなければならないなどの規制がかけられていました。

というのも、計画の際、「車から降りて家族連れがゆっくり散策できる空間」を目指していました。
車の乗り入れを排除した道路計画は、車社会の進展を想定していなかったようです。
そのため、与次郎ヶ浜には飲食店や量販店、自動車販売店など規模や業種も様々な店舗がバラバラに建つという状態でした。
そのうえ、各店舗の間には駐車場や空き店舗で分断されていたため、来客者の回遊性が生まれないという問題点が発生していたのでした。

鹿児島市は町内会の要望を受け、福岡から中小企業診断士を招いて診断を実施、報告書をまとめました。

生かされない提言書
報告書では、与次郎ヶ浜が目指す姿として「非日常性の訴求」ということでした。
単に観光地区条例を撤廃するだけなら、街の性格は定まらず周辺商業地との差異化もできないというものでした。
中途半端な街としてではなく、「本物の観光地区条例」を新しく打ち出すべきという提言でした。
例えば、屋内スキー場の誘致・長水路の活用など桜島と相対する立地を生かすための提言をまとめたそうです。
町内会では納得し受け止める声もあったようですが、すでに業者が根付いていたこともあり、再開発に臨もうとする機運は生まれなかったそうです。
提言は活かされないままとなってしまいました。
そうして、与次郎ヶ浜へは目的買いの客が大方となり、店から店へという人の流れは小さなものになっていました。

その後、与次郎ヶ浜にかけられていた規制は緩められ、今ではマンションや病院、大型商業店舗まで建つようになり、以前とは比べものにならないほど賑やかな街となりました。
もともとこの土地は、桜島と海の眺望に恵まれた立地を生かして観光・市民福祉に役立てようと開発され、海と引き換えにした所でもあります。
この開発が成功だったか失敗だったか、そのことは分かりません。
現在のように賑わうようになるまでには、相当長い期間が必要でありました。
posted by ぶらかご.com at 23:29| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする