2014年12月03日

明治44年の風水害

明治44年6月22日
6月13日、マリアナ群島西方に現れた台風は北西に進み、17日朝には宮古島の南島海上に達しました。台風は北に向きを変えると、18日朝、沖縄の西海上で北東に進み始めました。
同じ日の午後1時頃、奄美大島の西を通過したため、同地では非常な暴風雨に見舞われました。
名瀬の場合、午後1時から7時までの6時間雨量が142oに達しました。
その後、台風は18日午後10時頃、薩摩半島南部に上陸。九州を縦断して豊後水道に抜けました。

鹿児島観測所によると、台風の気圧は978.6mb、降水量は57o。
また、鹿児島県の被害は死者6名・行方不明48名・倒壊家屋29戸・半壊家屋68戸でありました。
台風は去りましたが、引き連れていた雨雲が残っていたらしく、3日後の21日から鹿児島市は大雨に見舞われました。
大正5年の『鹿児島市史』では、次のように記しています。

「大雨河川氾濫す。甲突川最も甚だしく、前夜来豪雨となり是日濁流大いに漲る(みなぎる)。
堤防の危険に陥りしは、新上橋の上流、西田橋の下流、武之橋の上流、すべて河西に当たる方面なり。市内橋梁の流失堤防の破壊なしといえども、西田方面より新照院町・高麗町・塩屋村・樋之口町に亘りて家屋浸水少なからず。
市はこれ等罹災者を救護して食料を給与す。其戸数西田町・西田村合して四十、高麗町十三。」

○被害状況
浸水家屋;床上17戸・床下555戸、計572戸。
全壊家屋;1戸
半壊家屋;1戸
道路の埋没;4ヶ所
道路の破損;38ヶ所
山崩れ;4ヶ所

※当時、甲突川が氾濫すると同じところが繰り返し水害に遭っていたようです。それは現在も変わらないかもしれません。
この年、鹿児島はもうひとつ台風が接近しました。『鹿児島市史(大正5年)』によると、近代絶無の大暴風であったそうです。明治44年9月21日のことでありました。

明治44年9月21日
前月の8月15日にも台風が鹿児島県を襲い、午前6時頃大隅半島の佐多周辺に上陸。
大隅半島を縦断するようにして、宮崎から豊後水道へ出て行きました。
鹿児島測候所によると、中心気圧976.3mb。九州南部は暴風雨となりました。
この台風による被害は、漁船流失1隻・漁船破損1隻・家屋倒壊1戸であったそうです。

およそ1ヶ月後の9月21日、鹿児島に非常に大きな暴風雨を伴った台風が接近しました。
各地の被害は大きく、明治32年8月の台風被害に次ぐものであったそうです。

明治44年8月18日朝、グアム島北西で発生した台風は北西に進んでいました。
20日午後、沖縄本島を通過。東シナ海に出ると、20日午後10時頃北東に向きを変えました。
21日正午には屋久島の西100kmの海上を通り、さらに東北東に向きを変えました。
そうして21日午後8時頃、鹿児島湾から大隅半島を横断して日向灘に抜けていきました。
この台風は非常に勢力が強く、九州南部を通過するころになると、中心気圧が967mbに下がり、南西諸島は非常な暴風に見舞われました。

鹿児島県の被害
死者77名・行方不明72名・負傷者40名
全壊家屋3948戸・半壊家屋1682戸・浸水家屋4062戸。
船舶流出破損は266隻にも及びました。

鹿児島市の状況
当時の鹿児島市の様子を『鹿児島市史』では、次のように記してます。
「暴風起り河川氾濫して屋舎倒壊等、被害実に算なし。
この日朝来、天曇り正午を過ぎ北東の風は雨を帯び、午後3時天候にわかに険悪となり。雷鳴これに加わり、6時過ぎいよいよ一大暴風となり、家屋倒壊、人畜の死傷、防波堤の破壊など惨状凄絶を極む。」

ここから、各町の被害状況が出てきます。
「上町方面は稲荷川氾濫。甚だしく之に沿うたる稲荷・清水・皷川・池ノ上、各町の道路は泥水混々として川に変じ、以て浸水家屋少なしとせず。
清水町田之浦より磯に通ずる海岸は、怒涛のために道路を浚われ、その状態海嘯(津波)の形跡あり。

又、大門口埋立地より洲崎に至る一帯の堤防は海嘯のために防波堤内を洗い去られ、基礎崩壊して光景惨憺たり。とりわけ破壊の大なるは運河の前面に於ける堤防にして、数町の間は旧態の存ずるなく、運河口より南方一帯十数町の新堤防は一町ほど2ヶ所決壊し、旧堤防又二十間余りの破壊を生じたり。
故に家屋建物は、此方面破壊最も甚だしく、おおむね倒壊せざるものは斜めに傾き、ほとんど完全なるものなし。浸水は刻々増して5尺以上に達し、住民最も惨状を極む。
沿岸一帯、風濤の猛烈なるは九反帆鰹船の潮見町海岸街路の中央に乗り揚げたるを見て、これを知るべきなり。」

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※大門口〜洲崎町の海岸線では、高潮が発生したと思われます。水かさどんどん増して、5尺以上になったということ、九反の鰹船が道路に乗り揚げたということを考えると、大きな高潮であったようです。
現代も気候変動が激しいものとなっていると言われています。
台風は大型化し、突風想定外のものが吹き、津波を思わせる大きな高潮が発生するという報告もあります。
実際、昨年フィリピンで発生した台風では、規模の大きな高潮が発生しました。
かつての鹿児島市でも同じような、台風と高潮の被害に遭っていたのでした。

被害状況は、甲突川近辺に移っていきます。
「甲突川、例により氾濫し、これに沿うたる新照院・西田・高麗町・樋之口・新屋敷・塩屋の各方面における浸水家屋、実に夥しく風水害同時に襲来せしを以て惨状甚だしく、午後11時、風力衰えたり。
ここにおいて市は洲崎及び大門口埋立地に於いて、洲崎方面避難者200名余りに炊出し給与をなし、市吏員警官出張して、一方罹災者を救助したり。」

翌22日、鹿児島市長は各町を巡視して、全市を5つの区に分けて被害調査に当たらせました。
第1区;川外方面
第2区;新照院町・平之町方面
第3区;塩屋・樋之口・新屋敷方面
第4区;下町方面
第5区;長田・生産町方面

○鹿児島市の被害状況
死者8人・負傷者8人。
全壊住家171棟・半壊住家174棟・破損1546棟、計1891棟。
床上浸水588戸・床下浸水2215戸。
堤防決壊3ヶ所・破損1
道路流出・埋没14ヶ所、破損54ヶ所。
橋梁流出1ヶ所・破損2ヶ所。
流出船舶28隻・破損30隻。
山崩れ;1ヶ所でありました。

救済と義援金
「実に近来絶無の大暴風なりしを以て、市は罹災者救助の申請をなす。県は罹災救助基金救助費・金418円を交付せり。これを区別して金261円を食糧費(115戸に配給)。金157円を小屋掛費(47戸に配給)に給与せり。」

この年の11月2日、侍従長日根野要吉郎という人が鹿児島市の状況視察に来られたそうです。洲崎沿岸や運河防波堤、田之浦海岸などを視察。
後日、訓令がくだり被災者にお金が下賜されることになりました。
死者8人に、金80円4銭。
傷者8人に、金16円40銭。
小屋掛料の受給者に、金175円92銭でありました。

この他にも、鹿児島県出身のアメリカ在留者や他府県在住者からも義捐金が寄せられたそうです。
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2014年12月01日

明治34年と明治40年、鹿児島市を襲った水害

過去の気候変動を研究する学問に、古気候学というものがあります。
いくつか目を通したものになかに、専門知識をもたずに読める書物がありました。
『気候変動の文明史(NTT出版)』といいます。
寒冷がちであった時代、温暖であった時代などをやさしく説いた書物です。
そのなかに、18世紀後半から19世紀初頭にかけての日本は、第二小氷期とも呼べる寒冷した時代であったそうです。
幕末以降、平均気温は少しずつ上がり始め現代にいたるそうです。

明治時代、鹿児島市は数々の風水害に見舞われるようになりました。
当時の古老ですから、江戸時代生まれの人に「六十年来の水害」と言わせるほど雨風が強まり、被害も大きくなっていたようです。
この時代の風水害は、寒冷化から温暖化へと移り変わる気候変動に要因があったのかもしれません。
今回は、明治34年の水害について触れてみました。

明治34年6月29・30日の水害
明治34年の水害は、平成5年のものと似たところがあり、雨が断続的に降っていました。
おそらく、この年は日照不足もあって農作物にも影響を与えたかもしれません。
29、30日の二日間降り続いた大雨で、甲突川が氾濫。
川沿いの町や、それより低い土地では冠水するという事態に陥りました。
大正5年の『鹿児島市史』に、次のように記しています。

「この両日間、雨大いに降る。西田、新照院、高麗町、上ノ園方面多数の浸水家屋を出し、その他被害多し。市は防水の処置を取り救助船を出し、また各罹災民家に食糧を給するなど救護につとめたり。

【 被害状況 】
浸水家屋 床上155戸・床下278戸、計433戸。
家屋半壊 2戸
堤防の破損8ヶ所
道路の破損5ヶ所
埋没・流失した田;八反三畝歩
山崩れ;16ヶ所など。

雨は30日には小康状態となったようですが、7月1日から21日まで断続的に降り続きました。

明治34年7月1日〜21日の断続的な雨
西田方面や甲突川沿岸で、多数の家屋が浸水したため、鹿児島市は応急の措置をとり、救護活動を行いました。
21日間降り続いた雨による被害は、次の通り。
負傷者2人
浸水家屋;床上137戸・床下247戸、計384戸。
全壊住家1戸、半壊住家2戸。
堤防破損14ヶ所
道路破損12ヶ所
山崩れ6ヶ所。

その後も、明治39年6月21日・明治40年6月29日、鹿児島市は大雨に見舞われました。
そのたびに、西田方面は浸水被害にあったそうです。
「甲突川の水が出た!」というと、「また西田じゃろ」と言われるほど、西田付近はすぐに水が町にあふれる所であったようです。
およそ1年後の明治40年7月6日、大雨によって甲突川は氾濫、川沿いの町だけでなく加治屋町、荒田町まで浸水する被害が発生しました。

明治40年7月6日の水害
この水害は梅雨前線によるもので、低気圧が東シナ海を通り、6日、九州を縦断したため九州南部は大雨となりました。
鹿児島は、6月29日に続いての大雨となっており、降水量100oを超える所が多かったそうです。もっとも多い所では400oを超えていました。
鹿児島市内の大部分の家屋は浸水。
鹿屋地方では、家屋流出10戸・半壊9戸、浸水255戸、橋の流出、堤防の決壊、田畑の流出など大きな被害を受けました。

【 鹿児島市の様子 】
このときの様子を『鹿児島市史(大正5年)』に、次のように記しています。
「大降雨、古老曰く六十年来の大雨なりと。前日より豪雨にして是日に至てなお止まず。
午後六時頃、甲突川氾濫し西田方面一帯及び新上橋南北、新照院方面西田橋以南、下流沿岸の高麗町・荒田町方面ならびに平ノ町・西千石町・加治屋町・新屋敷町・樋之口町・塩屋の各方面にわたりて浸水し、とくに西田方面と新照院国道筋一帯最も甚だしく、濁流滔々遂に舟を浮かべて人を往来せしめたり。始めの事の急なるや、市は直ぐに各方面に吏員を分派し炊飯所を設け、一方警察と協力して避難と防水に努め、庁員ほとんど夜を徹して極力救護の事にあたりたり。
夜に入りようやく減水す。この日、稲荷川また氾濫し、附近幾多の浸水家屋を出す。

【 鹿児島市の被害状況 】
負傷者1人
浸水家屋;床上423戸・床下243戸、計666戸。
堤防の破損1ヶ所、決壊1ヶ所。
道路の破損30ヶ所
橋梁の破損1ヶ所
浸水宅地108町8反4畝歩
浸水田地15町歩
石垣の破壊3ヶ所
山崩れ2ヶ所

この水害で西田方面と新照院国道筋一帯が水没、濁流が流れたため舟で人を運搬したこと。
甲突川の氾濫によって、土地の低い新屋敷町や樋之口町、塩屋町が水に浸かったことなど。
これらの水害は、平成5年8月6日のものと同じであったと思われます。
しかし、当時の鹿児島市は宅地造成が行われておらず、山林も豊富に残っていました。
また、石井出用水や清滝川もある程度機能していたうえでの水害であったと思われます。
大正5年の鹿児島市史は、水害後どのような復興を行ったか記述がありません。
そのあたりの記事を探してみたいと思っています。


posted by ぶらかご.com at 22:49| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする