2014年12月01日

明治34年と明治40年、鹿児島市を襲った水害

過去の気候変動を研究する学問に、古気候学というものがあります。
いくつか目を通したものになかに、専門知識をもたずに読める書物がありました。
『気候変動の文明史(NTT出版)』といいます。
寒冷がちであった時代、温暖であった時代などをやさしく説いた書物です。
そのなかに、18世紀後半から19世紀初頭にかけての日本は、第二小氷期とも呼べる寒冷した時代であったそうです。
幕末以降、平均気温は少しずつ上がり始め現代にいたるそうです。

明治時代、鹿児島市は数々の風水害に見舞われるようになりました。
当時の古老ですから、江戸時代生まれの人に「六十年来の水害」と言わせるほど雨風が強まり、被害も大きくなっていたようです。
この時代の風水害は、寒冷化から温暖化へと移り変わる気候変動に要因があったのかもしれません。
今回は、明治34年の水害について触れてみました。

明治34年6月29・30日の水害
明治34年の水害は、平成5年のものと似たところがあり、雨が断続的に降っていました。
おそらく、この年は日照不足もあって農作物にも影響を与えたかもしれません。
29、30日の二日間降り続いた大雨で、甲突川が氾濫。
川沿いの町や、それより低い土地では冠水するという事態に陥りました。
大正5年の『鹿児島市史』に、次のように記しています。

「この両日間、雨大いに降る。西田、新照院、高麗町、上ノ園方面多数の浸水家屋を出し、その他被害多し。市は防水の処置を取り救助船を出し、また各罹災民家に食糧を給するなど救護につとめたり。

【 被害状況 】
浸水家屋 床上155戸・床下278戸、計433戸。
家屋半壊 2戸
堤防の破損8ヶ所
道路の破損5ヶ所
埋没・流失した田;八反三畝歩
山崩れ;16ヶ所など。

雨は30日には小康状態となったようですが、7月1日から21日まで断続的に降り続きました。

明治34年7月1日〜21日の断続的な雨
西田方面や甲突川沿岸で、多数の家屋が浸水したため、鹿児島市は応急の措置をとり、救護活動を行いました。
21日間降り続いた雨による被害は、次の通り。
負傷者2人
浸水家屋;床上137戸・床下247戸、計384戸。
全壊住家1戸、半壊住家2戸。
堤防破損14ヶ所
道路破損12ヶ所
山崩れ6ヶ所。

その後も、明治39年6月21日・明治40年6月29日、鹿児島市は大雨に見舞われました。
そのたびに、西田方面は浸水被害にあったそうです。
「甲突川の水が出た!」というと、「また西田じゃろ」と言われるほど、西田付近はすぐに水が町にあふれる所であったようです。
およそ1年後の明治40年7月6日、大雨によって甲突川は氾濫、川沿いの町だけでなく加治屋町、荒田町まで浸水する被害が発生しました。

明治40年7月6日の水害
この水害は梅雨前線によるもので、低気圧が東シナ海を通り、6日、九州を縦断したため九州南部は大雨となりました。
鹿児島は、6月29日に続いての大雨となっており、降水量100oを超える所が多かったそうです。もっとも多い所では400oを超えていました。
鹿児島市内の大部分の家屋は浸水。
鹿屋地方では、家屋流出10戸・半壊9戸、浸水255戸、橋の流出、堤防の決壊、田畑の流出など大きな被害を受けました。

【 鹿児島市の様子 】
このときの様子を『鹿児島市史(大正5年)』に、次のように記しています。
「大降雨、古老曰く六十年来の大雨なりと。前日より豪雨にして是日に至てなお止まず。
午後六時頃、甲突川氾濫し西田方面一帯及び新上橋南北、新照院方面西田橋以南、下流沿岸の高麗町・荒田町方面ならびに平ノ町・西千石町・加治屋町・新屋敷町・樋之口町・塩屋の各方面にわたりて浸水し、とくに西田方面と新照院国道筋一帯最も甚だしく、濁流滔々遂に舟を浮かべて人を往来せしめたり。始めの事の急なるや、市は直ぐに各方面に吏員を分派し炊飯所を設け、一方警察と協力して避難と防水に努め、庁員ほとんど夜を徹して極力救護の事にあたりたり。
夜に入りようやく減水す。この日、稲荷川また氾濫し、附近幾多の浸水家屋を出す。

【 鹿児島市の被害状況 】
負傷者1人
浸水家屋;床上423戸・床下243戸、計666戸。
堤防の破損1ヶ所、決壊1ヶ所。
道路の破損30ヶ所
橋梁の破損1ヶ所
浸水宅地108町8反4畝歩
浸水田地15町歩
石垣の破壊3ヶ所
山崩れ2ヶ所

この水害で西田方面と新照院国道筋一帯が水没、濁流が流れたため舟で人を運搬したこと。
甲突川の氾濫によって、土地の低い新屋敷町や樋之口町、塩屋町が水に浸かったことなど。
これらの水害は、平成5年8月6日のものと同じであったと思われます。
しかし、当時の鹿児島市は宅地造成が行われておらず、山林も豊富に残っていました。
また、石井出用水や清滝川もある程度機能していたうえでの水害であったと思われます。
大正5年の鹿児島市史は、水害後どのような復興を行ったか記述がありません。
そのあたりの記事を探してみたいと思っています。


posted by ぶらかご.com at 22:49| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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