2014年12月05日

明治45年6月15日の水害

明治44年、鹿児島市は6月と9月に2つの台風に襲われ大きな被害が発生しました。
およそ1年後の明治45年6月15日鹿児島市は大雨に襲われました。
この大雨によって甲突川と稲荷川が氾濫、西田・草牟田方面で258戸が浸水しました。
この水害の様子が、「鹿児島市史(大正5年)」に記されていました。

明け方から雨強く、正午を過ぎた頃から車軸を流すような大雨となりました。
強い雨が3時間ほど降り続いたため、甲突川は氾濫。
新上橋付近から西田方面へ濁流が流れ出し、武の田圃は湖水のようになりました。
草牟田町では堤防から水が溢れ出し、家屋は浸水し国道は急流のようになりました。
大雨によって、稲荷川も氾濫。濁流が上町一帯を襲いました。

鹿児島市は各地に職員を派遣して、被災者の救護にあたりました。
また警察と協力して西田町に2隻の船を浮かべ、通行人の保護に当たるなどしたそうです。
この水害で犠牲者はありませんでしたが、水に浸かった家屋は666戸にのぼりました。
家屋浸水が発生したのは、西田・鷹師・薬師・新照院・草牟田・池之上・皷川の七町・
市は被害に遭った200世帯に、白米8斗を支給したそうです。
被害状況は次の通り。

【 被害状況 】
床上浸水423戸・床下浸水234戸。
堤防の決壊1ヶ所、堤防の破損1戸
道路の破損30ヶ所
山崩れ2ヶ所

海老原清熙のメッセージ
明治に入ると台風や大雨のたびに甲突川が氾濫、そのたびに川沿いの町は水浸しとなりました。
甲突川の氾濫や水害は、明治初期には見られていたようで、当時冷静に見ていた人物がありました。海老原清熙といいます。
江戸時代、調所笑左衛門のもとで天保改革を実践した人物でありました。
海老原は「海老原清熙履歴概略」という文書を明治15年に著していますが、“城下河川洪水ト岩永三五郎ノ教訓等ノ事”のなかで次のように記しています。

「甲突川橋々を架し終わり、小野村・原良永吉村・伊敷村・犬迫村等より出る小川の水流堤防皆修繕し、新田溝の小川も小太鼓橋を架し、西田村水吐等皆修繕して、右の村々山野の川に沿ひたる所は開拓を禁じ、竹木を植えて修繕の要に供すべしと令じたるは、沿川の開地は雨ごとに土砂を洗い出し、川床高くなり水害となることなれば、後年にいたりこれを禁ずべしと岩永が言うことにて、それ村々へ堅く禁じたる。

御一新の際より山林開拓ということ流行して、山野皆開の法行われ、川下の浚えは廃し、川底の高くなりたるゆえ、新屋敷より沖ノ村辺りの害を生じたり。
それより遡らば新上橋辺西田みな水害を及ぼし、天神馬場・二本松馬場・山ノ口馬場・加治屋町・新屋敷、従前の溢れたる比よりも一層水難に及ばんかと思うことなり。」

海老原の指摘は、現代にも強いメッセージ性を持っているように思われます。
posted by ぶらかご.com at 22:35| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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