2014年12月08日

黒島流れ 明治28年7月24日

明治28年7月24日、鹿児島の海難史上、最悪で最大の事故が枕崎で起こりました。
この災難は「黒島流れ」または「六月流れ」とも呼ばれました。
枕崎は遠洋漁業発祥の地でしたので、昔から漁船の遭難はつきものでした。
明治時代に発生した大きなものだけでも、明治6年・17年・38年がありました。
しかし、明治28年に発生したものは、被害の規模は桁外れでした。

当時、南薩一帯の漁場は枕崎沖の黒島や宇治群島に集中していたそうです。
折からの鰹シーズンに入っており、漁船の殆どが海に出ていました。
残っていたのはわずかに片浦の半五郎船一隻だけでした。
半五郎船は、たまたま修理の最中で出漁できず、結果的に難を逃れることができたのでした。

災難の発生した日は、北東風の大漁日和でした。
が、午前10時頃、急に南東の強風に変わりました。
台風は西南海上で急速に発達、黒島付近を通過すると猛スピードで対馬海峡を抜けていきました。
このときの状況が枕崎警察署沿革史に掲載されているようすが、ここでは『鹿児島百年明治編』のものを記してみました。

「明治28年7月24日暴風あり。陸上の損害特筆すべきものなし。海上の椿事は聞くだに旋律措く能わざるものあり。これ実に509人の生霊を海底に葬りたる惨事にして、即ち東南方村枕崎、中村吉次郎外12人の所有漁業帆船13隻は出漁中、大島郡黒島近海に於いて風波のため難破し、溺死を遂げたるもの360名、同村小湊篠原益雄外2名の鰹漁業帆船3隻、また同海に於いて風波のため破船し、溺死を遂げたる者99名、西南方村泊、早水直次郎外2名の鰹漁業帆船3隻、なお黒島近海において破船し溺死を遂げたる者50名以上の死体は大部分黒島に漂着したるを以て、

南方警察分署長伊集院警部は、同島へ出張し検視をなしたるも、腐乱に近き数多の死体は其誰たるを識別するに由なく、山なす死体は石油を注ぎ焼却し、遭難者の遺族はその骨灰を分配して土葬をなしたり。
これを称して黒島流れといい、東西南方村に寡婦多きを見るはこれに基づくもの多し」

【 被害状況 】
難破した船の乗組員のなかには、黒島に泳ぎ着いたり外国船に救助された者もあったようです。それは本当にわずかでありました。
そうして、坊津165名・枕崎411名・野間池と片浦137名の計713名の命が海に飲まれてしまいました。
黒島には死体が折り重なるようにして、毎日のように打ち寄せられたそうです。
2つの悲運が重なってしまいました。
ひとつは県庁への急報が遅れたこと。もうひとつは、当時鹿児島港に救助用の汽船がありませんでした。やむなく海軍省に電報を打ち、おりから入港中の軍「海門」が現場にむかいました。
海門が現場に向かったのは、4日後の28日、すべてが遅すぎたのでした。

この大惨事に、明治天皇は枕崎・坊泊に侍従を派遣。惨状を視察させ、下賜金を賜りました。
また、鹿児島新聞は全国に広く義援金を募った結果、二千円余が寄せられたそうです。

【 残された家族 】
カツオ漁業に従事していた人々の家族は、一瞬にして男手を失い、生計の道を断たれてしまいました。
残された女たちに“人手を借りず、強く生き抜け”と励ました人物がいました。
大願寺の住職、兼広鏡真という人でありました。
当時の船主はたいてい鰹節製造も兼ねていたため、遺族救済のため彼女たちに販売(カツオ節バラ売行商)いっさいを任せることにしました。

カツオ行商は主として、枕崎の小湊地区の婦女子が多かったそうです。
当時、この一帯は大願寺の門徒が多かったからであると考えられているようです。
軒先を回る彼女たちは、「かつお節どま、おいいやはんどかい〜」と言いながら、7・80sの荷を担いで鹿児島だけでなく九州一円を回っていたそうです。
posted by ぶらかご.com at 23:47| Comment(0) | 鹿児島の災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする