2014年12月14日

与次郎ヶ浜の埋め立て

今では想像だにできませんが、かつて鹿児島市には錦江湾沿に沿って渚が広がっていたそうです。与次郎ヶ浜・鴨池海岸・谷山小松原・和田浜海岸・七ツ島など。
これらの海岸は古くから名所のひとつとされ、絵葉書や写真などの題材として親しまれていたそうです。
昭和12年の『鹿児島市街地図』には、鴨池海岸を「白砂青松風光明媚の地」とわざわざ記述するほどです。
また、鴨池町に鎮座する日枝神社境内の案内板にも、同様のことが記されています。

これらの渚は単なる景勝の地としてだけでなく、漁民にとっては生活の糧を得る所でもありました。
『鹿児島市100年』の「渚の風景」というページに与次郎ヶ浜や洲崎の浜、鴨池海岸などの写真が掲載されていますので、参考にしてみてください。
今回は与次郎ヶ浜の埋め立てについて触れてみます。

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■ 向田邦子と天保山
向田邦子『鹿児島感傷旅行』で、天保山や与次郎ヶ浜の風景を思いでとともに次のように記しています。

「天保山は、鹿児島市随一といってもいい海水浴場であった。前に立ちはだかる桜島。ひろがる錦江湾。松林がゆたかに−立ちならんでいる筈であったが−松林は、ほんのわずかしか残っていないのである。
 私が泊ったのは、この天保山に出来た新しいサン・ロイヤルホテルである。ここの東常務が私の旧友のご主人であったという奇遇もあり、消えてしまった松林と、いやに大きく見える桜島について解説をしていただいた。
 桜島が大きく迫ってみえるのも道理で、海は千メートル余も埋め立てられているという。昔、私がポチャポチャとシュミーズで泳いだり、脱衣籠に入れておいた母の手作りのキャラコのズロースを盗られて半ベソをかいた天保山海水浴場が、今、ホテルの前の駐車場のあたりでしょうといわれる」

昭和42年以降、天保山や与次郎ヶ浜の辺りはスッカリさま変わりしてしまいました。

■ 埋め立ての目的
与次郎ヶ浜の埋め立ては、昭和30年代後半あたりから構想されていたそうです。当初、鴨池空港拡張のためという考えでありましたが、空港が溝辺へ移転することになり、計画は立ち消えとなりました。
当時の鹿児島市では住宅が不足し、市民の半数にあたる約8万世帯が借家住まいをつづけていました。城山の後背部を削り取って41haの宅地を生み出そうとしていました。
また国体誘致運動が盛り上がり、主会場となる観光・スポーツゾーンを造る計画も持ち上がっていました。
与次郎ヶ浜の埋め立ては、観光開発と土地不足解消を目指す一石二鳥の大事業となったのでした。

この事業では1966年(昭和41)から1972年(昭和47)まで、約114億円をかけて埋め立て開発が行われました。
天保山公園の南側から海釣り公園付近まで約1.6kmの長水路に縁どられた109ha、東京ドームが23個入る広さだそうです。
また、桜島と海の眺望に恵まれた立地を生かして観光・市民福祉に役立てることを目的としたものでありました。

■ 与次郎ヶ浜の性質
『かごしま戦後50年』や『鹿児島市の百年』などに掲載された写真をみると、遠浅の浜が広がっているように見えます。
実際には、満潮時で30m、傾斜も急で浚渫による埋め立てでは難しい深さであったそうです。
およそ400万㎥もの埋め土を浚渫して賄おうとすると、新川の沖から土砂を運ばなければなりませんでした。
埋め立てるには、適さぬ海岸でした。

工事を手掛けたのは、昭和40年(1965)5月に設立された鹿児島開発事業団で鹿児島市の委託を受けた大事業でした。
鹿児島開発事業団は、県・鹿児島市・谷山市によって設立された特別地方公共団体。住宅難を解消するため、安い住宅を供給することが目的の事業団でありました。
1993年5月の解散まで、1号〜3号用地、伊敷、星ヶ峯団地など1244haを開発したそうです。

■ 水搬送工法
埋め立ては1967(昭和42)2月11日から始まりました。
城山団地の造成で削ったシラスを、汲み上げた海水に溶かして甲突川沿いに敷設したパイプで流し、埋め立てに利用するという工法が採用されました。
この工法は、全国初のもので国内外から注目を浴びたそうです。
工事の模様はテレビで中継され、事業団ではプロの映画監督に依頼して記録映画まで作ったそうです。

通常、護岸工事が終わってから埋め立てを始めるものだそうです。
工期と工法の関係から、護岸工事と並行して進めなければなりませんでした。
水搬送工法が終わったのは1970年春、その後も海砂浚渫による埋め立ては続き、すべての工事が終わったのは、太陽国体を終えた1972年末であったそうです。

■ 二重護岸
埋め立て前の与次郎ヶ浜は高さ3,4mほどの堤防に囲まれていました。
桜島をのぞむ景観を生かすため、堤防を低くする一方で国の高い安全基準をクリアするため護岸は二重のものとなりました。
高波が来ても間にある水路で消波できる安全性も備え、護岸沿いには幅15mの緑地帯をゆったりと設けたそうです。

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護岸の基礎となる海底にはヘドロが厚く堆積、捨石を投入しても1mほど潜り込むほどでした。
人工的につくられた与次郎ヶ浜の土地は、約800m沖に突き出る形になったそうです。

■ 埋め立てと環境問題
かつての与次郎ヶ浜では、潮干狩りができる干潟、深いところがあるなど様々な表情をもった海であったそうです。
鹿大水産学部の学生さんたちが水泳やカッター訓練を行ったほか、キス釣りやノリ、エビ、カニなどを採って煮たり焼いたりして食べたものであったそうです。
また、地引網漁も行われるほど豊かな海でした。

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与次郎ヶ浜の埋め立ては、1922年(大正11)施行の公有水面埋立法に基づいていました。
この法律には環境への視点が明確にされていないという欠点がありました。
埋め立てに当たって、漁業者以外、一般住民への説明はなく、市議会でも護岸や工事の安全面などについて議論があっただけであったそうです。

与次郎ヶ浜埋め立ての話が持ち上がったとき、市民の反対はほとんどなかったそうです。
埋め立てが9割がた終わった頃、西桜島漁協が反対を決議しましたが、これは与次郎ヶ浜だけでなく次々進む湾内開発への反発であったようです。

埋め立てが進むにつれ、海の異変に気付いた研究者もいました。
その研究者は毎月水質調査をしたそうですが、埋め立て地先で生物がとれなくなり、採泥器で採った泥は硫黄のような臭いを放っていたそうです。
また、埋め立てに使用したシラスに含まれる軽石が湾内に流れだし、びっしり海面を覆い尽くしたこともあり、漁船のエンジンや網に被害をだすということも起こったそうです。

当時、鹿児島は日本一の貧乏県で、産業・工業誘致で豊かにという時代でありました。
与次郎ヶ浜開発や宅地造成は、鹿児島市発展に欠かせないという考えが大多数であったようです。
与次郎ヶ浜は、莫大な予算と技術者たちによって困難な工事をやり遂げたのでした。
太陽国体が終わった後の与次郎は、「与次郎砂漠」と揶揄されるほど淋しい所になっていました。
posted by ぶらかご.com at 20:27| Comment(1) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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