2014年12月17日

与次郎ヶ浜の開発

与次郎ヶ浜埋め立てについては、水搬送工法が取り上げられることが多いようです。
鹿児島市史や市政だよりなどに目を通してみましたが、工法と埋立目的の記事となっています。
土地利用や埋め立て後の資料を探していましたら、平成13年の南日本新聞にいい連載がありました。
「年間企画鶴丸城400年 まち未来へ第2部 与次郎ヶ浜埋め立て 新開地にかけた夢」10回シリーズ。
埋め立てから、その後の土地利用までの問題点が記載されています。
この連載記事をもとにしました。
興味のある方は、平成13年の南日本新聞をご覧になってみてください。

与次郎開発は、三ツ井市長が構想した「大鹿児島建設」のひとつの役割を担いました。
国体誘致運動が盛り上がるなか、その主会場となる観光・スポーツゾーンを造ろうというものでした。
また当時、鹿児島市の都市機能は天文館や市役所周辺などに集中していました。都市が南に広がるにつれ、新たな都心が必要とされていました。
鹿児島市が南へ広がるのは、江戸時代・大正時代・戦後昭和と3回起きています。
土地不足解消と観光開発も目指す一石二鳥の大事業に、市民たちの期待は高いものがあったようです。
そのため、与次郎開発の計画が起こったとき、市民たちから反対の声はあまりなかったそうです。

道路計画
当時、鹿児島市の市長は末吉利雄。与次郎ヶ浜の土地利用計画を決める庁内の協議会で、「道路は桜島に向けんか」というひと声で、与次郎を東西に走る道路はすべて桜島を向くことになりました。
「どこを歩いても雄大な桜島が見えるように」という市長のこだわりであったそうです。

末吉市長は昭和42年、三ツ井市長から革新市長として「敬老パス」など福祉分野での業績が語り継がれていますが、観光立市にかける思いも強かったそうです。
東京のコンサルタント案をもとに土地利用計画がまとまったのは、昭和44年のことでした。

埋立地の中心に1972年(昭和47)の国体会場となるスポーツゾーンと市民広場を設け、南側には熱帯植物園、スポーツランドなど。北側には宿泊施設とレクリエーション・観光施設と5つのエリアに分けたそうです。
1970年市政概要によると、「与次郎ヶ浜が市民に残された唯一の海岸線となってしまった。そこで市街地に不足しているオープンスペースを確保するとともに、景観的にも緑の豊かな海岸線を形作り」と紹介しています。

パークアンドライドを目指した与次郎
埋め立てられた与次郎には、なるべく車を入れず、周辺に駐車場を造りバスなどの交通機関を利用させよう考えていました。
交通事故が起こるような場所ではなく、家族連れが安心して遊べる場所を計画しました。
与次郎の道路計画は、都市の交通量を調整するという「パークアイドランド」を先取りするようなものでした。

パークアンドライドは、都市部や観光地などの交通渋滞の緩和のため、自家用車で最寄りの駅またはバス停まで行き、車を駐車させた後、鉄道やバスなどの公共交通機関を利用して都心部の目的地に向かうシステム。
これはアメリカで普及したシステムで都心部の交通環境の悪化を防ぐほか、交通量自体が減少することから渋滞緩和だけではなく、排気ガスによる大気汚染の軽減、二酸化炭素排出量の削減といった効果も期待されています。

パークアンドライドはいいことづくめではありません。
バスや鉄道など、自動車以外の公共交通機関が十分発達している都市部では有効ですが、鹿児島のようにバス、列車の運行本数が少なく、車が生活必需品となっている地方においては効果が乏しいと言われています。
昭和40年代の与次郎開発では、パークアンドライドのような考えに沿って計画されたそうです。
考えはとてもよかったのですが、のちにマイナスの影響をもたらしてしまったようです。
これについては、次回ふれてみます。

観光地区条例
鹿児島市街にある海岸の大部分は、港湾や工業用地となっていました。市民に残された与次郎ヶ浜を利用計画に沿ってどのように処分・開発するか。鹿児島市には大きな課題が課せられていました。
埋立地の18%を占める国体用地は、県に無償で供与することが決まっていました。
そのうえ、埋め立てが完成する前の1969(昭和44)年度中に13億円の借金返済が始まるのでした。
残った土地は早く、それなりの値段で売らなければ赤字になるのでした。

都市計画法では土地を合理的に利用するため、建物の用途に一定の制限をかける地域を定めます。新しく誕生した土地を利用するため、用途地域を定めなければなりません。
市と建設省が協議して、与次郎ヶ浜には「観光地区条例」が設定されることになりました。
与次郎ヶ浜を観光地区として設定し、目的に合わない施設や建築などを規制するというものでした。
建築できるのはホテル・レジャー関係施設・飲食店・売店などに限られることになりました。
当時、全国でも例のない条例であったそうです。
乱開発は防げるという安心感はありましたが、赤字を出さないということもあり、結果的に柔らかい規制になってしまったようです。

開発の中心を担う者
与次郎ヶ浜開発の中心を担う者をどうするかで、市議会で大きな議論を呼びました。
@鹿児島市が直接、土地を売却する方法
A公社方式
B民間からの出資を募る第三セクター方式

鹿児島市は第三セクター方式を採用。1969年(昭和49)12月議会に観光地区条例とともに、与次郎ヶ浜に関する5議案を提案しました。
市議会では、第三セクター導入に相当もめたそうです。
特別委員会、本会議ともに意見が分かれたそうですが、いずれも起立採決で可決。
これによって、与次郎開発はようやくスタートすることになりました。
しかし太陽国体が終わり、その後の与次郎ヶ浜は、ちぐはぐな開発になったようです。

posted by ぶらかご.com at 23:37| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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