2014年12月28日

埋もれた被爆

■ 頭を雨に濡らすなという噂
『鹿児島県災異誌』をめくっていたら、気になる項目がありました。
第4編 大気放射能の部というところです。
昭和32年から33年、鹿児島での放射能量を観測した数値が掲載されています。
そのころ、アメリカとソ連は核実験を繰り返していました。
同書では次のように記しています。

1.昭和32年(1957)4月3日、6日、10日、12日、16日にわたって、ソ連ではシベリヤ北部で一連の核実験を行った。
このため大気中に人工放射能が増加したので、鹿児島でも次のとおり異常値が観測された。
4月17日 定量63,000cpm(15.2μμc)/ℓ

2.昭和33年(1958)3月14日、24日にソ連シベリヤ北部で再び核実験を行ったので、33年3月29日242.000cpm(580.8μμc)/ℓの異常値が観測された。

3.昭和33年(1958)7月3日ビキニ環礁地帯で米国は核爆発の実験を行い、さらに12日、27日にエニウエトック環礁地帯で行った。
鹿児島では次の異常値が観測された。

7月7日 定量 17,400cpm/ℓ(42.0)μμc
定時 14,900cpm/ℓ(36.0)μμc

7月 8日 定時 9,100cpm/ℓ(22.0)μμc
7月14日 定量 25,000cpm/ℓ(60.0)μμc
定時 11,400cpm/ℓ(27.0)μμc

4.昭和33年(1958)10月1日・12日・15日・19日・20日・22日・24日・25日に一連の核爆発実験をソ連北極圏内のノバヤゼムリヤ島で行った。
このためかなり多量の人工放射能が発生し地球上に拡散し、翌年になっても減衰せず鹿児島でも次の異常値が観測された。

昭和33年10月26日 定量 25,500cpm/ℓ(61.0)μμc
          定時  4,100cpm/ℓ(10.0)μμc

昭和34年1月13日  定時 3,610cpm/ℓ(9.0)μμc
3月24日  定量 6,550cpm/ℓ(16.0)μμc


残念ながら筆者には放射能に関する知識がなく、上に示した数値がどれほどのものなかのか分かりません。
ただ、文面に”鹿児島でも次の異常値が観測された”とあることから、尋常な数値ではないのかもしれません。
筆者の両親が子供のころ、「頭を雨に濡らすな、髪が抜ける(禿げる)」と言われていたそうです。
上の数値を見るに、単なる噂ではなかったかもしれません。

■ 埋もれた被爆
ビキニ環礁での水爆実験の際、近くの海域で1,000隻近くの日本のマグロ漁船が操業していたことを伝える番組が放送されました。
NHKでは「ヒロシマが迫る”埋もれた被爆”」や日本テレビの「放射能を浴びたX年後」など。
「放射能を浴びたX年後」によると、ビキニ海域で操業していたマグロ漁船が鹿児島にも来ていたようです。
何か資料はないかと探していましたら、『鹿児島事件外史』(昭和37年刊・鹿児島新報社)に関連する記事が掲載されていました。

【 死の灰の恐怖 】
昭和28年9月、韓国によって「李承晩ライン」が一方的に設定されました。
対馬、済州島近海には串木野・阿久根・山川などから出航し、大半を李承晩ライン内で操業していたそうです。
ライン設定後は、ラインの外で操業せざるを得なくなり、漁獲高は激減してしまいました。
また、鳥島が米軍演習地になったため、県下の遠洋漁船は紀州沖、台湾近海、小笠原近海、トッラク島近海まで出ざるを得なくなりました。
当初は不安定な操業でしたが、2・3年もすると軌道に乗り始めていました。

ちょうどそのころ、昭和29年3月1日ビキニで原爆実験があり、第五福竜丸事件が起こりました。
死の灰騒動が起こったのでした。事件は静岡県焼津港を中心として起こったのですが、「汚染マグロ」の風評は鹿児島県下の漁船が採ってきた魚にまで及んでしまいました。
また、昭和33年7月14日に鹿児島の巡視船が被害を受けたことから、”死の海の恐怖”は最高潮に達したそうです。

【 拓洋・さつまが死の海に突入 】
国際地球観測年業務のひとつとして、海上保安庁の測量船「拓洋」と、鹿児島海上保安部巡視船「さつま」はビキニ西方海域で赤道海流を調査中に強い放射能を浴びてしまいました。
このうち拓洋には、南日本新聞と読売新聞の記者2人が乗船していたそうです。

拓洋が異常な放射能気団に突入したのは、北緯13度33分、東経153度34分の洋上。
ビキニから1300キロの地点で、”危険水域”から330キロも離れたところでした。
午前11時30分頃、「みなさん、ただいま拓洋・さつまは、放射能気団に入りました。高度の放射能ですから、厳重に注意してください」船内放送が危険を知らせました。
シンチレーション・カウンターで3400カウントが記されたが、時間が経つにつれカウント数は増すばかりでした。
午後10時になると、3万7千カウントという最高を記録。
前日の午前8時から8時30分にかけて、スコールも受けていました。

南日本新聞の記者は、次のように考えたそうです。
「死の海は結局、北緯14度から南に100キロ、西側は危険水域の西端から広大な範囲になるのだ。31年の第二次の調査では危険水域のスレスレで、最高130カウントを数え上げたに過ぎなかったはずだ。
それが今の調査で死の海がものすごく広くなったことだ。現在の危険水域を今後どのように設定するかが問題だ。

また、これを太平洋上のことだと見逃すわけにはいかない。この海域はビンナガ・メバチ・マグロ・カジキ漁場。放射能を運ぶ北赤道海流は、鹿児島の沿岸を洗う黒潮に通じていることだ。大変なことだ。」


拓洋とさつまは、3時間の汚染調査をしたのち、ラバウルに寄港。そこで乗組員全員の精密検査を行いました。
8月7日朝、東京港に帰り再び精密検査。全員、大した異常は認められなかったそうです。
後になってひとりの犠牲者が出て、乗組員たちは不安になったということです。

同書の記事はここまでとなっており、その後乗組員たちがどうなったのかは不明です。
精密検査を行ったとありますが、当時の医療技術がどれほどのものであったかは疑問です。
当事者たちも相当な高齢か、亡くなっていることと思われます。
この事件を掘り起こすには、あまりにも時間が経ちすぎたようです。
しかし、マスコミがこの問題を追及しているようですから、その報道を待ちたいと思います。



posted by ぶらかご.com at 00:11| Comment(0) | 戦後の鹿児島市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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