2015年01月26日

朝鮮陶工と薩摩焼

豊臣期に起こった朝鮮の役後、九州や長州などの大名たちはこぞって陶工たちを連れて来ました。渡来の時期については各藩によって異なっているようです。肥前では文禄年間、豊前・筑前では慶長年間に渡来したという説が有力だそうです。
薩摩にあっては、文禄の役の際に若干の者が来ているようですが、渡来陶工の大多数は慶長3年(1598)頃に渡来しているようです。
その後、陶工たちは単なる捕虜ではなく、技術者として破格の待遇を受けていたそうです。

薩摩のはじまり
陶工の上陸地、渡来数、氏名などについては諸説あって必ずしも一致していないそうです。
ここでは『江戸時代人づくり風土記㊻鹿児島』を参照しました。
慶長3年(1598)、朝鮮陶工たちは四つの地点に上陸したそうです。
1.串木野市島平に43人
2.旧東市来町神之川に10人余り
3.鹿児島市の前之浜(旧喜入町の前之浜ではありません)に20人。
  この20人は、高麗町(鹿児島市)に住むようになったようです。
  この中に李金光という人物がありましたが、朝鮮国王の親族ということから朝鮮へ送り帰したそうです。
4.旧加世田市小湊に数人の陶工とその家族

渡来した陶工たちに、しばらくの間援助が差し伸べられることはなく、大変な苦労をしたようです。
というのも、当時の薩摩は朝鮮出兵の後始末、庄内の乱、関ヶ原の戦後処理など問題が山積していたからでした。
それでも、串木野に上陸した43人は自活していったようです。

薩摩焼最初の窯と苗代川
串木野島平に上陸した43人は、農業のかたわら島平東方の丘陵地に「串木野窯」を開きました。
慶長4年のこと、これが薩摩焼最初の窯となるそうです。
しかし、半農半陶の生活は周辺住民との間に諍いを生むようになったそうです。

慶長10年頃、串木野窯を操業しながら、周辺で粘土や釉薬となる原料を探していました。
そうして、苗代川を新たな移住地とし、藩の保護を受けて朝鮮式の「元屋敷窯」を築いたそうです。
翌年には朴平意が庄屋となり、陶工たちの生活はしだいに安定していきました。
元和2年(1616)には、苗代川の陶工3人を琉球へ派遣して琉球焼の指導に当たらせました。琉球王尚豊が、陶工派遣方を薩摩に要請したものだそうです。
琉球へ渡ったのは張一六・安一官・安二官の3人。
このうち張一六だけは琉球に残り、名前を仲地麗伸(なかちれいしん)と改めました。
仲地は雍正8年(享保10)、新禄を賜ったそうです。

元和9年頃、朴平意の長男貞用(ていよう)は白薩摩の原料を薩摩で発見するに至りました。原料となる粘土には指宿の白土と加世田の軟弱陶石、釉に津貫(南さつま市)の京之峯石を発見、白薩摩の製造が可能となったのでした。

寛文9年頃になると、相当安定したらしく、藩は城下高麗町にいた25家族の生活を安定させるため苗代川に移住させました。ここに「五本松窯」を築かせたそうです。
寛文12年頃には、苗代川の中心となる御仮屋が設けられ、藩主島津光久公がたびたび訪れるようになったそうです。

その後、苗代川は活況にあふれるとともに人口も増えてきました。そこで藩では、宝永元年(1704)34家族160数人を鹿屋笠野原に移住させ、「笠野原窯」を築かせたそうです。
苗代川は、藩直営の窯として操業され、製陶技術の開発が進んでいったようです。
そうして白薩摩や黒薩摩のほかに染付白磁も焼いていたそうです。

これ以降も明和元年(1764)の御定式窯、弘化3年(1846)の南京窯の築造がありましたが、廃藩によって保護がなくなり頓挫してしまいました。
明治にはいると玉山陶器会社という組織をつくりましたが、西南戦争に陶工たちが参加して戦死したことによって壊滅的な影響を受けてしまいました。
しかし、沈寿官や鮫島訓石、東郷寿勝などの窯から、慶応3年(1867)のパリ万国博覧会へ朴正官の大花瓶を出品。
また明治6年(1873)のウィーン万博博覧会に沈寿官の大花瓶の出品などによって、薩摩焼は欧米で大人気を得たそうです。

この他に竪野窯(鹿児島市)にありましたが、それについては以前ふれましたので、そちらを参照ください。
この他にも、西餅田系・龍門寺系・平佐系といった系統があったようです。
これらにつきましては、後日あらためて触れてみたいとおもいます。
posted by ぶらかご.com at 22:00| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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