2015年02月27日

幕末と明治初期ごろの浄光明寺

西郷さんや桐野利秋、篠原国幹など西南戦争で散った猛者たちが眠る南洲墓地。
藩政時代、ここには浄光明寺という薩摩でも屈指の大きなお寺がありました。
薩摩で唯一の時宗の名刹で、代々殿様の帰依と保護を受けてきたそうです。
このお寺、たびたび火災に遭い、その都度建て直されていたようです。
文久3年、最大の被害を受けることになりました。

まえんはまいっさ(薩英戦争)
文久3年(1863)7月2日、天保山の砂揚げ場台場からの砲撃によってイギリス艦との砲撃戦がはじまりました。
鹿児島には台風が近づきつつあり、7月2日のこの日は烈風が吹き荒れていたそうです。
薩英戦争を描いた絵図でも、風が吹きすさぶ様子が描かれています。

イギリス艦には新兵器、アームストロング砲が備え付けられていました。
はじめ各台場の砲台を狙い打ちし、ひとつひとつ潰していったそうです。
浄光明寺は攻撃目標となり、周辺の建物や民家などともに兵火に焼かれてしまいました。
上町の硫黄商人の倉庫に、パーシュース号のロケット弾が命中したことが火災を大きくしてしまいました。
士族の家だけでも300戸が焼失したそうです。
鹿児島県の歴史 (県史)
に、薩英戦争の戦闘経過を表した図が掲載されています。
それによると、上町で焼失した地域は小坂通りから滑川にかけてのエリアであったようです。
詳しくは、鹿児島県の歴史を参照してください。

上町は大きな被害を受けましたが、商家の多かった下町は無傷であったそうです。
斉彬公が新波止砲台を築いたとき、市街の中央前面に当たる海岸線に土塁を構築させたそうです。
また、二階造りの民家を建てることも禁じたことから、海からは市街が見えない仕組みになっていたそうです。
下町方面は、砲弾も土塁に当たるだけで被害を受けなかったようです。
土塁は、明治4年の廃藩置県の際、取り除かれたそうです。
この戦争をきっかけにして、薩摩藩は幕末史の中心に躍り出ることになりました。


その後の浄光明寺
戦火に遭った浄光明寺、いくらか再建されたようです。
三国名称図会に掲載されたような古刹であったかどうかは分かりません。
明治2年になると、廃仏毀釈によって廃寺となってしまいました。

同じ年の暮れ、イギリス人医師ウィリアム・ウィリスが鹿児島にやってきました。
新政府が医学の範をドイツ式にすることとなったため、ウィリスはクビになりかけていました。
ウィリスを救って鹿児島に招いたのが、西郷隆盛であったそうです。
来鹿したウィリスは、鹿児島医学院院長となりました。
医学校は浄光明寺跡に建ち、ウィリスはここに仮住まいしていたそうです。

病院は赤レンガを使った、洋館づくりであったことから「赤倉病院」の名で親しまれていたそうです。

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正式な名前は「鹿児島医学校病院」でありました。
病院の組織は外科、内科、産科、眼科の4つ。
最新の設備と機構を備えており、ウィリスを慕って福島や静岡などから留学生が続々と乗り込んできたそうです。
また、仮救寮所を設けて貧困者の無料検診をおこなうなど、厚生面での業績は大きかったようです。
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2015年02月21日

浄光明寺跡

竪野馬場から般若院小路を進むと、南洲神社へのぼる階段がでてきます。
三国名勝図絵によると、この階段、すでにあったようで次のように記しています。
「当寺は松峰山上の東南に在て、石磴を登ること二町余りあり・・・」

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結構、傾斜のきつい階段です。二、三度上り下りを繰り返すと、運動不足解消にはいいかもしれません。
ネット上に階段を撮影したと思われる画像がアップされています。
おそらく戦前のものと思われます。興味のある方は検索してみてください。

松峯山無量寿院浄光明寺
南洲墓地の敷地には、かつて浄光明寺という時宗のお寺があったそうです。
三国名勝図絵に浄光明寺の絵が掲載されており、かなり立派なお寺であったようです。
浄光明寺は松峯山無量寿院と号し、相模国藤沢山清浄寺の末寺でありました。
時宗としては鹿児島藩最大の寺院で、薩隅日三州の小本寺。
鹿児島三ヶ寺の一(上井覚兼日記)で、島津氏初代忠久公から5代までと21代吉孝公の菩提寺であったそうです。
三国名勝図絵によると、本尊は阿弥陀如来で時宗般舟(はんじゅ)三昧修行の道場でした。

天保年間城下絵図によると、今の南洲神社へ通じる階段前から竪馬場につながる道を「道場ノ下」と呼んでいたようです。

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おそらく、三昧修行の道場であったことから名付けられたのかもしれません。

浄光明寺と一遍上人
お寺を開いたのは宣阿説誠というお坊さんで、島津氏初代忠久公が薩隅日三州を与えられて下向した際、創建したと言われているそうです。
『島津国史』では、建久7年(1196)創建とする説もあります。
また、『島津世家』によると、建治2年(1276)頃に大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)に参籠した一遍上人に島津久経公が帰依し、以来一遍派になったともいわれています。

時代はくだり享保2年(1717)4月、浄光明寺は火災に遭ってしまいました。島津第21代吉貴公はお寺を再興しました。
再興された姿が、三国名勝図絵に掲載されている絵であろうと思われます。

吉貴公、かなり浄光明寺に対する信仰心はあついものがあったようです。
というのも、藩主の菩提寺は福昌寺とされていましたが、吉貴公だけは遺言通り浄光明寺に葬られたからでした。
太平洋戦争後も吉貴公の墓だけは南洲神社裏手にあったそうですが、昭和45年、福昌寺に移されたそうです。
お墓のあったところには、吉貴公の法名を記した塚が建てられ、周囲は竹の公園になっているようです。

浄光明寺は明治初めの廃仏毀釈で廃寺となりましたが、明治16年再興されました。
かつてお寺が建っていた所は、南洲墓地として県指定史跡となっています。

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浄光明寺からの眺望
『改正鹿児島県地誌』(明治25年)に、浄光明寺に関する記事が掲載されています。
「浄光明寺ハ竪馬場ノ西ナル丘陵ニアリテ、頗ル山海ノ眺ニ富メタリ。西郷隆盛以下、諸士ノ墳墓亦此処ニアリ」

ここからの眺望は格別のものがあったようで、三国名勝図絵に浄光明寺眺望と題する2枚の絵が掲載されています。
また、同所にお寺からの眺望を記していますが、大雑把に訳してみました。
「お寺の土地は高く見晴らしがとても良い。町並みや遠くかすんだ海山、遠近数十里の景色を一望のもとに納めることができる。道路は縦横に通じ、まるで碁盤の目のようである。
遠くに見える人馬の往来は、人が米粒で馬は豆に例えることができそうだ。」

浄光明寺の六月灯
六月十八日は島津忠久公の御忌日、毎年この日、僧徒たちは尊像を檀上に開いて供養の法を修するものでした。
また、この日は六月灯も行われ、上町の人々は家ごとに一燈を供えるものであったそうです。
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2015年02月13日

佐藤小路から般若院小路まで

佐藤小路
今給黎病院前、ファミマから滑川通りを横断。道なりに進むと道路と交差します。
交差した道路が「佐藤小路(さとすっ)」。
戦前には、竪野馬場に市電佐藤小路電停があったそうです。

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『倭文麻環巻四の三 竹内助市天狗の羽を斫る』で、佐藤小路にまつわる話が掲載されています。
「助市は寛陽院様御代の包丁人たり、当時竪野佐藤小路の隅は、樹木森々たる大森にて白昼さえものすごき所なりき・・・」
寛陽院様は19代島津光久公のことで、竹内助市は実在の人物で1695年に亡くなっているそうです。
助市は書を善くし、示現流や禅学を好む人物であったそうです。

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江戸時代初めごろ、この辺りには昼でも淋しいほどの森が残っていたのかもしれません。
竪野馬場は、現南風病院前交差点から竪馬場までの道路のこと。
当時の人々は、「竪野」と聞けば竪野馬場周辺のことを思い浮かべたのかもしれません。

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般若院小路
佐藤小路から竪野馬場に出ると、交差点になっています。
横断歩道を渡って坂を少し上りかけると、右手に細い筋がでてきます。
その筋が「般若院小路」で、南洲神社階段前まで続いています。

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現在の南洲神社には、かつて浄光明寺というお寺があったそうです。
浄光明寺の下には、雲海山般若院という真言宗のお寺があったことから、「般若院小路」と呼ばれるようになったようです。

『三国名勝図絵』によると、雲海山般若院は真言宗当山派山伏が住職であったそうです。
京都三宝院の宮直末で、薩・隅・日向諸県郡一派の袈裟頭でありました。
本尊は神変大菩薩。
いつ頃できた寺か分かりませんが、当初は宝泉坊と呼んでいたそうです。
慶長年間、中原般若慶隆という人物が貫明公の命によって住職となり、宝泉坊を般若院と名付けたようです。

後に役行者(えんのぎょうじゃ)または役小角(えんのおづぬ)の木像を寛陽公に献上。承応4年2月、寺内に堂を建てて安置したそうです。
役行者は修験道の開祖といわれ、実在の人物であるそうです。
伝説では、鬼神を使役できるほどの法力を持ち、空を自由に飛び、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登ったとも言われていました。

般若院にまつわる話が、『薩藩年中行事』にも掲載されています。
作者は伊地知峻、身分の高い家に生まれた人物のようです。
廃藩置県前、明治2,3年頃の様子が記されています。

■『薩藩年中行事』から
四月の項に、般若院の様子が書かれています。
「英彦山の山伏の寺で般若院というのがあったが、此所では山伏の読経があって、“シンケイレン”と言って、赤・白・青・黄・黒の紙を大体桃のような形に切った紙を“シンケイレン三バカー”と呪文みた様なものを唱えながら撒くものであったが、これは一種の御守りになると言って争って拾い、書物の間に挟んで大切に仕舞って置くものであった」
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