2015年03月25日

大龍寺馬場

南洲神社参道から竪馬場を横断して、大龍小学校のほうへ歩いてみます。竪馬場から大龍小学校へつづく道を「南洲門前通り」と呼んでいるようです。
江戸時代の城下絵図をみると、「大龍寺馬場」とありますので、当ブログでは昔の名前で話を進めていきます。

大龍小学校周辺は、標高が10mほどの台地の上にあるそうです。
小坂通りのほうから歩いてみると、通りの名前どおり緩やかな坂になっています。

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坂を上り終わり、振り返ると国道を見下ろすような感じがします。
古地図や絵図などをみると、現大龍小学校周辺には、「〇〇坂」と呼ばれる通りがあります。
左衛門坂、小坂、小坂通り、フジ坂など。
坂の名前から考えてみても、大龍小学校の辺りは標高が高いようです。

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今は道路整備が進み、あまり傾斜を感じることはないようですが、むかしの左衛門坂は急な坂道であったようです。
『古地図に見る鹿児島の町』では、「左衛門坂」について次のように記しています。
「一説に浜田民部左衛門の名からサエモン坂、それがなまって“セモン坂”または“サヨン坂”となったという。(途中略)ここは昔は急な坂道で“こん坂で転っと、大怪我をして治らん”という言い伝えがあった。」

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今回から上町周辺を取り上げてみます。
絵図や古地図などを見てみると、大龍寺馬場・竪馬場・上の町馬場、清水馬場など山手側の通りは殆ど同じといって良いようです。
反対に大龍寺馬場から海側の地域は、終戦後の区画整理で大きく変わっているようです。
今回は大龍寺馬場を取り上げてみました。

大龍寺
現在、大龍小学校のところには、「瑞雲山大龍寺」という臨済宗のお寺が明治初頭のころまで建っていました。
大龍寺馬場の名前は、お寺の名前から付けられたようです。
お寺となるまでは、内城(本御内)と呼ばれる屋形づくりのお城でありました。
鶴丸城ができると、内城のところには大龍寺が建てられました。
お寺の創建は1611年(慶長16)のこと、名僧文之和尚が最初の住職となりました。

大龍の名は、15代島津貴久の法号「大中」の“大”と第16代島津義久公の法号「龍伯」の“龍”から名付けられたそうです。

文之和尚
文之和尚は、弘治元年、飫肥の南郷(旧宮崎県南郷町)に生まれで、有名な朱子学者であったそうです。
幼い頃から非常に賢く、「文殊堂」と呼ばれるほどでした。
5歳のときに、延命寺の天澤に預けられましたが、11歳のとき竜源寺の一翁玄心の弟子となりました。そこで僧としての修業が始まりました。
一翁は犬迫(鹿児島市)出身で、桂庵玄樹の弟子であった月渚永乗(げっしょえいじょう)に学んで、朱子学に精通している人でした

14歳のとき京都に出て、東福寺で5年間修業。
その後、ふるさとに帰ると竜源寺、高山の昌林寺、財部の正寿寺にいましたが、島津氏に重んじられるようになり、加治木の安国寺や国分の正興寺の住職となりました。
朱子学は江戸幕府でも正式な学問とされ、武士であればだれでも学ばなくてはならないほど重要な教えでした。島津氏にとってはとても大切な人であったようです。
文之和尚は島津義久・義弘・家久、三代の藩主に仕えるほど大切にされていました。
この間、薩摩藩の政治や外交、学問などに大きな影響を与えました。

文之和尚は「南甫文集」を始めとして様々な書物を著していますが、なかでも「鉄砲記」は鉄砲伝来を知るうえで、非常に貴重な史料になっています。
薩摩に多大な影響を与えた文之和尚、元和元年(1620)に亡くなり、加治木安国寺に葬られているそうです。

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2015年03月12日

竪馬場通

南洲墓地を後にして、参道の階段をおりて南洲門前通りの方へ向かってみます。
その前に、南洲墓地階段について少し。

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■ 浄光明寺燈道
南洲墓地の階段、大正5年刊行の『鹿児島市史』によると、“浄光明寺燈道”と呼ばれていたようです。
この階段は天保年間城下絵図にも描かれており、明治後半頃になると相当傷んでいたようです。
鹿児島市では明治42年11月9日、階段の補修工事を行っています。

「浄光明寺燈道改築工事成ル、燈道ハ第一、第二ノ階段ヨリ成ルモノヲ総称ス。第一ハ三十六階段ヲ設ケ、第二ハ四十五階段造ニシテ里道ニ属ス。此延長二十九間五尺之ニ沿タル土堤ニ花卉ヲ移植シテ更ニ風致ヲ加フ、近来階段踏面凹禿縁石敗壊シテ漸ク荒頽ニ傾ク故ニ市ハ工費ヲ市会に要求シテ十月一日此工ヲ起ス、時偶マ晴天累日作業大ニ進捗シ速成ノ想アル亦宜ナリ此工事費金千五百三十二円ヲ要シタリ」

階段をおりて南洲門前通りの方へ行くと、左右に大きな通り、竪馬場通がでてきます。

■ 竪馬場通
竪馬場通は車の往来が多く、通りの両側には商店が並んでいます。
明治時代の竪馬場通の様子を伝える本に、「改正鹿児島県地誌」というものがあります。
明治24年に出版されたもので、挿絵や地図がふんだんに掲載されており、面白い本になっています。

「改正鹿児島県地誌」は『明治の鹿児島―景観と地理』に掲載されており、明治時代の地図が鹿児島市だけでなく、谷山・喜入・指宿・枕崎・市来・串木野・川内・出水・姶良・国分隼人・鹿屋・垂水・志布志・名瀬・古仁屋・伊仙などの地域も掲載されています。
古い地図を探されている方には、参考になるかもしれません。

さて「改正鹿児島県地誌」では、竪馬場通のことを次のように記しています。
“竪馬場通ハ、易居町ノ正北ニアリ。上方(かみほう)ニ於テ、繁盛ナル街市ニシテ、商家相並ビ往来甚多シ”
明治時代中ごろには、すでに竪馬場通には商家が立ち並び、賑やかな通りであったようです。

時代はくだって、太平洋戦争終了後、竪馬場には吉野方面から野菜など並べたヤミ市が立ったようです。
『鹿児島市戦災復興誌』によると、昭和21年1月、米軍政部・県・市・警察などが協議の結果、鹿児島市の5ヶ所にフリー・マーケットを設置することになったそうです。
上町地区は竪馬場、中央地区は納屋馬場、草牟田地区は新上橋、武地区は宮田通り、荒田地区は騎射場。
竪馬場通は、人の集まる重要な通りでした。
これは明治以後に始まったことではなく、江戸時代には既に見られたようです。

■ 江戸時代の竪馬場通
『城下町鹿児島』(著者;山田尚二)によると、「館馬場に直角に交差するのが竪馬場であった。一般人は館馬場は通れなかったので、迂回して新橋から竪馬場を通る人が多く、竪馬場は上の中心的大通りであった。」とあります。

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竪馬場通の名前の由来やいつ頃整備されたかは分かりませんが、おそらく現大龍小学校の地にあった内城の築城と深い関係があったと思われます。
竪馬場を坂元方面に向かった所に“内の丸”という地名があったことや、旧日向路の通り道になっていたことから考えれば、とても重要な通りであったようです。
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2015年03月04日

南洲墓地周辺

南洲墓地の周辺は、むかし「龍尾山」と呼ばれていたようです。
大正4年刊行の『鹿児島自慢』によると、「丁丑役に於ける薩軍唯一の墳墓たり、上龍尾町付近、龍尾山と称する丘陵の一面を占断す」
また、同書によると、境内のお店では「南洲餅」「征韓飴」なるものも販売していたようです。

『薩隅日地理纂考』によると、この辺りには竜ヶ尾神社という島津忠久公を祭るお社があったそうです。
その後、神社がどうなったかは不明。

明治時代に書かれた『かごしま案内』にも、”龍ヶ尾丘”という地名が記載されています。

また勝目清さんの『かごしま市史こばなし』によると、上・下竜尾町の地名由来は、南洲墓地付近を”竜ヶ岡”と呼んだことがあったことに起因しているのではないかと記述しています。
今回は、南洲神社と墓地にまつわる話になります。

南洲神社と南洲墓地
南洲墓地は、明治10年の西南戦争で戦死した西郷隆盛をはじめとして、薩軍将兵を合葬した墓地。
明治10年9月24日城山が陥落したあと、西郷さんその他40人の検死がおこなわれました。
検死が終わると、鹿児島県令岩村通俊は官軍の許可を得て遺体を引き取り、その日のうちに浄光明寺境内(現在の鳥居付近)に仮埋葬したそうです。

1879年、有志が城山や鹿児島市内外に仮埋葬されていた220余人の遺骨を収容して、現在地に改葬しました。
そのとき、参拝所も建てたそうです。
1883年には、九州各地に葬られていた遺骨を収集。現在では墓碑749基、2023人が眠っているそうです。

大正2年(1913)10月、木曽御料林の桧材で建てられた銅板葺きの社殿が完成されました。
当時、この社殿を「南洲祠堂」と呼んでいたそうです。
大正11年(1922)6月になると、南洲神社という社号が許されたのでした。

また神社近くには、鹿児島市立教育参考館という資料館や西郷さんの木像もあったそうです。

鹿児島市立教育参考館
昭和4年刊行の『鹿児島史蹟』によると、教育参考館について次のように記しています。

「南洲神社に参拝し、左に廻れば教育参考館がある。この建物は、昭憲皇太后に五十余年間奉仕された高倉典侍が、明治天皇の御下賜金と、多少の節約とによって得られた金とで、明治43年東京麹町区平川町に建てられたのを、大正5年、神戸の川崎芳太郎氏が譲り受け、其れを此所に移して市へ寄付されたもので、市は之を教育参考館と名づけ、薩藩文化の一班と本県出身名士の遺物文書等を陳列し、公衆の観覧に供して居る。

同書には、参考館に陳列品の目録が掲載されており、文書記録、書画絵図、写真、衣服類、刀・甲冑・銃器、雑品、標本類に分類されています。
目録には、「濱崎太平次の居宅図」「大阪夏陣戦闘図」というものもあったそうです。
残っていれば、ぜひ見てみたいものです。

西郷さんの木像
南洲神社参道の階段をのぼっていくと、左手にお土産屋さんが出てきます。

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そこには昭和20年まで、西郷隆盛の木像が立っていたそうです。
その木像は、東京の上野公園に立つ西郷さんの銅像の原型で、彫刻家高村光雲によって作られたものでした。
『智恵子抄』の作者である高村光太郎は、光雲の息子になるそうです。

西郷さんの木像の写真は、『南洲神社・墓地由緒 (かごしま文庫 (79))』 『写真集明治・大正・昭和 鹿児島』に掲載されています。

南洲墓地に建っていた西郷さんの木像は、明治32年2月の春の大祭で除幕されました。
『かごしま文庫79 南洲神社・墓地由緒』の作者によると、現存していれば重要文化財級の木像で、鹿児島の市街地を見守るように立っていたそうです。

昭和20年7月31日の空襲
7月26日、鹿児島市の海岸通にアメリカ軍機からビラが投下されました。
ビラには次の攻撃目標が詳細に記され、鹿児島駅や吉見鉄工所、専売公社などが爆撃目標となっていました。
そうして、翌日の27日午前11時50分、空襲警報発令後まもなく、米軍爆撃機の編隊(B24)が出現。
鹿児島駅を目標にして、爆撃が始まったのでした。

この爆撃については、昨年8月の南日本新聞に画像とともに報道されていました。
確か8月15日前後の記事だったと思いますので、ごらんになってみてください。
この日の爆撃では、鹿児島駅を中心に車町・恵美須町・和泉屋町・柳町などが被災。
教育参考館にも1トン級の爆弾が落とされ、建物は全壊してしまいました。
このときの爆風で、南洲墓地の墓碑20基が倒壊したそうです。


4日後の7月31日、上町は再び空襲に見舞われることになりました。
7月31日午前11時半ごろ、ロッキードの編隊数十機が襲来。
空襲によって清水小や大竜小など多数の民家が焼かれてしまいました。

このときの様子を『かごしま文庫79 南洲神社・墓地由緒』では、次のように記しています。
「午前11時ごろから1時間余り、度々の空襲になれてはいるものの、至近距離からの耳を聾する爆発音に生きた心地もせず、壕の中で家族数名かばい合いながらおびえていた。
近づいては遠のき、遠のいては近づく轟音に、いつやられるかと観念の目をとじていた。

やがて静けさが戻った。壕から出てみると上町方面の数ヶ所から火の手があがり、どうしたことか、自然の風はないのに、にわかに嵐のようなものが吹き巻きはじめた。
火が嵐を呼ぶのか、風が火を呼ぶのか、あっというまに南洲神社の高台にまで火の粉が降ってきた。
市街地がまだ焼けきらないうちに飛び火となって攻め立ててくる。

まず社殿が焼けた。大正2年に木曽ご料林のヒノキ材で造られ、美を誇る社殿は、音を立てて崩れ落ちた。次に社務所に延焼した。
神社のある高台の、建物という建物はことごとく炎上し、石造の鳥居と、南洲墓地の墓群のみが、しーんと静まり返っていた」

戦災と復興
昭和20年7月31日の空襲で、本社・摂社・社務所などことごとく炎上してしまいました。
しかし、昭和25年9月には仮殿と社務所を復興。
昭和32年9月には、鉄筋コンクリート造りの本殿が完成しました。

昭和44年には四方学舎の事業を譲り受け、寄付によって鉄筋二階建ての社務所が完成。
昭和45年には拝殿も完成され、復興事業はほぼ完了したそうです。

また昭和53年、西郷南洲記念顕彰会が募金によって資料館を建設し、鹿児島市に寄付をしました。
それが、鹿児島市立西郷南洲顕彰館です。
この資料館では、西南戦争に関する資料が展示されていますので、いちど足を運んでみてください。
posted by ぶらかご.com at 23:23| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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