2015年04月13日

海上交易と島津氏

古代から中世にかけては中国と朝鮮・琉球、戦国末期には南蛮諸国との貿易において、島津氏の領土は地理的に恵まれていたようです。
南九州は「海の道」「海上の道」などと呼ばれる海上交易路によって、奄美諸島や琉球・中国と密接に結ばれていたようです。

■ 逆さ地図
富山県が出版している「環日本海諸国図」(通称:逆さ地図)という地図があります。
これなどを見ると、鹿児島の先端から島伝いに沖縄・台湾へと続いています。道の島とはよく言ったものです。
日本海や東シナ海は、大きな湖といって良いかもしれませんし、樺太と北海道は本当に近く
氷河期の頃は氷でつながっていたかもしれません。
朝鮮半島と九州北部、山陰地方もかなり近い位置にあり、これらの地域の交易・交流は古代から密接なものがあったと想像されます。
逆さ地図は、富山県町のホームページや『日本とは何か 日本の歴史〈00〉』(講談社)に掲載されていますので、ご覧になってください。

■ 唐人町
鹿児島をはじめ、山川・坊津・加世田・京泊(薩摩川内市)・根占・志布志などの港には、中国や東南アジアからの船が入港していました。
領内には唐人の居留も多くなり、各地に「唐人町」が起こり、帰化の子孫も多かったようです。
旧国分市や東串良町・旧市来町の唐人町、唐湊(鹿児島市)、唐仁原(南さつま市)、唐浜(薩摩川内市)などの地名は、中国との交易にちなむ地名であるそうです。

島津氏は海外交易に熱心で、文中3年(1374)第6代氏久が明との交易を求めて太祖に使者を派遣しましたが、進貢とは認められず退けられています。
氏久の使者派遣は、足利将軍義満が国交開始の国書を正式に送った応永8年(1401)に先立つこと27年も前のことでした。
また、朝鮮に対しても応永13年から毎年のように使送船を派遣して、盛んに交易をおこなっていました。
島津氏が海外との交易で、いかに莫大な利益を得ていたかを示すエピソードが残されています。

応永17年のこと。上洛した第7代元久は、将軍足利義持らにじゃ香や虎皮・砂糖・南蛮酒・毛氈(もうせん)など数多くの舶来品を献上して、都の人々は舌をまくほどであったそうです。

■ 明の海禁
1368年に成立した中国の明王朝は、皇帝を頂点とした世界秩序を築くため、周辺諸国の王に従属を促し、爵位・称号をさずけていました。これを冊封(さくほう)といいます。
そして主従関係を確認するため、皇帝は冊封を与えた王から貢物を受け取り(進貢・朝貢)、返礼として貢物を上回る下賜品(かしひん)を王に与えていました(回賜・かいし)。

また、冊封を受け入れない国の船舶の国内入港や中国人の海外渡航・私貿易を一切禁止し(海禁)、進貢船に対しては渡航許可証である勘合符(かんごうふ)を与え、所持を義務付けていました。
進貢と回賜は明と周辺諸国にあって、唯一の合法的な貿易形態(進貢貿易・勘合貿易)とされていました。

室町幕府は応永8年(1401)、足利義満が貿易の利を得るため臣下の礼をとり、「日本国王」の称号を授けられ、明と貿易を行うようになりました(勘合貿易)。
以後、天文16年(1547)までの間に19回の遣明船が派遣されていますが、その多くに島津氏が関わっているそうです。
明への主要出品のひとつに島津領内で産出する“硫黄”があったことから、島津氏は勘合貿易に深く関わっていくことになりました。

遣明船は瀬戸内海から博多に入り、平戸・五島を経由して明に向かっていましたが、応仁の乱後、貿易の主導権をめぐって大名同士の対立が発生しました。
博多商人と結んだ大内氏と堺商人と結んだ細川氏が対立。細川氏の商船は大内氏が支配する瀬戸内海を避け、土佐沖から南九州を通って明を目指すようになっていました。
島津氏は細川氏から商船の警護を依頼され、より深く勘合貿易に関わるようになりました。

■ 琉球交易
明は進貢回数を国ごとに定めており、日本の場合概ね10年1貢でした。この進貢回数では国内の需要を満たすことは、とうていできるはずありません。
これに対して琉球王国は、1年1貢または2年1貢でした。
琉球王国が明の冊封体制下に入ったのは洪武5年(応安5・1372年)のこと。明は琉球を南海産品の入手窓口として優遇しました。
琉球王国は明・東南アジア・日本・朝鮮をむすぶ中継貿易で大きく栄えたのでした。

琉球王国の船は南九州、さらには博多や堺にも来航し、中国・東南アジアの品々をもたらしました。博多や堺の商船も、琉球王国のもたらす品々を求めて琉球を目指すようになりました。
島津氏と琉球王国の関係は対等なもので、両者は善隣友好関係にあり、頻繁に使者を行き来させていたようです。
そうして、琉球王府は島津氏の代替わりなどの慶事には、紋船(あやぶね)という儀礼船を鹿児島に派遣していました。

琉球と島津氏との間では、善隣友好関係に基づく交流がつづく一方で、貿易の利権をめぐる駆け引きも盛んに行われていたようです。
永生5(1508)年、第12代島津忠治は島津氏の印判(朱印状)を持たない商船の取り締まりを琉球に要求。島津氏が琉球貿易の独占を計り出しましたが、それは琉球の利害に反するものでした。

16世紀半ば、隆慶元年(永禄10・1564年)、明が海禁を緩和。そしてポルトガル・スペイン、日本の船がそれぞれお地域を行き来して直接物資を運搬するようになりました。
おかげで琉球の中継貿易は大きな打撃を受けてしまいました。
一方、島津氏は着々と勢力を拡大し、その力を背景に琉球王国への圧力を強めることになりました。
薩摩と琉球の関係は大きく変化、琉球は島津氏の要求を受け入れることになりました。

■ 倭寇と西洋人
明の海禁政策に反発する者も大勢現れました。後期倭寇と呼ばれる人たちです。
後期倭寇は明の海禁政策に反発し、私貿易をおこなう武装商人たちが主体であったようです。
中国で著された倭寇対策の本によると、「倭は十の三に居るも、中国の反逆は十の七に居るなり」とあり、多くの中国人が倭寇となっていたようです。
また、鄭若僧の著作には「入寇者、薩摩・肥後・長門三州の人多く居る。その次則大隅・筑前・博多・日向・摂津・津州・紀伊・種島」とあるそうです。
筆頭に薩摩が挙げられており、南九州の主要な町として「康国什麼(鹿児島)」が記されているそうです。

16世紀頃、ヨーロッパ人たちがアジアへと進出してきました。彼らは中国貿易への参入を望んでいましたが、明の海禁政策によって合法的な活動を行うことができませんでした。
このため倭寇たちと手を組み、貿易活動を行うようになりました。
1543年、3人のポルトガル人を乗せた中国人倭寇、王直の船が種子島に漂着しました。
これが鉄砲伝来・西欧人の日本発見となったのでした。
3人のポルトガル人は、倭寇の仲間でありました。倭寇が多国籍化していたようです。

1549年にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教を伝えました。ザビエルはマラッカから鹿児島まで“アバン”という名前の中国商人の船に乗って来ました。
アバンのあだ名は「海賊(ラドロン)」、彼もまた「海の道」を行き来する倭寇であったそうです。

こうしてヨーロッパ人たちが「海の道」を北上してきたため、南九州は日本とヨーロッパ出会いの場となっていたようです。
とくに島津氏の城下町として栄えていた鹿児島(いまの上町周辺)は、日本の入り口にある町として認識されていたようです。

『海洋国家薩摩』という本に、モンタヌス「日本誌」の鹿児島図という絵が掲載されています。絵の中央上部に「CANGOXUMA」と記されていなければ、鹿児島を描いたものとは分からないものです。
絵を描いたモンタヌスは、オランダの牧師。彼は日本を一度も訪れたことはなく、来日経験のある宣教師や商館長らの話をもとに1669年『日本誌』を出版したそうです。
想像を交えて書かれているため、誤りも多いようですが、当時のヨーロッパではとても好評であったそうです。
絵を見るに、多賀山を彷彿とされる海に突き出た山や多くの帆船が描かれています。

当時のヨーロッパ人たちが鹿児島を日本の入り口にある、重要な港湾都市と認識していたことは重要なことであると思われます。
中世、鹿児島の貿易港として賑わっていたのは稲荷川河口でありました。
当時の河口は今よりもっと内陸に入り込んでおり、水軍の記念碑が建つ春日神社辺りは海であったかもしれません。

上町周辺は国際色豊かな、賑わっていた町であったようです。
posted by ぶらかご.com at 22:19| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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