2015年04月20日

島津氏と明国

島津氏の領国、南九州は海外交易が盛んなところで、明国との結びつきとても強いものがあったようです。
島津氏の居城がある上町には、明人はじめポルトガル人など多くの外国人が訪れていました。また、外国人居留地もつくられていたそうです。
外国人のなかには、島津家の家臣として取り立てられた者もいました。

島津家に仕えた明人
医者の許三官(きょさんがん)、郭国安(かくこくあん)、易学者の黄友賢(こうゆうけん)など。
〇許三官
江西省の出身、倭寇に捕えられ薩摩に連れて来られた人物であったそうです。
医学の知識があったことから、第16代島津義久公に見出され侍医となりました。
『島津国史』によれば、三官橋は許三官の屋敷があったことに因むとありますが、これには異説あり。
一官橋・二官橋・三官橋は、沈一貫という中国人医師の屋敷に因むというものもあります。

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〇郭国安(汾陽理心・かわみなみりしん)
山西省汾陽出身で、中国の官吏登用試験であった科挙に失敗。新天地を求めて薩摩にやってきました。のちに、許三官の弟子となって義久公に仕えました。

〇黄友賢(江夏友賢)
福建省江夏の出身で、兵学・儒学・風水に通じていました。
慶長6年(1601)、第18代島津家久公は鶴丸城築城に着手する際、黄に占わせたといわれています。占いの結果、四神相応の地であるが、火難の相ありと出ました。
そのため、中国から火難除けの札を取り寄せ、霊符堂に祀ったそうです。

秀吉の朝鮮出兵と薩摩の明人
天正19年(1591)、豊臣秀吉は朝鮮出兵を発令。島津氏に兵1万5千の動員を命じました。
翌文禄元年4月、義弘公は軍勢を率いて渡海することになっていましたが、兵・船ともにあつまらず、わずかな供侍と小舟一艘を借りだしたに過ぎませんでした。
島津氏の失態はこれにとどまらず、朝鮮出兵直前に義久の中国人許三官が出兵計画を明に伝えていたことが発覚、秀吉を激怒させてしまいました。

さらに同年6月、島津氏の家臣梅北国兼(うめきたくにかね)が朝鮮出兵に反対し、肥後国佐敷(熊本県芦北町)で反乱を起こしました。氾濫は短期間で鎮圧されましたが、義久・義弘の弟である歳久が陰で操っていたと疑われました。
同年7月、歳久は秀吉から自刃を命じられたのでした。
そこには、秀吉が薩摩に下向した際、歳久の居城であった虎居城(旧宮之城町)に宿を求めました。
歳久は、「迷惑」と追い返したことがあり、反豊臣勢力の中心人物とみなされていました。
秀吉は歳久を自刃させることによって、朝鮮出兵をしぶる家臣団への見せしめとしたようです。

歳久公の名前は島津金吾歳久、号を「心岳」といいました。
武勇・知略ともに優れていたことから、心岳詣りは妙円寺詣りとともに鹿児島の年中行事になっていました。
また旧宮之城や薩摩町周辺には、歳久公にまつわる話が伝えられています。

薩摩と明、合力計画
文禄の役の最中、薩摩と明が力をあわせ豊臣秀吉を討つという計画が明の方にあったそうです。
明の福建軍門は、商人に変装した明の工作員を何度も薩摩にもぐりこませ、許三官ら薩摩在住の明人と接触。そして工作員は、許らの案内で名護屋城の偵察なども行っているようです。
日本側にこの計画に関する史料は残されていないようです。

しかし、島津義久や家臣たちは出兵に消極的でした。
地頭であった梅北国兼は出兵に反対して反乱をおこし、義久の弟歳久はこれに関与した疑いをかけられ自刃に追い込まれています。
こうした情報は明の工作員もつかんでおり、「義久は弟を殺され、内心は秀吉を憎んでいる」と本国に報告しているそうです。

許三官たちが明と接触し続けていたのは、確かなことでした。
それでも義久公は、秀吉の逆鱗に触れた許三官を重用しつづけました。
このとき、薩摩に潜入していた工作員は次のように本国へ報告していました。

「薩摩州は、いつもいろんな国の船が停泊している所。自分たちがいた時も呂宋(ルソン)に向かう船が三隻、交趾(ベトナム)船三隻、柬埔寨(カンボジア)船一隻、暹羅(タイ)船一隻、仏郎機(ヨーロッパ船)二隻がいた」

このほか、数多くの中国船も停泊していたと思われます。
posted by ぶらかご.com at 22:55| Comment(0) | 鹿児島城下周辺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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