2015年06月26日

昭和20年、連合軍のうごき

1945年3月、連合軍はフィリピンのルソン島と硫黄島攻略をほぼ完了させました。すでに日本上陸作戦である「ダウンフォール作戦」も立案し、沖縄本島に狙いを定めました。
当初、連合軍は台湾を攻略、拠点化して沖縄へ進攻する予定でした。
ルソン島を占領すれば、台湾を無力化できると考え、攻略を中止しました。
連合軍は、日本本土空襲をするための拠点を沖縄本島に求めたのでした。

アイスバーグ作戦(沖縄攻略作戦)
連合軍が沖縄に注目したのには、大きく二つの理由があったようです。
ひとつ目は、沖縄を確保すれば、台湾・中国沿岸・日本本土のすべてをB29はじめ、中距離・重爆撃機などあらゆる種類の航空機の行動範囲内に入ることを意味していました。
二つ目は、当時沖縄は日本の重要な中継地であったこと。
アメリカ軍は開戦当初から、「戦争経済」という観点から戦略を立てていたようです。
と言うのも、アメリカ軍は日本経済に対して次のような認識を持っていました。

「世界の大国のなかで、日本ほど海上輸送に依存している国は他に例がない。日本は島国であり、しかも需要が国内生産をはるかに超えている。そのため日本は、その経済生活を維持するには常に海外から大量の物資を運ばなければならない。さらに日本は大小の島々からなっているので、国内の物資移動も大部分を海上輸送に頼らざるを得ない。加えて人口が多く、資源が乏しいため資源の海外依存度はきわめて大きい。」

アメリカ軍は、開戦当初から日本の輸送船を執拗なまでに攻撃し、沈めていきました。
南方からの資源を断たれれば、日本の軍需生産は簡単に滞ってしまうことを見抜いていたようです。
アメリカ軍の戦略は、日本経済のもつ弱点を徹底的に突くことにありました。

昭和20年3月18日以降、日本の各地で米軍戦闘機による爆撃や機銃掃射が行われるようなりました。
『私の町も戦場だった』をご覧になった方もおられるかと思います。
列車や鉄道施設など輸送施設に対する、機銃掃射はアメリカ軍の戦略のひとつでありました。
この頃の米軍による爆撃の目的は、沖縄攻略支援にありました。
しかし沖縄攻略が完了すると、鹿児島・宮崎への空爆は、オリンピック作戦に向けてのもに変わっていったようです。

■ 艦載機の出現
昭和20年3月14日、空母12隻を基幹とするアメリカ第58機動部隊はウルシー環礁を出撃。3月18日、日本近海に現れると九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対して、空襲を開始しました。
また、マリアナ諸島のB29の部隊にも九州各地の飛行場への爆撃命令が届いていました。
特攻隊の出撃基地となっていた大刀洗(たちあらい・福岡県)や鹿屋など九州各地の飛行場への攻撃を、3月27日から5月11日までおこなっています。

【 3月18日、鹿児島県の空襲 】
鹿児島県下では、鹿屋・笠野原・串良・国分・鹿児島・知覧・出水・種子島の航空基地や高山町波見・内之浦町岸良・垂水の海潟造船場・今和泉(指宿市)・山川港・阿久根・西之表などが空襲されました。

なかでも海軍最大の特攻出撃基地であった鹿屋は、この日だけで20回もの攻撃を受け、最大の被害を受けたようです
鹿屋基地は徹底的に攻撃を受け、終戦までに286回もの空襲を受けたそうです。

鹿児島市内では、郡元町にあった鹿児島海軍航空隊が空襲を受けています。
予科練生の体験記によると、この日、6、7回の攻撃を受けたそうです。
次回は、昭和20年3月18日の鹿児島航空隊に対する空襲について触れてみます。
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2015年06月10日

今からちょうど70年前の元旦

今からちょうど70年前の正月元旦、この日は晴れ上がった青い空が広がっていたそうです。
当時、大東亜戦争の勝利に備え、ほとんどの物資には強力な統制が布かれていました。
手に入りにくくなった食糧を求めて、農村に出向く人たちもありました。
この年は、特別配給のモチ米で正月のモチを食べ、配給の焼酎で屠蘇を祝うなど、町では正月らしさを味わといった、のんびりした雰囲気であったそうです
また、この日は学校や職場の拝賀式に出かけようと、隣組同士「おめでとう」を言い交わす、正月気分にひたっていました。

■ 拝賀式
戦前、元旦は、全国の学校で拝賀式が行われていたそうです。
当時の学校には、奉安殿と呼ばれる祠が備わり、そこには天皇・皇后両陛下の写真が納められていました。
鹿児島市史によると、鹿児島市内の学校で初めて奉安殿が設置されたのは、大正14年10月、鹿児島第一師範学校であったと考えられているそうです。
昭和時代前期になると、鹿児島市内の殆どすべての学校内に奉安殿を建てられたそうです。

各学校で拝賀式の式次第は異なると思われますが、一例をあげてみます。
純白の手袋をした校長先生は、奉安殿から御真影を取り出すと、両手で持って、厳粛に講堂まで歩くものであったそうです。
講堂の正面に設けられた神棚の中に、御真影を奉掲するまで最敬礼をして迎えるのでした。
講堂に御真影をかかげた後、ひもで下から自由に開閉できる幕式の白いカ−テンを閉じるまで、1時間ほどかかったそうです。

そうして午前10時、講堂に入って、ようやく拝賀式が行われるのでした。
式次第は、小学校の教務(現在の教頭)が進行係で、「掲帳」と言うと、幕式のカーテンを開けるのでした。
向かって左側に天皇陛下、右側に皇后陛下の御真影が現れたそうです。
その間、参列者は全員、最敬礼をすることになっていました。
君が代斉唱のあと、来賓、校長、教職員、生徒たちが御真影の前で礼拝するものであったそうです。
この後、校長が代表して壇上で新年の挨拶及び訓話をし、正月の歌をうたい、ようやく拝賀式が終わるものであったそうです。
式が終わると、子供たちには2個のパンが配られるところもありました。

鹿児島市立山下国民学校でも、拝賀式の後、「愛国パン」と呼ばれるラグビーボール型の黒いパンが2個ずつ生徒たちに配られたそうです。
(本の題名を度忘れしてしまいました。後日、記述します。)

昭和20年1月1日午前十時ごろ、ちょうど拝賀式が始まろうとした頃(山下国民学校では終わっていたようです)、これまで聞いたことのない爆音が聞こえてきました。

■ B29、鹿児島市に初めてお目見え
この日は、鹿児島市に初めてB29が飛んできた日でありました。
戦争体験などによると、このB29は志布志方面から鹿屋、垂水を経て、国分上空で旋回した後、鹿児島市上空へと飛んできたようです。

@終戦六十周年戦争体験文集、伝えたい私からあなたへ 戦争の悲惨さと平和の尊さを(コープかごしま)、「no more sensou」から。
昭和20年1月1日の朝、鹿屋航空隊から16キロの地点にある西俣国民学校校庭では、拝賀式に臨むため全校生徒が整列していた。
すると異様な爆音と共にキラキラと翼を光らせて飛行機が飛んできた。皆、一斉に空を見上げた。「米軍機だぞー」誰かが叫び、どよめきが起こった。

A同文集;「私の命を救った祖母ハツ」より
代用教員で国分から霧島神宮近くの小学校に通学していた。
元旦は新年の祝賀行事で恒例の式を行い、生徒たちを帰校させてひと休みしていたとき、いきなり空襲警報が鳴った。
その内、聞きなれない「ウォン、ウォン」という音がして、雲の間からB29の編隊が現れたのである。キラキラ光り、飛行機雲をはき、それはゆうゆうと飛んで行った。
どこからか日本軍が撃ったであろう高射砲が、空に花火のようにひらめいて、とてもきれいだった。しかし、とてもB29のところまで届くものではなかった。

国分上空で旋回したB29は、10時頃、吉野方面から鹿児島市街地上空へ飛んできました。
市内各地に設置されていた高射砲や高角砲が、いっせいに火を噴き始めたそうです。
体験集などによると、高射砲が設置された場所は次のようになるようです。まだ、他にもあると思われますが、筆者が気づいたところだけ列記しました。
多賀山・天保山・武岡・鴨池航空隊と練兵場・旧鹿児島女子短・丸支天山(唐湊)・伊佐ノ原(広木)など。

天保山は海軍の12糎高角砲、武岡高射砲陣地は現長島美術館の辺りにあったそうです。
唐湊の丸支天山は、摩利支天のことかもしれません。
アメリカ第21爆撃集団司令部、45年6月18日付の指令書(作戦任務第206号)によると、鹿児島の対空防衛について、次のように分析していました。

1.対空防衛
写真の解析から得られた鹿児島の防衛体制の全体的な戦力は以下のとおりである。
重対空砲32基、中対空砲59基、サーチライト2基。
2.爆撃軸と高度
 鹿児島市街地に対する夜間爆撃については、防衛力が比較的手薄なことにより、まずレーダーによるもっとも適切な接近方法を与えるルートによって、爆撃軸が決定された。目標市街地に対する接近は、存在が確認されているすべての高射砲を避けるために、7000フィートの最低高度が計画された。

この日、鹿児島に現れたB29は、マリアナ諸島から飛んできた写真偵察専用に改装された飛行機であったようです。
写真偵察専用に改装されたB29を、F−13と呼んでいたそうです。
絶対国防圏最後の砦であったサイパン陥落後、日本列島はB29の射程圏内に入ったのでした。
B29の試作1号機・2号機が初飛行したのは1942年9月と12月のこと。
1943年になると、B29は対日戦のみに使用することが確認されたのでした。
試作機の初飛行から1年後の1944年11月には、9機のF−13が配備されました。
それ以降、日本各地を飛び回って偵察と撮影を行ったようです。

ネット上に、1945年米軍作成の鹿児島市の地図が掲載されていました。
Isiki Station(伊敷電停)、45infantry Regiment(45連隊)、satsuma cotton spinning mill(薩摩紡績工場)、probable aviation(予科練)、ibusuki line(指宿線)、power plant(発電所)など、重要な施設は殆どお見通しだったようです。

また、原良町や郡元町、宇宿町など市内各地の名前も正確に掲載されています。
なかには、「KAJIWARASAKO」という小字まで書かれたものもありました。
おそらく鹿児島にゆかりのある日系人や、滞在経験のある人などを総動員して作ったと思われます。
地名のなかに「MURASARI-BAI」というのがあり、位置からすると、紫原(むらさきばる)のことのようです。土地の名前を聞かれた人が「むらさっばい」と答えたと思われ、地図の作成者は「MURASARI-BAI」と書いたのかもしれません。
「むらさっばい」、なかなか耳にすることはありませんが、意外なところで出くわしてした感じがします。
ただ、この地図ひとつとってみても、アメリカ軍は総力戦の意味がよく分かって日本軍と戦っていたようです。

■ 初めて見るB29に対する、不思議な気持ち
この日、鹿児島市内の各地でB29を目撃した体験談が残されていますが、防空壕に入る人、はたまた空を見上げ続けている人など、様々であったようです。
見上げていた人は、一様に“怖さ”よりも“不思議な感動”と“友軍の不甲斐なさ”を感じたようです。
『鹿児島県の空襲戦災の記録 第1集鹿児島市の部』の一部を引用しました。

@遂に私の家も焼けた 初めて敵機現れる
 昭和20年1月1日、洲崎国民学校(現城南小学校)の運動場では拝賀式が始まろうとしていた。全員2000名近い児童の前に担任がならび新しい決意に燃えている。折しも上空に爆音が聞こえる。見上げると“30センチ位の大きさ”に、見慣れない型の一機が飛来。
上空に鴨池航空隊からの発砲の爆裂音、ポンポンポンと空に丸く白煙が打ち上がる。
(途中略)
敵機はゆうゆうと去って行った。B29、高度1万メートル。これが鹿児島市に初めての敵機だった。
“少しも恐ろしく感じなかった。余りに美しい重量感のある飛行機に、ただ見とれていたのだった。そしてやがて全身に恐怖が走った”。

A敵機、初めて鹿児島の上空に現れる 初めて見る敵機に感動 
はじめて見る敵機(それがB29であると知ったのは後のことだった)にただ感動を覚えた。日光を受け、銀色に輝いていた。今まで見た日本の軍用機が鼠色をしているのに、米機が白銀色であることも初めて知った。
敵機の来襲の恐ろしさとか、敵機に対する憎しみということなどを乗り越えた、感動である。胸の高鳴るのを抑えることができない。それが何の為であるとか理由はない。
高射砲の打ち上げられる数も多くなったが、敵機の左右または前方と炸裂する煙がよく見えるが、なかなか当たらない。むしろ届かないのである。
“なぜ日本空軍はあの敵機を撃墜しないのかと、腹立たしくさえ思った。」

鹿児島市上空を飛んでいたB29は、旧山川町上空から南方へと去って行ったそうです。

B空襲の日々 
アメリカの飛行機が初めて山川港の上空に飛んできたのは、昭和20年1月1日の朝であった。私達はちょうど拝賀式に出ようとしていた。かなりの高度を飛んでいるためだろう、ほとんど爆音も聞こえず白く光りながら、流れるように南の方へ飛んで行った。
日本の飛行機が迎え撃つとか、後を追うということも全くなかった。「どこに何があるか偵察に来たに違いない」と私達は言い合った。
不気味な年の明け方であった。

これ以後、鹿児島の上空にはB29や艦載機などが通過し、警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り響くようになりました。が、爆撃はなく、警報が鳴っても急いで避難する人もなかったようです。
しかし、アイスバーグ作戦(沖縄上陸作戦)と特別攻撃に対処するため、アメリカ軍にとって南九州は重要な攻撃目標となっていきました。
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2015年06月02日

戦争体験集

以前、『鹿児島市戦災復興誌』や『鹿児島市史』、『鹿児島県史』などから鹿児島市の戦災に関する記事を掲載しました。先々月あたりから戦争体験集を読み始めています。
体験集を集め読み始めたきっかけは、3月18日の鴨池航空隊の空襲でした。
戦災復興誌では航空隊施設が被害を受けたとありますが、正確な数は分かりませんが、民間人も犠牲になっていました。このときの死者は8人と復興誌などには記されていますが、体験集によれば30名ほどの航空隊員が亡くなっていたようです。
この日の空襲につきましては、後日触れる予定にしています。

さて戦争体験集を読んでいますと、被災状況をかなりリアルに書いているものもあります。
読んでいて辛くなったり、生々しい描写に気分の悪くなるものさえあります。
筆者が目を通した体験集は、まだまだ数が少ないのですが、そこに共通することは「二度と自分たちを同じ思いをさせたくない」という強い気持ちがあるようです。
また空襲によって障害を負わされた被災者や戦災孤児たちには、戦後まったく補償されていないということも分かってきました。

鹿児島市の場合、初めて空襲を受けたのは昭和20年3月18日のこと。終戦までのたった5ヶ月間で死者3329人、負傷者4633人、行方不明35人、その他10万7388人という大きな被害を被ったそうです(鹿児島市戦災復興誌の罹災状況から)。
これら死傷者の数は、判明したものに限ったもので、実際はもっと多かったように思われます。
それについては、3月18日の空襲のところで触れてみます。

戦争体験集
南日本新聞社ではこの年、「鹿児島空襲」という戦争体験の連載を85回掲載しています。
筆者が目を通した戦争体験集のなかで、もっとも古いものになります。
また同年1月14付の新聞では、空襲体験募集と戦争体験者三人による座談会の記事が掲載されています
記事の冒頭、空襲体験を募集する意味を次のように記しています。

「本社はいま鹿児島県内の空襲体験記を、県民諸者の方から募っています。いまになって被災記録をまとめようとするのは、鹿児島県内は全国でも有数の被爆地でありましたが、全権的な記録はまだ整備されていないからです。戦後、四半世紀以上を経て、もはや戦後ではないといわれます。しかし、あの空襲の体験は、一生忘れることのできないことだと思います。悲惨な思い出を、二度と繰り返さないために、庶民の目に焼き付いた空襲の体験を正確な記録に残して、後世に残す義務があると考えます。」

当時、全国20以上の都市で「空襲・戦災を記録する会」の運動が盛んに進められていたそうです。昭和47年8月12日付南日本新聞に、「全国に広がる空襲・戦災の記録運動」といいう記事が掲載されています。
運動が盛んになった根底には、国内での空襲被災の記録が残されていないこと。四半世紀以上経った昭和47年、空襲に遭った体験を持つ人たちの年齢も高くなり、いま記録を作っておかないと、後世に伝えられないという危惧があったようです。
すでに徳島、富山、神戸、名古屋、青森、大阪、那覇、北九州、東京などでは記録を集めた冊子や単行本が刊行されていました。
鹿児島をはじめ、これに続こうとする地方も多くなっていたそうです。
また、戦時中を描こうとすると、当時の新聞は正確な被災状況を伝えていません。
そこで多くの体験談を集め、その中から当時の歴史を構成しようという考えがあったようです。

同記事では、「無視された庶民の感情」として次のように記しています。
「戦後、空襲被災者には全く補償に値するものがなされなかった。被害を受けた庶民は無念の気持ちをかみしめたまま27年間を過ごしてきた。経済大国といわれる繁栄と平和の中に戦争の記録が薄れて行き、軍靴(ぐんか)の音すら聞こえてこないわけではない」

この当時、軍靴の響きを危惧するような事態が国の中枢であったのかもしれません。

鹿児島の戦争体験集
今のところ、筆者が目を通した戦争体験集で最も古いものは『鹿児島空襲』(南日本新聞昭和47年連載)になります。
その次が、『鹿児島県の空襲戦災の記録 第1集鹿児島市の部(鹿児島県の空襲を記録する会)』昭和60年刊になります。

なかには、記憶が混同していると思われる記述もあるようです。また、鹿児島市が初めて空襲をうけたのは昭和20年3月18日ですが、体験集のなかには4月8日を初めてのものとする記述もあります。
そこには、当時の居住地域・報道管制など事情から、記憶違いとは簡単にいえないところもあるようです。
その辺を少し整理しつつ読み進めていることから、時間がかかっています。
気長にお待ちいただければ、助かります。

これまで参考にした体験集は下記のとおりです。
1.鹿児島県の空襲戦災の記録 第1集鹿児島市の部(鹿児島県の空襲を記録する会)
2.終戦六十周年戦争体験文集・伝えたい私からあなたへ 戦争の悲惨さと平和の尊さを(生活協同組合コープかごしま)
3.語り継ぎたい戦争と空襲の体験(かごしま県民生活協同組合)平成元年刊行
4.忘れまい、あれから五〇年(コープかごしま)
5.戦争体験文集五十年目の真実、次世代への伝言(鹿児島県老人クラブ連合会)
6.戦後六十年平和を祈って語り伝えたい私達の戦争体験(鹿児島県老人クラブ連合会)
7.南日本新聞連載「鹿児島空襲」昭和47年
8.南日本新聞連載「60年目の証言」
9.南日本新聞ひろば
10.動員学徒殉職50年追悼式典記念文集(鹿児島高等学校)
11.不断の響き(旧制鹿児島中学校同窓会・平成9年刊)
12.実践学園七十年史(昭和52年刊)
13.私の戦争体験 (上) (かごしま文庫 (23))
(春苑堂出版)など。
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